サプライズ
人類初の、そして恐らくは最後の軌道エレベータ『アトラス01』は地球文明にとって、最後の“象牙の塔”であった。
アトラス計画によって作り出されたそれは、「ロータベータ」という種類であった。
全長8,5000kmで周期183分の軌道上、高度4、520km地点を回転しながら地球を周回する別名「スカイフック」とも呼ばれる。
軌道エレベータとは言っても、『アトラス01』は一般的な軌道エレベータのイメージとは少々違うかもしれない。
なにせ、地球の軌道上を巨大な塔が高速で回転しながら移動するのだ。
その先端は地球を一周する間に3回、大気の上部に突入し、そのタイミングでのみアクセスが可能な施設である。
人類が在りし日には、地上とは高高度を飛ぶ航空機とドッキングし、宇宙との距離を大いに縮める実験施設としての役割を担っていた。
そう、『アトラス01』は今も昔も、人類の文明を象徴する施設であるのだ。
当然その形態上、直接地表とは繋がってはいない。
したがって、およそ百年ほど前に起きたナノマシン災害である“グレイグー”の脅威とは無縁の存在である。
ナノマシン群体が無差別に物質の分解と自己増殖を行う地表とは違い、安全でしかも人類がかつて持ち得た最高の知識が保存された場所。
『アトラス01』はまさに人類最後の知識の砦であると言えよう。
◆
星間航行船『ランギヌイ』はグレイグー発生時に宇宙へと脱出したスター・シップの中で、唯一地球に留まった船である。
南洋の天空神の名を冠したその船は、高度15,000メートルの中軌道で地球を周回しながらもすでに100年の年月を重ねていた。
勿論ナノマシンの海に沈みゆく地球を観測し続け、いつの日か地球を再び人類の手にとり戻す為にである。
その地球人類最後の希望とも言える星間航行船『ランギヌイ』船内奥深く、最も豪華な私室にてその男は
アルマニャックの入ったグラスを手にする。
男は権力者であった。
あるいは神であり、父であり、王であり、保護者であり、代表者であり、総司令官であり、星間航行船『ランギヌイ』の船長であった。
その年に64回目の誕生日を迎え、禿げ上がった頭皮を年期が入った航海帽を深く被って隠す事を除けば
何処にでもいるような善良な男でもあった。
家族は妻が二人、子供が四人。
孫はまだである。
そんな初老から老人の域へとさしかかった男は、船長室に一人照明もつけず、淡く光るモニターを眺めていた。
光るモニターにはいくつかの電子手紙が映し出されており、男は感慨深げにそれらを順に読みふける。
件名:謝意を
From:アスモロフ博士
先日依頼した地上のナノマシンサンプルを先程受領しました。
これで地上を覆うナノマシン群体をコントロールする研究がまた一歩進みます。
ベルトン閣下はアトラス01でのナノマシン実験に懸念を抱いておられるようですが、これは心配いりません。
なぜならば、地上で使われているナノマシン抑制信号こそ、アトラス01で開発されたものだからです。
また、現状でもスペースデプリや放射線によるアトラス01の外壁の破損にも修復用ナノマシンが使われております。
(無論、地上における制御されていない物とは別物です)
いずれ近い内に、地上のナノマシンの制御信号のコードをお渡しできるかと思います。
その時こそ、我ら人類の手に再び約束の地が戻ってくる第一歩となるでしょう。
その時は是非、私秘蔵のウォッカを一緒に飲み明かしましょう!
