甘いカフェ・オ・レ
春風に舞い散る花びらが、穏やかな光の中で、小さく色づいていた。ピンクの花びらが、黄色い光を受けて、一層明るく、きらめいている。花吹雪のトンネルを、向こう側から歩いてくるあの子の髪は、光沢のある真っ黒で、すかれるようになびいていた。なんだか、写真みたいだ。
私はついうっかり見とれてしまった。ぼうっと立ったまま、その子を見ていた。
ふいに、それまで並木の方を見ていたその子が立ち止まった。数十メートル先から、こっちを見ていた。私は慌てて気を取り直し、走り寄って声を掛けた。
できるだけ普通の声を出そうとしたけれど、ちょっと上ずってしまった。喉がつっかえて、思うように声が出なかったんだ。けれど、必死で声をひねり出している内に、その子はだんだん表情を柔らかくしてくれた。といっても、ハッキリは分からない。ただ、春の光より穏やかな微笑みが、穏やかに口もとを照らし始めていた。
「こんにちは、あなた、新入生だよね?」
その子はうなずいた。私は、たたみかけるように言った。
「はじめまして、だよね?」
また、うなずく。少し残念な気分になるけれど、とにかく、ここは押さないといけないんだ。私は、必死だった。
「私、経済学部3年の、平澤命と言います。よろしく」
そう言って手を差し伸べた。その子は、ちょっと戸惑ったようにあたりを見た。私は、じっと視線を投げかけつづけた。
やがて、あたりに誰もいないことを確かめたからだろうか、その子は、静かにうなずき、お辞儀をしてくれた。
私が笑って手を振ってみせても、その子は、なかなか手をとってくれはしなかった。まだ、ちょっと照れくさいんだろう。そう思い、私は、ずいっと歩きよって手をとった。
その子の目が大きく見開かれた。真っ黒な瞳が、穏やかに染まるももいろの表情の中で、小さく揺れていて、なんだか、おかしい。
私は、自然に笑いながら、その子の手を引いて、会館へ向かって、歩き出していた。
それから、私たちは、部室まで行った。その道すがら、自己紹介を済ませ、私たちの活動目的について話した。小夜子は、なかなか緊張を解いてはくれなかったけれど、今にして思えば、仕方ないと思う。あんまりだ。なんというか、毒されていたなと、自分を振り返る。今でも、その余波は確実にある。だから、決して同時の自分を責めるわけじゃない。けれど、ちょっとやりすぎだ。後から、森ちゃんに苦言を呈されたことを、その時はなんとも思わなかった。けれど、今にして思えば、確かにやりすぎだ。
全ては中村さんが悪いんだと、言い切ることもできる。だって、私をここへ引っ張ってきて、この手法を伝授してくれたのは、先代部長であった中村さんだ。それに、2年の時、それを実践するようにと指示を出したのも、中村さんだ。今は、もう卒業してしまっていないけれど、その薫陶は、私の中に深く根付いているようだ。
ごろんと寝返りを打つと、森ちゃんの背中が見える。
「おはよう」
声をかけてみる。ちょっと喉が枯れてしまった。変な夢を見たせいかもしれない。気分も、ちょっともやもやする。
「おはようございます」
森ちゃんは、律儀にこちらを振り返り、軽く頭を下げてきた。
「寒くないですか?」
「いや、別に。なんで?」
「いや、窓ぎわで、何も掛けずに寝てたものですから」
そう言われて、ハッと体を起こす。腰のあたりにずり落ちていく温かさを感じた。汗をかいたせいだろうか、肩が冷えた。
ずり落ちた毛布は見慣れないものだった。不思議に思って手に取ると、森ちゃんが教えてくれる。
「隣の部屋から、持ってきたんです。ちょっと埃っぽくて、申し訳ないんんですけれど、起こすのも悪かったですし、でも、風邪をひかれてもまずいなと思って」
そう言いながら、毛布を回収し、丁寧に四ツに折ってたたんでいった。私は、ぼうっとそれを眺めながら、上着に手を伸ばした。
「そう。ありがとう。起こしてくれても良かったんだけど」
「いえ、まあ、気持ちよさそうに寝てましたし」
「そんなだった?」
「はい、それはもう」
私は、ちょっと気まずくなって森ちゃんをうかがった。けれど、毛布をたたむのに必死で、こちらを見てくれてない。ちょっと腹が立つ。
毛布を畳んでしまうと、森ちゃんは、それを持って、出て行ってしまった。
ひとりぼっちになって部屋の中を見渡す。
部室は、いつにましてキレイに整頓されていた。デスクを囲むように置かれたパイプイスは、もうクッションが剥がれかかっている。いい加減腰がいたいんだけれど、会計が財布のひもをきつく締めていて、どうしても買い換えてくれない。だから、皆自前でクッションを持ってくることが多かった。それが、部屋の端に積まれていた。
本棚の半分は文庫本、残りは楽譜だった。最近、新譜の割合が上がってきたような気がする。それはそれでいいんだけれど、いくつか分のお金を新しいイスに回してくれたっていいだろう。いつも言っているんだけれど、会計の子だけじゃなく、他の子まで、なぜか反対するもんだから、私の提言が容れられることは無かった。残念だ。
ティッシュで鼻を噛んでいるところへ、森ちゃんが戻ってきた。
「そろそろ、帰りませんか。もう7時になりますよ」
腕時計を見ながから言う。そんなに寝ていたんだろうか、窓の外は暗くなり始めていた。
「めっちゃ寝てたの」
「ええ、それは、もうずいぶんぐっすりと」
森ちゃんは、生真面目にうなずく。腹が立ってきて、何も答えずにバッグを取り、帰り支度を始めた。
森ちゃんも、何も言わずに片付けを始める。といっても、荷物の少ない子だから、手に持っていた文庫本をしまい込み、チャックを閉じ、肩に掛けるだけだ。
「上着は?」
「ないですよ」
「傘は?」
「今日はいい天気だったじゃないですか」
「そっか」
それから、並んで外に出て、鍵を掛けた。
森ちゃんは、携帯を取り出して、カチカチといじっていた。
「メール?」
