人類の救世主
ナノマシンによる、自己増殖と物質の無差別分解事故“グレイ・グー”の発生から100年と少し経った地球。
緑の大地と青い海は灰色のナノマシン群体へと変わり果て、人類はシェルターと呼ばれる巨大な施設で辛うじて生き伸びていた。
シェルターからはナノマシンの活動を妨害する電波が全天方向に発せられ、周囲数百キロに限れば在りし日の地球の姿が伺える。
ユーラシア大陸・ヒマラヤ山脈の遙か南方の平原にあるサティー・シェルターも、世界にいくつか残るシェルターの一つであった。
内部ではかつてのカースト制度を元にした厳格な階級社会が構成され、そのおかげか大きな混乱はなく今日まで安定した統治が成されてきた。
しかし、ナノマシン群体による襲撃は度々受けており、その歴史も徐々に終わりへと向かっているのかもしれない。
なぜ、ナノマシン群体はシェルターの内部を目指し攻撃をしかけてくるのか。
人類にはその謎を解く余力は残されては居なかったが、せめてもの抵抗は一部で功を奏しつつあった。
◆
青年と呼ぶには少し年が足りず、少年と呼ぶには少し年を取りすぎているその青年は、その日も宮殿へと呼び出されていた。
王制に近い制度で運営されるサティー・シェルター内部には、文字通り宮殿がありマハーラージャと呼ばれる君主が君臨している。
青年はその豪奢な宮殿の中を力強く、胸を張り歩いて謁見の間へと急いでいた。
彼の姿を見た女官達は皆、一様に頬を染め小声でしかし黄色い歓声と情熱的な視線を彼に送り続ける。
その地方には珍しい銀に輝く白い髪と、整った顔立ち。
細いが逞しくしなやかな体に、左右で色の違う神秘的な瞳。
瞳は、左はサファイアのような青で、右は琥珀のような黄金であり、まるで魔力が宿り見る者を魅了する魔物のような美しさである。
青年は、すれ違う者全てに笑顔を向けられ、祝福と賞賛の言葉を浴びせられていた。
無理もない。
彼はその功績から、遂にサティー・シェルターにおける最高権力者である、マハーラージャの一人娘と婚約する事となったからだ。
この婚約により彼の持つハーレムの美しい妻達は皆、夫人階級を一つ下げることとなるのだが、良き妻達も皆彼を祝福するのであった。
青年はやがて、謁見の間にたどり着く。
玉座には老いたマハーラージャと、年の離れた美しい姫君が彼を迎えた。
老王は言う。
お前こそが、私の跡継ぎに相応しい、と。
これからの世の中は、お前のような者が牽引していくべきだと。
青年は恭しく跪き、マハーラージャに謙遜の言葉を捧げた。
そんな彼に老王はますます気を良くして、会食の後今宵は王宮に宿泊するようにと伝える。
シェルターの絶対権力者の勧めに、青年は断り切れず妻達の怒る顔を想像しながらもそれを承知した。
そしてその夜。
青年は気配を感じて巨大なベッドから跳ね起きる。
すわ暗殺か、と考えていたが果たしてそこにいたのは、薄絹一枚を身につけたあの、美しい姫君であった。
彼女は頬を赤く染め上げ、きょとんとする青年の逞しい胸に飛び込む。
「ずっと、ずっと前からお慕いしておりおました。はしたない女と、思わないでくださいまし。どうか、どうか今宵だけは……」
言葉と共に、彼女を守る唯一の衣服が床に落ちる。
青年は優しく彼女を抱きしめ、羞恥に染まるその顔を見詰めた後、唇を重ねた。
あまい吐息と水魚の刎ねるような音が淫靡に部屋に満ちて、その夜は青年にとって素晴らしいものとなった。
その、翌朝。
結婚を待てなかった愛娘に、老王は朝食の席で豪快に笑いながら青年にある提案を行う。
昔、老王が使っていた男子禁制の宮殿が一つ余っているので、その日よりしばらくそこで暮らせという物であった。
青年は困惑しながらも老王の提案に頷き、早速妻達を呼び寄せ一足早い、絶対権力者の生活を送る事となる。
ただ、少し困ったことに。
元々後宮として使われていた宮殿には一人の美しい女性が既に住んでおり、その者もなし崩し的に青年のハーレムへ参加してしまったのだ。
女性は姫の母であり、いまや性欲の消え失せた老王がかつて寵愛した女でもあった。
後日青年はなぜ、妻と娘を下賜するような真似をしたのか老王に尋ねると、老王は意外な答えを返した。
「簡単な話だ。わしはもう、長くはない。あいつはまだ若く、今のままであれば皇太后として一生を終えるであろう。それが、不憫でな」
老王はそう言って笑い、あれに女としての喜びを与えてやってくれと付け加える。
青年は老王の手を取り、必ず皆を、いやシェルターの全ての人間を幸せにしますと伝え、後宮へと戻るのであった。