「いえ。何も来てなかったです」
「そう。閉まったよ。行こうか」
「はい」
私たちは、何も喋らずに廊下をたどり、階段を降りた。
守衛さんに挨拶をして、正門へ向かう。
伸びをすると、凝った肩のあたりが音を立ててほぐれていく。夕暮れの穏やかな風が気持よかったけれど、首のあたりが冷たい。
「明日って、なんかあったっけ」
ぐるぐる首を回しつつ、後ろからついてくる森ちゃんに話を振ってみた。
森ちゃんは、ちょっと考えるように首を傾け、何度か瞬きをした。
「土曜ですからね。なにもないんじゃないですか」
「あーそっか。休みかあ」
「はい」
私は、頭のなかでカレンダーをめくってみた。
秋になってから、ずいぶん気温も落ち着いてきた。もう、海に行くには寒いだろう。この週末は、珍しく何の用事もない。けれど、試験やらゼミやらで、何かあるんじゃないかと、少し不安になる。そんな仲秋だった。
「だんだん涼しくなってきたね」
「はい。過ごしやすいですね」
「いいことじゃない」
「はい」
森ちゃんは、何度かうなずいてくれる。けれど、いつものように、何か考えているようでもあった。
だから、やたらと話しかけることもできず、私は黙って足を進めた。
去年は、まだいろいろと話を続けることに躍起になってみたけれど、もう、だいぶ慣れた。この子は、こういう子なんだ。無理に続けようとしても、続かない。だって、そのためには、よっぽどこっちが頑張らなくちゃいけない。あるいは、また地雷を踏んで、長ったらしい数学の話を聞くハメになる。
それがイヤってわけじゃないけれど、いまは、ちょっとそんな気分じゃない。秋の夕暮のひとときを、数学の話をしながら帰るような、そんなのは、お呼びでない。
だから、黙って正門をくぐり抜け、駅で別れ、電車に乗った。
ぼうっと揺られながら、夢のことを思い出す。
あれから、もうすぐ半年経ってしまう。小夜子も、ずいぶん馴染んできた。その友人だという唯が、5月ごろに参加してから、部活も、だいぶ締まってきたような気がする。去年のように必死にならなくても、人が集まるようになってきたし、何より、会話のできる輪が広がった。私は、ちょっと安心できた。それで、この渦巻く心に、決着をつけようという気になってきた。
小夜子は、文学部の1年生で、髪の綺麗な子だ。
真っ黒な地毛を、長く背中の真ん中辺りまで下ろしていて、それが、どうしてか、様になっている。ちょっとうらやましい。私は、黒にしては明るいし、茶髪にしては暗い色だから、ああいうきらびやかな黒い長髪に、憧れる。癖のない真っ直ぐな黒髪を、ストンと垂らして、やまとなでしこしてみたい。けれど、それにはお金が掛かりすぎる。憧れはあるけれど、できない。だから、小夜子の髪が、本当にうらやましい。
そして、森ちゃんとは別の方向で、考え深い子だ。文学少女というのとも、毛色が違う。本は好きみたいで、たまに森ちゃんと話し込んでいることもあったけれど、どうも、好きなジャンルが違うみたい。
森ちゃんは、数学か、物理を好む。小夜子は、どうも、恋愛小説とやらが好きらしい。残念ながら、私は、どちらもあまり好みでないし、そもそも本自体が好きじゃない。だから、ふたりが話し込んでいると、入り込めなくて、ちょっとむかっ腹が立つ。
先週の水曜だったか、部室に行くと、森ちゃん・小夜子・唯の三人が、真剣な顔をして話しあっていた。ちょっと緊張しながら混ざってみると、森ちゃんが、生物の教科書を持ってきていて、それを広げて講釈を垂れていた。
緊張して損をした。まさにそんな感じだ。けれど、ふたりはマジメにそれへ聞きいっていた。
ちょうど、遺伝の話をしていて、二重らせんと、転写の話だった。私は、一応勉強した身だから、あんまり新鮮味が無かったけれど、ふたりは、まさに真摯な表情で、一心に聞き入っていた。何がそんなにおもしろいのか、分からない。ただ、森ちゃんの説明は、とても分かりやすかった。事務的で、平板な口調だけれど、かえってそれが良かった。本当に大事な部分だけつなぎあわせて、しかも、誰もがつまずく用語のところは、うまい具合に説明をしている。さらに、全体としてきちんとまとまっていた。
悔しいけれど、ちょっと感心してしまった。それでも、30分ばかり放って置かれた恨みは、忘れられず、その後、きちんとコーヒーを買ってもらった。
小夜子は、えらく感心した様子で、生物基礎の本について、さらに幾つか話を振っていた。森ちゃんは、それの一つ一つに、丁寧な説明を返していた。
なんだか、不愉快だった。ふたりが、そんな親しくなっていたなんて、ちょっと意外だったし、それに、せっかく小夜子と会話できる数少ないチャンスを、森ちゃんが完全に横取りしちゃったものだから、私はすっかり面白くなかった。唯が、気を使ってか、こまめに、こっちにも話を振ってくれたけれど、きちんと返事ができなかった。それで、いっそうむかついた。
電車が止まり、降りると、ずいぶん冷え始めた夜の風が、背中を震わせる。階段を降り、定期をタッチすると、家はもうすぐそこだ。
この週末中に、何か動き出しておきたくなった。来月になると、また忙しくなっちゃう。だから、今月中、できれば、今週中に、スタートを切っておかなきゃならない。
小夜子は、本当にキレイで、いい子だ。だから、早くしなくちゃという思いもある。ギュッとバッグの紐を握りしめて、私は家に帰り、ご飯を食べ、部屋でメールを練った。
とりあえず、まずは、向こうの予定を聞かなきゃならない。長話になるかもしれないし、時計を確認した。まだ8時だから、迷惑ってことはないだろう。とりあえず、第1打を送る。
返事は、思いのほか早く来た。どうやら、本を読んでいたところらしい。
明日なら、空いているとあった。明後日は、バイトだと言う。日曜なのに、大変なことだ。
明日、買い物でもいかないかと誘えば、いいですよと返ってくる。まずは、クリアだ。いまだかつて、たったこれだけのメールで、こんなに緊張したことはない。よくからかわれる理由が、少しだけ分かった気がした。
それから、時間帯と、集合場所を決めた。小夜子のメールは、質実剛健といった感じで、ちょっと感情が伝わってきにくい。けれど、顔文字やデコメでびっしりなのも、読みにくくて困るし、そんなのは、小夜子に似合わない。たぶん、これが適材適所ってやつなんだろう。私も、顔文字は、あれば笑えるから好きだけれど、デコメや絵文字は好きじゃない。だから、ちょっと嬉しかった。こんな小さなことでも、共通点があるというのは、やっぱり嬉しくなる。
それから、じっくりと時間を掛けて考えた。どこへ行くか、道順をしっかり練っておいたほうがいい。もちろん、その通りにことが運ぶなんて、これっぽちも思わない。だいたい、ウィンドウ・ショッピングってのは、目移りするもんだ。目移りを楽しんで、思わぬ出会いに期待するもんだ。だから、その通りに動こうなんて思わない。ただ、ある程度、気になるお店に、迷わず行けるようにしておくのは大事だ。あと、お腹が空いたり、のどが渇いたりした時のために、きちんと、飲食店の位置を把握しておくことは、もはや必須だ。それが欠けると、思い出ってのは、思ったよりくすんでしまう。だから、そこには力を入れた。もともとある程度気になっていたお店について、情報を集めておく。こういった地道な調査が、成功の秘訣だと、講義でも何度も教わった。それを実践している私は、きっとえらいに違いない。そう思うと、不思議と笑えてきた。
ただ、ネットは面白すぎて、思わず時間を過ごしてしまった。だから、朝が辛い。
けれど、ここで頑張らなければ、意味が無い。そこで、私はうんと早起きをして、シャワーを浴び、頭を冷やして、服を着た。
時間は、まだ7時くらいで、約束の時間まで4時間ある。時間を掛けて移動したって、3時間くらいは空きがある。
ブラックコーヒーを入れて、湯気を楽しみながら、考えを整理した。
小夜子は、綺麗な子だ。化粧はあんまりトライしてこないけれど、その若さのせいもあって、頬は柔らかく、すべすべと清潔で、吸い付きたくなるような魅力がある。
その手を、握りしめていたい。それから、ギュッと抱きしめたい。抱きしめて欲しい。その様子を想像すると、胸の奥に、ほのかなひだまりができるようだ。
いつからかは、ちょっと分からない。でも、今思い出す小夜子の顔には、なんだか、穏やかな小春の光が差し掛かっているようで、暖かで、きらめいていた。私は、じっとマグカップを抱えたまま、静かに想いを噛み締めた。
何度も携帯をいじり、洗面台に戻っては、髪をいじってみた。鏡を見る度に、もうちょっとなおした方がいいんじゃないかという思いが、反射する。けれど、ちょっといじってみると、やっぱり元のほうがいいような気がしてくる。不思議だ。どうしても、落ち着かない。こんななら、もうちょっと寝ておけばよかったんじゃないか。
そこまで考えて、私は笑ってしまった。いまだかつて、こんなに不恰好な朝を迎えたことはない。
寝坊した朝のほうが、もうちょっと「朝」の忙しさやなんかを抱えていて、締まっていた。
2杯めのコーヒーを淹れる。良く炒られた豆の香りが、温まり始めた部屋の空気に混じって、広がっていった。口を寄せると、鼻をくすぐる湯気が心地よい。マグカップに口づけて、一口すする。ジワジワと下を伝わる苦味、遅れてやってくる酸味で、きゅっと口がすぼまってしまう。
朝なんだ。思いを新たにして、私は目を細めた。
時間までに、3杯めのコーヒーを飲んだせいか、ちょっと胃もたれしてしまった。けれど、駅まで歩く間に、少し外の空気を吸って、気分を改める。やってみなけりゃ、どうなるか分からない。出たとこ勝負は、あんまり好きじゃないけれど、でも、それが気楽でいい。そんな位で、私は出かけた。
電車に乗って、20分、待ち合わせの駅につく。約束の時間まで、まだ10分くらいあった。たぶん、小夜子のことだから、5分前にはくるだろう。そう思って、適当な柱に肩を寄せ、携帯をいじった。
時間は今53分になったばかりだった。あと少しで来る。そう思うと、ちょっと緊張してしまう。コーヒーのせいか、お腹のあたりがムズムズしてきた。変な物を飲んでしまった。けれど、紅茶を飲むのは、トイレが近くなってイヤだ。だから、しょうがない。家には、気の利いた飲み物はあんまりない。たまに、ジュースを買ってみるけれど、冷たい飲み物はお腹をこわすからいやだ。不便な体だけれど、しょうがない。
そんなことを考えている内に、時間になる。私は、柱からちょっと離れて、駅の中を見た。次から次へと、人が出てきては、あちらこちらに散っていく。ひとりで足早に去っていくサラリーマンみたいな人も入れば、たぶん大学生だろう、ふたり組、三人組で、話しながら映画館の方へ消えていく子たちもいる。それが、羨ましい。きっと、家が近いんだろう。羨ましい。それなら、帰りを気にしないで、いろんな会話ができるに違いない。そう思うと、なんともやりきれない。
そのうち、見慣れた姿がエスカレーターの中に見えた。ドキッとした。別に、普段と変わった様子はない。いつものように、シャツにスカート、コートを着ている。誰かに影響でもされたのか、最近、機能性を重視し始めていて、それはいただけない。けれど、大事なのは中身だ。
手を振ると、小夜子も、すぐこちらに気づいたようで、小さく振り返してくる。
エスカレーターを降りると、パタパタと小走りに寄ってきた。
「おはようございます。お待たせしちゃいましたか」
「ううん、さっき着いたところ。たぶん、早めに来るだろうって思ったから、それよりちょっと早くつくようにしてみたの」
「すみません」
小夜子が頭を下げると、つむじが見える。そこから、後ろに向かってさらっと流された黒髪が、昼前の太陽を浴びて、たおやかにきらめいている。