それから幾日か時が過ぎ。
美しい妻達と甘く淫蕩な生活を送っていた青年は、その日けたたましいアラームに呼び出されシェルター防衛基地へと足を運んでいた。
青年はすぐにブリーフィングルームに通され、険しい表情を浮かべた司令官に状況を聞かされる。
「本日0705、サティー・シェルター外部防衛エリアで新しいナノマシン群体を確認した。まずは、映像を見て欲しい」
司令官直々のブリーフィングに、防衛部隊の面々は一様に表情を強ばらせる。
只一人、青年を除いて。
司令官はそんな青年を頼もしそうに見詰めた後、手元のスイッチを押して映像をスクリーンに投影した。
同時にブリーフィングルーム内に、どよめきが走る。
そこに映った敵……ナノマシン群体は、ヒンディーの異形の神々の姿を取っていたからだ。
ナノマシン群体は、今までは動物の姿で進入をしてくることが多く、たまに人の姿を取ることがあった。
しかし、今回の敵はある個体はシヴァで、またある個体はカーリーの姿をして、それが無数の群れを成しシェルターを目指し移動していたのだ。
勿論、その意図は不明である。
どの個体も一様に王宮の壁画にあるように薄く微笑みを浮かべ、それが一層不気味さに拍車をかけて兵士達を動揺させる。
「……見ての通り、敵の姿は普段我々が信仰している神の姿を取ってきている。その目的は不明。だが、戦闘能力はいままでと変わらないはずだ」
「司令! 敵の戦力は……映像から見る数は、今までの物とは……」
「……5万だ」
苦虫を噛みつぶすような、重苦しい声。
その数字は明らかに異常な数であり、一瞬で絶句と絶望が兵士達を支配した。
そんな彼らの様子を見て、司令官は一つ咳払いをしてブリーフィングを続ける。
「心配いらん。我々には、英雄“アグニ”がついておる。それに、彼専用の特殊強化防護服『インドラ』が先日ロールアウトしておる」
司令官の言葉に、室内にいた兵士達の視線は一斉に青年へ集まった。
“アグニ”とは、青年の二つ名である。
戦場での彼の活躍はまさに火神のようであることから、名付けられた二つ名だ。
「しかし、司令……」
「うむ、諸君の危惧するところはよくわかる。だが、『インドラ』は非常に強力であるが、使いこなすには相当の技量が必要だ」
「でも! いや、しかし司令! “アグニ”は姫様と婚約を交わしたばかりの、大事な体です!」
「君は……」
「し、失礼いたしました! “アグニ”隊副隊長、マーヤ・マーナ中尉であります!」
「マーナ中尉。君の気持ちはよく、わかる。だが『インドラ』は彼専用に設計され、彼にしか扱えない代物なのだよ」
「そんな……」
「そもそも、『インドラ』自体が彼……“アグニ”自らが設計した、ワンオフの――対ナノマシン殲滅の機体なのだ。彼無しでは動かんよ」
「対、ナノマシン……殲滅機?」
司令官に食ってかかっていた青年付きの女性副官は、驚いたような表情を浮かべて隣に座る上官を見やった。
青年は黙っててすまん、といった調子で微笑み、マーナ中尉は思わず頬を赤らめてすとんと席にすわり込んでしまう。
肩まで短く切り揃えられた黒い髪が揺れ、柑橘系の香りが青年の鼻をくすぐった。
司令官はそんな彼女の様子に苦笑いを浮かべながらも、手元のボタンを押し映像を切り替える。
モニターには一般的な強化防護服と、それの数倍程も大きな人型のロボットのような映像が映し出され、室内に兵士達のどよめきが起きた。
「……話を続ける。これが『インドラ』だ。従来の強化服型とは違い、搭乗型の兵器である。背部にマウントした大出力荷電粒子砲は初撃で数万の敵を焼き払える出力だ」
「すごい……」
「これが、“アグニ”の……」
「搭乗人員は2名。操縦は“アグニ”が行うが、火器管制は……マーナ中尉、君に行って貰う」
「わ、わたしがですか!?」
「うむ。“アグニ”からの指名だ。理由は後ほど、彼に聞き給え」
司令官はそう言って、兵器の説明に戻った。
マーナ中尉はその間、ちらちらと隣の青年を見ながらも、膝の上の手元を見詰め続ける。
青年はそんな彼女の事を可愛らしく感じて、司令官のブリーフィングを聞き流しながら中尉に“君が必要なんだ”と囁いてからかった。
中尉はシェルターに迫る、かつて無い危機の事などすっかり忘れ、彼の言葉を反芻し頬どころか全身を赤くゆであがらせる。
司令官はそんな二人を見て見ぬ振りをしながら、ただひたすらに青年が設計した兵器の説明を行った。
それから小一時間ほど経ってブリーフィングは終わる。
最後に司令官が、これは人類の救世主となるであろう、と付け加えて。