「さて、それじゃ、行きますか」
「はい。行きましょう」
小夜子が顔を上げると、私たちは、街に繰り出した。
街は、土曜日の午前ということもあってか、それなりに混んでいる。けれど、ふたりで話しながら歩くには、ちょうど良かった。
まず、駅ビルの中にできた洋服屋さんに行って、いろいろと試着してみた。今日の目的は、服を買うついでに遊ぶことだった。あとで、カラオケに行こうと思う。前、一度、皆で行ったきりだけれど、その時の小夜子の声を、もう一度聞きたかった。
独特の声だった。なんというか、耳の中に直接差し込んでくるような、地の強い声だった。キレイだった。それが、忘れられない。だから、楽しみだった。
ウキウキしつつ、色々な服をふたりで眺める。冬物が目立つ季節になった。ブランドものもたくさん並んでいるけれど、それを買うには、ちょっとお財布が厳しい。だから、これはあくまで当てるだけだ。
小夜子は、どうも、シャツに思い入れがあるようで、熱い視線を送っている。私としては、もうちょっと可愛い服装をして欲しいんだけれど、ただ、本人はもう懲りたと言う。
「だって、動きづらいじゃありませんか」
「そんなでもないでしょ。動きやすくたって可愛い服はあるじゃない」
「それはそうですけれど、あんまり綺麗な服を買っちゃうと、もったいなくて着れない質なんです」
「いくつか買えばいいよ。そうすれば、嫌でも着ようって気になるじゃない」
「そんな! もったいないじゃありませんか」
「いや、別に高い物を買えって言ってるわけじゃないよ。お手頃なやつでもあるよ」
「たしかにそうなんですけどね」
「シャツだって、別に安くはないじゃない?」
「それはそうです。間違いなく」
そう言って、小夜子は、クスクスと笑った。その様子があまりに細やかで、私はほんのりと微笑んでしまう。けれど、首から下が問題だ。うっすらピンクのシャツを来て、ベージュのコートを着ている。もうちょっと何とかならないんだろうか。
「アクセサリーとかは、付けないの?」
「掃除が大変じゃありませんか」
「えっ? 掃除?」
私が驚いて聞き返すと、小夜子の方は、もっとびっくりしようにのけぞった。
「だって、腕時計の手入れって大変じゃありませんか」
「いや、腕時計は……どんな掃除をするの?」
「ええっと、盤面をガラス拭きで拭いて、裏面も拭いて、場合によっては爪楊枝で溝に詰まった汚れを落とします。汗をかいたような時には、さらに消臭剤の混じったウェットティシューで吹いたりもしますね」
私が言葉を失っていると、小夜子は困ったように首を傾げた。
「しませんか」
「いや、そこまでは、さすがに……」
「でも、腕時計は壊れやすいですし、まめに手入れをした方がいいですよ」
「うん、気をつけるね。でも、アクセサリーは、そこまでまめに手入れをしなくても、壊れたりしないよ」
「そうなんですね」
感心したように何度もうなずく。私はおかしくなってきた。
人のこと言えないけれど、小夜子は、ちょっとしたことでも、えらく感心する癖がある。そのたびに、こうして深くうなずいてくる。それは、話す側としては、なれないとちょっとやりにくい。けれど、一度慣れてしまえば、むしろ、話しやすくなっていい。こっちとしては、大したつもりじゃないことでも、ちょっと大げさでも、こうして感心されて、悪い気はしないというのが、本音だった。人間なんて、単純なんだ。とくに私みたいな人間は、すごく単純だ。もうこんなに笑いがこみ上げてくるんだから。
ふふふ、と笑っていると、小夜子は、なにを思ったのか、ちょっと気まずいような表情で頬を赤らめた。それが、なんとも可愛らしくって、なお笑いがこみ上げてくる。
クスクスやっていると、とうとう、小夜子はそっぽを向いてしまい、ぶっきらぼうに言う。
「そんなに、笑わないでくださいよ。恥ずかしいじゃありませんか」
「いや、だってさ、可愛いから」
「まったく、笑われる身にもなってください」
へそを曲げた小夜子をなだめつつ、時間を見て、私はご飯にしようと言った。結局服は買わなかったけれど、もう十分だった。ほっと、胸がいっぱいになれたんだから、決して悪い気はしない。
エスカレーターを使って下へ降り、近くのファミレスに行く。
デパートの上だと、高すぎていけない。勿論、たまにはそういうところでご飯を食べるのもいいんだけれど、いつもって訳にはいかない。だから、いつもは、こういうところで済ませる。
それに、ファミレスだって、バカにしたものじゃない。お店によって品揃えは偏っているけれど、味だって悪くはない。値段はまあまあだが、ドリンクバーもあるし、気楽でいい。時間を取れるというのも、だいじなポイントだろう。
店内は、少し混み始めていた。ふたりで窓ぎわの席に座り、メニューを眺めながら、また少し笑った。
小夜子は、頭から順番にメニューを検査していた。私は、フェアのページを一読してから、中に進み、スパゲッティを見た。
スパゲッティは好きだけれど、今日は遠慮しておく。スパゲッティを食べるときには、服装を選ぶし、シミが出来ないように食べるのは、結構集中力を要するから、小夜子と話ができなくなりそうだ。ひとりだったら、なんのためらいもなく、スパゲッティにしているところだけれど。
それから、結局、サワラの御膳を頼むことにした。小夜子は、やっと半分くらいメニューを見終わっていたところだった。
「ずいぶん熱心だね」
「ええ、なんだかおもしろいじゃありませんか」
「おもしろい?」
意図を掴みかねて尋ねると、小夜子は顔も上げずにうなずいた。
「なんだろう、こういうお店で見る食べ物って、やっぱりキレイに、人目を引くように作ってあるんだろうなって思うと、勉強になります」
それを、至って真面目な顔で言うもんだから、私は堪えきれず、机に突っ伏した。
「えっ? どうしたんですか?」
小夜子の困ったような声が耳を打つ。その調子から、本気で困っているんだろうことが伝わってきて、なお可笑しさが止まない。
肩を震わせていると、小夜子の戸惑いがハッキリ伝わってくる。下を向いているから表情までは分からないけれど、きっと眉を寄せたり、瞬きをしたり、うんと悩んでいるに違いない。
「あの、そんな笑うところ、ありましたっけ?」
「いや、だって」
私は、息を整えながら、顔を上げた。
果たして、小夜子の顔は真っ赤だ。肩を竦めているようだ。目もとは羞恥に垂れ下がっている。それが、またツボを刺激してくる。
「いや、ごめん、でも、そうだよね、勉強、なるね」
「そんな、おかしかったんでしょうか?」
聞いてくるさまは、メニューに半分隠されて見えない。私は立ち上がり、席の隣に腰を移した。
小夜子の赤い鼻の頭が、冊子の上に見え隠れする。鼻をすすり上げていた。
「ごめんごめん、でも、あれだよ、うん、かわいい」
「もう! からかわないでください!」
そう言って、小夜子は瞬きをした。
少しして店員が着た。注文を聞かれる。私はサワラを、小夜子はちょっとページを捲ってから、結局サバの煮付けを選んだ。
「ドリンクバー、取ってくるけど、何がいい?」
「あ、じゃあ、冷たいものください」
「ジュースとか? 炭酸は?」
「はい。炭酸なしでお願いします」
「オッケ」
私は、荷物を小夜子に任せて、ドリンクバーに向かう。飲み物を汲みながら振り返ると、小夜子は、またメニューを読み込んでいた。やっぱり、ちょっとおもしろい子だ。けれど、それに、すごく惹かれた。
なんだろう、ああいうおかしさみたいなものに、ずっと憧れているんだろう。自分にないものに憧れる。本能なのかもしれない。私は、ため息をついて、そっと胸に手を当ててみた。
ドキドキする。色々な思いが溢れてくるんだ。だから、どうしても、やらなきゃいけないんだ。
席に戻ると、小夜子は、あらかたメニューを片付け終わったところだった。そそくさとそれを畳んで机の端に戻し、ジュースを飲み始める。私は、冷たいレモンティーを一口飲んで、窓の外を見た。
外はよく晴れていた。青い空に、散り散りになった雲が、ゆっくりと歩いて行く。なだらかな太陽のグラデーションが、街中に活気を与えていた。レモンみたいに爽やかだ。気分がふっと軽くなる。
ご飯が来るまで、しばらく午後の話をした。カラオケに行こうと言うと、小夜子は二つ返事で賛成してくれる。
「前、一緒に行ったじゃない? あの時、何歌ったっけ?」
「ええと、もうよく覚えてません。すみません」
「いや、いいよ。そんなもん。あの時、すごくキレイだったよね」
「そうですか? ありがとうございます」
「うん、本当に。また聞かせてほしいな」
「いえ、私も、平澤さんの歌、また聞きたいです」
「そう? じゃ、いつでも言ってよ。アカペラで良ければ、歌うよ?」
「えっ?」
小夜子が、目を丸くする。私はおかしくなってまた吹き出した。すると、今度は、バツの悪そうな顔になって、唇を尖らせた。
「好きですよね。からかわないでくださいよ」
「いや、だって、可愛いから」
「もう、いつもいつも可愛いからで済むと思わないでくださいよ」
「ええ、ごめんね」
二つ年下の子は、まだ新入生のあどけなさを残していて、それが、すごく懐かしかった。でも、私はそれをどこかに落としてきちゃったもんだから、なんだか、ただ羨ましいだけじゃなかった。そういうものを、ずっと持ち続けている小夜子に、私は惹かれていた。
可愛いっていうのを、こんなにしょっちゅう言っちゃったら、褒め言葉にならないんじゃないかと思う。でも、私は、ついうっかり口をついて出るその言葉を、止めることができない。だって、それは、直に湧いて出る私の本心だ。だから、私は、それを止めることができなかった。
また紅茶を飲む。小夜子は、早くもジュースを飲みきって、ドリンクバーに行ってしまった。頬杖をついてそれを望むと、小夜子は、楽しそうに氷を取り出していた。それから、機械の下にセットして、ちょっと考えてから、一番上のボタンを押していた。そういう一つ一つの動作に、頬が緩むのを止められなかい。私は、ため息を吐いてごまかした。
ご飯がやってきて、私たちは、ものも言わずに食べた。私も結構よく食べるほうだとは思うが、その点で小夜子に勝てる子を知らない。小夜子は、器用に箸を使い、皮を剥がし、身を裂いていく。サバはあっという間になくなった。ご飯を頬張る様や、もぐもぐと動く顎の周りにできた影が、食欲をそそった。
私はそれを眺めながら、切り身をちぎってはくわえた。甘い味噌を絡めて、熱々の玄米と一緒にいただく。漬物も、濃すぎず、歯ごたえもあって良い。これが健康に悪いなんて、どうかしてる。
結局喋っていた時間の半分も使わずに、お互いに皿を開けてしまった。
またドリンクバーに行き、ふたり分のせん茶を入れた。
小夜子は、湯のみを持ち上げると、目を閉じて香りを聞く。穏やかな湯気までも緑色に染まってしまいそうな光景だった。
今度は笑うこともなく、私もそうしてみた。目を閉じると、せん茶の茶葉の爽やかな香りが、鼻をくすぐる。思い出すのは、あの青い空だった。引っかかって残された雲たちが、湯気のように穏やかに流れていた。それから、また、あの桜並木を思い出す。両手に一杯の花びらを抱き、それを少しずつ降らしてくる。その花びらが、小夜子の髪の毛の間を縫って、そろそろと落ちてきて、なんだか、心が和む。
タップリと香りを楽しんでから、一口、ゆっくりとすすった。せん茶の香りが、中と外から同時に立ち上がる。狭い鼻と喉の間で、交じり合って、なんだか、感傷的になる。私は瞬きをして顔を上げた。
小夜子は、小さくうなずきながら、せん茶をすすっている。なんか、それが癖になってるみたいだ。
「おいしかったね」
「はい、とっても」