司令官の言葉に触発され、口々に褒め称える仲間の兵士と頬を赤らめ憧憬の視線を送ってくる美しい女性の副官に青年ははにかみ笑いかける。
そして、いつものように彼は言うのだ。
俺が、人類を救ってやると。
言葉は全ての兵士の希望となり、やがて『インドラ』に乗り込んだ青年は、栄光の待つ戦場へと飛び立つのであった。
◆
『隊長、シャトルの準備が整いました』
サティー・オーダーズの隊長である、ヌークは強化防護服の中で部下の報告を聞き眉をしかめた。
彼が恐れていた瞬間が遂に訪れたからだ。
その時、ヌークは一人部隊の殿を勤め、眼下に広がる暗い街を見張りつづけていた。
「ハミル。お前は先に乗り込め」
『隊長は?』
「俺は……残る。100万の市民を残して宇宙などに上れるか」
『いけません! ランギヌイの受け入れ条件には、我々『サティー・オーダーズの脱出』があります!』
「ふん、あんな、贅沢をする事しか能がないマハラジャと同じ船に乗れるか」
『隊長……時間がありません。増援にやってきたゼノビア・オーダーズの活動限界は5分後です』
「……しかし、ゼノビア・オーダーズは手慣れてるな。あれだけの“連中”をあの数で押しとどめるとは」
ヌークは不甲斐ない己を嘲笑するように鼻を鳴らし、強化防護服のヘルメットに映し出されるレーダーの点を見詰めた。
そこには見慣れぬオレンジの光がいくつも浮かび上がり、敵を表す赤い点をある一線から移動させまいとめまぐるしく動いている。
『彼らの装備も我々より数段優れていますしね。『アトラス01』の遺産も配備されているようですし』
「いや。この動きはそれだけじゃない。兵の練度も相当なものだ。ハミル、あとでこの記録はじっくりと解析しておけ」
『了解しました』
「それとな、ハミル。今からお前がサティー・オーダーズの指揮をとれ。命令だ」
『隊長?!』
「ハミル。俺は――許せないんだ。いくらカーストの高い者から優先して脱出船に乗せる決まりとはいえ……」
『……隊長、お願いです。どうか、船に』
「みろ、ハミル。あの眠る町を。昨夜の内に市民全員が仮想現実投影装置に接続され、今頃は皆楽しい夢の中だ」
『ヌーク隊長……』
「死が目の前に迫っていることすら知らされず、それどころか己が死ぬその瞬間にすら、立ち会わせてもらえない」
ギリ、と歯を噛む音が、マイクを通じてハミルと呼ばれた部下の元へ届いた。
それからすぐに、憎悪すらまじった独り言がルークの口をつく。
「彼らは最期の最期まで、偽りの現実を見続けるんだ。――全てはマハラジャが安全に逃げる為に、な」
ヌークはそう吐き捨てるようにそう口にして、ハミルとの通信を遮断し強化防護服を跳躍させた。
向かう先は100万の市民がそれぞれ偽りの現実を見せられている、市街地。
シャトル・ドックのゲートを潜ったところで、防護服内にけたたましくアラームが鳴り響き、異変を察知した司令部から緊急回線が接続される。
『こちら司令部。ヌーク隊長、作戦エリアに戻ってください。敵の足止めを行っていたゼノビア・オーダーズは既に撤退を開始しております』
「こちらヌーク。パティ、世話になったな」
『ヌーク隊長?!』
「俺は連中の足止めに向かう。後のことはハミルに頼んでいるから、くわしくはそっちと話せ。……ハミルと幸せになパティ」
『まって! ヌーク、あなた何を考えて』
「通信を切る。司令部、無事空に上がれよ」
緊急回線の向こうで何かを叫ぶオペレータの声を遮るように、ヌークはそう言い放ち全回線の強制遮断コマンドを実行した。
それから、再び強化防護服を跳躍させる。
やがてヌークの強化防護服は街へ降り立ち、同時に数キロ先にある街の端が崩れ、大量の“ソレ”が姿を現した。
ソレは皮肉にもマハーラージャの宮殿に描かれた、神々の姿を取ってジワリと街を浸食するように建物に取り付きはじめるのであった。
そして、安らかに眠る人々を瞬く間に覆い尽くし、細胞一つ残さず分解してゆく。
その勢いはまるで津波のようで、すぐに形を保ったナノマシン群体と液体のような灰色の海がサティー・シェルター内部に広がっていった。
ヌークは雄叫びを上げ、強化防護服をさらに跳躍させ単身津波のようなナノマシンの海と、神々の姿をとったナノマシン群体に挑みかかる。
彼が愛した人々を守るために。
その姿は人類の救世主のように誇りと尊厳と、慈愛に満ちて。
しかし、数瞬後には尊いその意志もろともにあっけなく灰色の海に呑まれていく。
それから程なく、シャトルは宇宙へと打ち上げられサティー・シェルターは灰色の海に沈んだ。