そう言って、はにかむように、小さく頬を緩ませながら、また何度かうなずいて、せん茶をすすっていく。
店内は、だんだんと混雑を極め始めている。私たちは、せん茶を飲み干してしまうと、席を立ってお会計を済ませ、外に出た。
外はいくらか暖かくなっている。少し暑い感じだった。人が多いせいかもしれない。通り過ぎる人たちにぶつかったり、はぐれたりしないように、道の端を肩を寄せあって歩く。それが、とっても嬉しい。やっぱり、私は単純なんだ。
さっきの約束通り、カラオケに行き、時間をとる。少し待ったけれど、むしろ、予約もしてないのに、10分そこらで入れたのだから、運が良かったに違いない。
またドリンクバーでジュースを汲んでから、部屋に行く。ふたりだから、思ったより広く感じられて、それは、ちょっと残念だった。
並んで座ってから、小夜子に先に入れてもらい、私はランキングを見ながら、それを聞いた。Jポップの軽やかなメロディーが、カラオケ特有の軽さでもって流れだす。小夜子の声は、それを落ち着けるように穏やかで、少し、低く感じられた。
Aメロが終わり、サビに入るところで、小夜子は、一瞬息を止め、強く息をすった。
それから、一転して速さの増すメロディーを押し返すように、しっかりと息を吐いた。
歌声が、マイクで弾かれて、部屋中に散る。私はそれに囲まれて、すこしクラクラした。
歌い終わると、小夜子は、席につき、息を整えながら、こちらを見てくる。
私はできるだけ明るくなるように笑ってみせる。
「すごかった。感動したよ」
「そんな大げさじゃありませんか」
ちょっと恥ずかしくなったんだろう、うつむきながら、それでも頷いている。
「ありがとうございます」
つぶやくように、小さく、ちょっとぶっきらぼうに言う。尖った唇が、ネオンで照らされて、控えめに輝いている。私はほっと息を吐き、適当な曲を選んで入れた。
リモコンを渡すと、ちょうど曲が始まる。ピアノの音が心地いい。マイクを握りしめ、立ち上がると、小夜子は、リモコンを抱きかかえたまま、こちらを見つめていた。
私は気恥ずかしくなって、顔を逸らした。なんだか、お腹が熱い。変に力が入ってしまったせいで、歌い出しが高くなる。適当なところで、喉を落ち着け、声を落とす。小夜子が喉を上下させて、つばを飲んだ。その音が、やたら大きく聞こえた。
曲が終わっても、小夜子は、まだリモコンを抱えたまま、ぼうっとこちらを見ていた。
「どう、だった?」
恐る恐る聞くと、小夜子はゆっくり息を吐きながら横に頭を振った。
「いい曲ですよね。それに、感情的で、情熱的で、なんていうんでしょう、良かったです。ありがとうございます」
そう言って、今度は縦に頭を振った。
「やっぱり、上手ですね」
「やっぱりって?」
「前に来た時を、思い出しまして、やっぱり、一番耳に残ってたんです」
「そうなんだ」
私は、腰を下ろした。ちょっと顔が熱い。なんだか、これじゃ立場が逆転だ。
それなのに、こっちに気づいてないらしい。小夜子は、まだ、感慨深げに頭を振った。それから、ようやくリモコンを抱え直して、タッチし始めていた。
しばらく、そんな感想タイムを交えつつ、交互に曲を披露しあった。曲が終わるたびに、私は小夜子を褒め、小夜子は私を褒めてくれた。こそばゆい。いつもの自分を思い出して、ちょっと小夜子には悪いことをしたかなと思った。思わぬことで反省した。
飲み物がなくなったので、取りに行くと言ったら、小夜子もついてきた。
ふたりで笑いながら、ドリンクバーに行き、私はオレンジジュースを汲んだ。小夜子はちょっと悩んでから、アイスティーを汲んだ。
「あれっ? お茶じゃないの?」
私はちょっと驚いた。
小夜子は、せん茶が大好物で、ウーロン茶だとか、紅茶だとかを飲んでいるところを見たことがなかった。しかも、紙パックのせん茶は許しがたいらしく、パックを買うときには玄米茶だし、ペットボトルのせん茶も、会社を吟味して買うくらいなのだ。
すると、小夜子は、うふふと笑いながら、あっけらかんと言う。
「いつも、平澤さんが紅茶飲んでるなと思いまして」
「なんで?」
「だって、あやかりたいじゃありませんか」
そういって、レモンのポーションを取り、紅茶に入れていく。
私は、答えることもできず、うつむいてしまった。
戻りましょうと背中を押され、慌ててうなずいた。
卑怯だと思った。でも、自業自得だ。部屋に戻ってからも、小夜子は上機嫌で紅茶を飲んだ。
「いいですね。レモンが強い方が好きかもしれません。爽やかで、胸がすっとします」
そう言って、また笑う。私は、オレンジジュースを啜りながら、やっとの思いで、シロップ入れた方が、香りが聞けていいよと言うだけだった。
気分が落ち着いてから、またお互いに曲を入れてまわった。相変わらず、小夜子はべた褒めしてくれるけれど、私は、短く答えるばっかりだ。小夜子の曲は、だんだんアップテンポなものに変わっていた。私も、負けじとハイテンションな曲を選んでみたけれど、なんだか、圧されてばっかしで、ちょっとしゃくだった。
小夜子の曲が終わった時に、ちょうど電話がなった。あと10分です、ご退室の準備をお願いします。そう言われた。電話を切ると、小夜子がこちらを見ている。
私は息を整えて伝えた。
「あと10分だって」
「そうなんですか。早いですね。もう2時間も経っちゃったんですね」
「うん」
それから、私はちょっと考えて、パーティー用の曲を入れた。
タイトルが表示されると、小夜子が驚いたように目を開いた。
「知ってる?」
私が聞くと、小夜子はうなずく。
私は、マイクを差し出しつつ、立ち上がるように誘った。
「これ、デュエットしない?」
小夜子は、マイクを受け取りつつ、笑って立ち上がってくれた。
「いいですね。やりましょう!」
「うん、でね、パーティー用にアレンジしてあるから」
「えっ?」
小夜子が眉をひそめた。
笑ってその不安を打ち消し、画面を指さす。早くも説明書きが出ている。
「画面に、いろんな指示が出るの。それをこなしていくっていう、ゲームみたいな感じ。おもしろいから、やってみよう」
「はい」
小夜子がちょっと緊張している。私は、やっと微笑みを浮かべることができた。やっぱり、こうじゃなくっちゃ。
最初は、色分けされた適当な文字が表示される。青、赤、緑の三色で塗り分けられた、意味のない文字がたくさん並んでいる。その中から、上に表示されている色の文字だけを読んでいく。今は青だ。すると、歌詞になっていると言う仕組みだった。
小夜子は、説明を読むのに必死で、歌いだしに追いつかけなかった。だから、私がリードしてあげる。2枚めから、小夜子が追いついて、3枚めになると、もうずいぶん慣れてきたようだった。難なく歌ってくれる。声域が違うんだけれど、それがちょうどいい具合にコーラスして、心地いい。小夜子の声と、私の声が、狭い部屋の中で交錯して、折り重なって、反射していた。
4枚目が終わり、サビが始まるところで、画面が変わる。
普通どおり、歌詞は下に表示されているが、上の指示が、変わった。
私は、左にいる小夜子を振り返った。小夜子は、あっけにとられてしまって、私を見返すばっかりだ。歌詞が抜けてる。けれど、そこは私がカバーする。
私は、じっと小夜子を見つめながら、空で歌詞を追った。小夜子は、画面と私を見比べながら、まごついていた。
そんな内に、サビは終わってしまう。間奏の間に、私はわざと、意地悪く笑ってみせた。
「ちゃんと歌って! 大事なところなんだから!」
「あ、はい! 頑張ります!」
そういう小夜子は、ちょっと不安げだ。それが、また、なんとも言えずにおもしろい。
やがて、2番が始まる。画面は、また最初に戻り、色読みだ。
こんどは、小夜子がちゃんとついてきてくれる。はじめから遅れることなくハモってくれていた。
でも、ちょっと緊張しているみたいだ。それが、声の端に現れていた。
やがて、Aメロが終わり、サビになる。私は、小夜子の方を向かずに、片手を開け、小夜子の手を取った。
小夜子の声が止まる。戸惑ったようだった。途中から、少し元気の無いような声がついてくる。けれど、歌詞がちょっと戸惑っていた。そんなんじゃ、愛は語れない。
最後の繰り返しになるところで、私は、また左を向いた。
こんどは、小夜子もちゃんと歌ってくれる。けれど、「隣の人を見ながら」の部分が、おろそかだ。たぶん、歌詞がちゃんと覚えられてないんだろう。それは、勝手に入れた私が悪い。だから、小夜子にはきちんと歌ってもらう分、見つめるのは、私が頑張った。
後奏になると、小夜子はふうっと大きなため息をついた。きらびやかなネオンのせいで、色が分かりにくいけれど、その頬はちょっと赤らんでいる。
私は手を握ったまま、少し小夜子に近づいた。
小夜子が、恨みがましくにらんでくる。けれど、それもなんだか暖かくて、私はふふふと笑ってしまった。
「ひどいじゃありませんか。からかわないでくださいよ」
「そんな、でも面白かったでしょ」
「そりゃ、もちろん、楽しかったですけれど!」
そういって、唇を尖らせ、マイクを置く。また、残った紅茶を飲みほして、大きなため息をついた。
「でも、こんな楽しみ方もあるんですね。知りませんでした」
「でしょう? 他にも、こういうゲーム形式のビデオがあるんだけど、あんまり面白いのがなくってね」
「そうなんですか」
「うん。だから、たぶんこれが一番の傑作かな」
画面に表示されていた指示は、全部で3種類。
『○色の文字を読め』
『右隣の人を見つめながら歌え』
『全員で手を握って歌え』
でも、今はふたりしかいないから、私は小夜子を見つめて、小夜子の手をとった。なんだか、後から恥ずかしさがやってきた。お腹のあたりが熱い。それが、頭の方にも伝わってきて、もう、顔が熱かった。
私も、ジュースを飲み干し、名残惜しいけれど、手を離した。暖かかった。ふかふかしていた。また握りたいと思った。けれど、それはとりあえずおあずけだ。
バッグを取り、急いで帰り支度をする。
レジでお会計をして、外に出る。日が、少しずつ傾き始めていた。
「早いね。もう昼が終わるんだね」
「そうなんですね」
小夜子は、ちょっとぶっきらぼうだ。顔が赤い。よっぽど耐性がないんんだろう。けれど、私だって同じだ。まだ、ドキドキがおさまらない。
駅まで、ゆっくり歩いた。人がいっぱいいたから、どんなに頑張ったって、走ったりできるわけないんだけれど、とにかく、ゆっくり帰りたかった。そして、私は後ろに小夜子の視線を感じて、また、顔に熱をこもらせた。
駅はすぐそこだ。もう、これで今日も終わりだ。明日、小夜子はバイトだから、あんまり遅くまで引き止めちゃ悪い。それに、なにも焦ることはないはずだ。だって、今日はこんなにいい日なんだから。
駅の改札で、立ち止まる。振り返ると、小夜子が目をパチパチさせていた。
「今日はお疲れさま」
「あ、はい、おつかれさまです」
そう言って、小夜子が律儀に頭を下げてくれる。微笑ましく、暖かい。
「私、ここなんだ。だから、これでお別れかな」
「はい。今日は、とても楽しく過ごせました。ありがとうございます」
「そんな、大げさだよ。こんなんで良かったら、いつでも」
「はい! また遊んでください」
なんだか、変な感じだ。私は、喉を鳴らした。小夜子も、一瞬きょとんとしていたが、すぐに釣られたように頬を緩めた。私たちは、改札の前で、最後の名残を惜しむように笑いあった。
笑い収まると、私は、手を振って、改札をくぐった。ホームへの階段を昇るとき、振り返ると、まだ小夜子はいた。目が合った。手を振ると、振り返してくれた。小夜子は、今日一番の笑顔をくれた。それでも、ちょっと寂しそうにしながら、元気よく手を振ってくれた。私は、ちょっと顔が熱くなるのを感じながら、手を振り返した。
外に上がると、風が強くなってきた。前から吹き付ける風が、心地いい。それで、登り切ったところで、ちょっと立ち止まり、風を胸いっぱいに吸い込んだ。
今日は、とにかく済んだ。もう、やることはやりきった気分だった。次は、どこに行こう。映画でも良いし、いっそ、水族館なんてのもいいだろう。きっと、小夜子は、マリンブルーの舞台で、うねる銀色のさかなたちを眺めながら、折れるくらい必死に首を振って、満開の桜の頬を散らして、笑うに違いない。それが簡単に想像できた。
けれど、冷めてきた脳みそのどこかが告げていた。まだ、これはスタートラインなんだ。とにかく、言わなきゃいけないんだから、早く済まさないとダメだぞって。けれど、今すぐっていうのは、なんか違う。例えば、次に水族館に行った時、そこでっていうのは、あんまりだ。
また食事に誘ってみよう。小夜子は、魚が好きなんだろうか。今日、私の向かいでサバをキレイに食べていた。その様子を思い出すと、ちょっと笑えてきた。最初から最後まで、小夜子は私を笑わせてくれる。
電車が来るまでの間に、携帯を取り出して、メールを確認した。もちろん、まだ何もきていない。とりあえず、小夜子にメールを送っておこう。今日は本当に楽しかった。それは、本心だ。また笑わせてほしいと添えて、メールを送る。
それが済むと、私は、別のメールを打つ。宛先は森ちゃんだ。とにかく、一言伝えておきたい。
元はといえば、今度のデートを勧めてくれたのは、森ちゃんだ。私が、悩んでいた頃に、それをやんわりと気づかせてくれて以来、森ちゃんには、迷惑をかけっぱなしだった。ちょっと小夜子に対して、卑怯な気はするけれど、でも、何も言わないってのも、筋違いなようである。
森ちゃんへメールを送ってしまうと、入れ替わりに小夜子の返事が来た。
いつもどおり、顔文字もデコメもない。けれど、なんだかビックリマークの数が多い。私はぷっと吹き出してしまった。でも、文面の端々から、楽しかったと伝えたい有様が浮かんできた。それを打ちながら首を傾げている小夜子の有様を思い浮かべると、ちょっと心が温まる。
最後のところに、生意気な一言を発見した。
『次は、私も笑わせてもらいます!!!!』
それで、私はこみ上げてくる熱を抑えるのに苦労した。ハンカチを取り出して、口元を抑え、ごまかすように咳をしてみせる。でも、この暖かさは堪えようがなかった。
私は、楽しみにしてると返事をして、携帯を閉じた。
電車が来て、冷たい風が顔を撫でていく。電車に乗ると、いくらか、気分も落ち着いた。空いてる席に座り、ゆっくりと息を吐く。左手を閉じたり開けたりしつつ、カラオケでの出来事を思い出す。
やっぱり、柔らかかった。ふかふかして、すべすべしていた。人さし指の付け根のところにあった、ポッチの様なマメの感触が忘れられない。暖かかった。
左手を胸に当てると、やっぱりドキドキが止まらなかった。耳元で、まだ小夜子の歌声が響いているような気がした。
そっと目を閉じると、鮮明に思い出す。小夜子の困ったような笑い顔。ネオンの中で、一心に歌い上げる、小夜子の瞳。きょとんとした表情。アイスティーのレモンの香り。青い空。舞い散る桜並木のトンネルを、向こうから、うつむきぎみに歩いてくる、新入生。
ふと、自分が入学したてだった頃はどうだったか。胸が痛む。中村さんに声をかけられるまで、私は何をしていたっけ。もう、ほとんど覚えていない。それから、部活に入ってからの思い出が、あまりにも輝かしくて、それ以外の物が見えない。それに、もう覚えてる必要もないんだ。だって、小夜子が笑ってくれる。その笑顔のささやかな明るさが、私のことを照らしてくれる。
恋は盲目だって言う。だったら、そこだけ見ていたい。見えるものだけ見ていて、何が悪いんだ。
私は、目をつむったまま、そっと左手で拳を作った。
十分だった。小夜子が、笑わせてくれるなら、私は喜んで笑うし、小夜子が笑ってくれるなら、私は喜んで笑わせたい。
私にないものを一杯持っている。すごく魅力的で、優しくて、キレイで、そんな小夜子に、私はどっぷりとはまりこんでいて、もうここから逃げ出したくなかった。最後まで、全力で突き進んでいきたかった。
やがて電車が止まる。最寄りで降りて、家に向かう。改札を出ると、携帯がなった。
取り出すと、森ちゃんからのメールだった。
おつかれさまです、から始まって、楽しめたようで何よりです、と続き、頑張ってください、と締められている。実に無駄のないメールだった。森ちゃんらしいと思い、私は笑った。
家に帰り、荷物をおいて、またコーヒーを淹れた。朝とは違い、ミルクと砂糖も混ぜてみる。
疲れた体をいたわりたい。ささやかな、自分への祝杯のつもりだ。
そっと臭いをかぐ。思い出すのは、やっぱり、明け方の爽やかな空だった。朝は、こいつのせいで、ちょっと焦ったけれど、でも、今はほっとする。
ゆっくり口に含むと、穏やかなミルクが、じんわり染みこんでくるようだった。甘いカフェオレが、枯れた喉を伝って、お腹に熱を宿す。全身のあちこちに、その熱がじんわりと染みこみ、広がっていった。
少し、喉が痛いけれど、それさえも心地良い。
まぶたまで、ちょっと重くなってきた。
やっぱり、カラオケはいい。ストレス発散だけじゃない。いろんな思い出を残してくれるし、お手軽で、楽しめる。
重さに任せて瞳を閉じると、朝飲んだブラックコーヒーが、目の前に広がった。あの時は、ちょっと焦げっぽいなんて思ったコーヒーでも、ミルクを入れると一気に変わる。
ブラックが、昔の私なら、カフェオレは、小夜子だ。甘くて、なめらか、ふわふわしてて、私を熱くする。その熱が、穏やかに全身に広がっていく。疲れのせいだ。鈍くなった頭の中で、カフェオレが、目一杯の桜を蓄えていた。それから、少しずつ薄れていって、いつしか眠りに落ちていた。