からん、とグラスが音を立てた。
男の任意による瞬きをモニターは感知して、映し出されていた電子手紙はプンと電子音を短く鳴らして消えていく。
大きく深呼吸を一つして、男は手にしたグラスを口元に運び、中に入ったブランデーをわずかに口中へ流し込む。
百年以上の時を経た地球生まれのそれは、芳醇な香りを発しながら喉を潤し、それからすぐに鼻へと抜けて男の胸を高揚させる。
モニターは男の目元をつぶさに観察しているのか、次の指令を的確に関知してその画面に次の電子手紙を表示させた。
件名:回答
From:アスモロフ博士
先日ベルトン閣下からいただいた、いくつかの質問についての回答を送信します。
まず、地上から回収したナノマシンの保管方法について。
これについてはかなりのご心配をお掛けしていたようですね。
結論から言えば、問題など一切ありません。
新型で高出力の増殖抑制信号を絶えず発する密室に保存し、半径500mmの円状に感知するセンサーが動きを見張ります。
万一、ナノマシンがなんらかの活動を行いこのセンサーに触れると、対ナノマシン用の熱線が跡形もなく焼き尽くすことでしょう。
幸いサンプルは未だ無事であり、地上で活動する勇敢な部隊に新しいサンプルをお願いする事態にはなっておりません。
次に、抑制信号を突破してくるナノマシン群体について。
サンプルは元々、地上で抑制信号を発するシェルターに向けて活動を行うナノマシン群体であったようですが
やはり高出力の信号には抗えないようです。
つまり、シェルターを目指して様々な姿で侵攻してくるナノマシン群体は、既存の信号を無効化しているわけでは無いということです。
たとえば、犬に姿を変えてシェルターへと侵攻してくるナノマシン群体があるとしましょう。
彼(彼女?)の表皮はシェルターからの信号に影響を受け、活動を停止します。
本来ならばそのまま内側のナノマシンが活動を停止していきます。
しかし、彼の場合は少し工夫を施されており、表皮の部分のナノマシンが信号を遮断しているのです。
つまり表皮を構成するナノマシン群は、あらかじめ活動を停止した状態になると信号を遮断する仕組みで構成されているのです。
故に、通常兵器であってもこの表皮を破壊してやれば内部のナノマシン群にある程度の信号の影響を与える事ができ
活動停止状態にすることができるのです。
ですので、ナノマシン群体を撃退するだけであるならば、以前お渡しした新型の増殖抑制信号だけで事足りるでしょう。
しかし、それだけでは地球は取り戻せません。
我々が本当に必要としているのは、増殖抑制信号ではなく、あの忌々しいナノマシンを操作する「制御信号」なのです。
もし、すべてのナノマシンを停止させることに成功したとしましょう。
その場合、地球の大部分には不毛な、ナノマシンの残骸が残るのみとなります。
ですが、制御信号をもってナノマシンを制御できた場合、彼らが取り込んだ情報や我々が持つ様々な遺伝子情報を元に
大地や生き物を復元する事ができるのです。
つまり、文明を滅ぼしたのがナノマシンであるならば、地球をよみがえらせるのもナノマシンであると言えるのです。
ああ! なんと皮肉な話なのでしょう!
地上のナノマシン達が量子計算機のような役割も持ち、分解したすべての情報を保持しているという説を証明したリー博士の気持ちが
私にはよく理解できます。
――最後に、最愛の我が子について。
非常にプライベートな話であり、この場に記するのは適切でないと思うのですが書かずにはおれません。
ご存じの通り、我が子は生まれながらに重度の宇宙病を煩って、成長もできず、見ることも、聞くこともできませんでした。
知識は最新式の仮想現実学習装置を使い得ることはできたのですが、体だけは……
クローン体を作ろうにも遺伝子に欠陥がある我が子には用意してやることすらままならず、つらい思いをさせてきました。
しかし。
地上から持ち帰ったサンプルのおかげで、ついに我が子も体を……健康な体を手に入れたのです!
その体はナノマシン群体によって構成され、忠実に人体をシミュレートされております。
無論、増殖抑制ユニットとなるナノマシンを追加し、地上を覆うあの悪魔とは似ても似つかぬ仕様です。
これもひとえに、私の要求に応えてくださったベルトン船長をはじめ、地上で活動するゼノビア・オーダーズの皆様のおかげです!
なんと感謝をすればいい事やら……
地上のナノマシン制御を行う信号の開発も順調です。
愛する我が子に本物の緑を見せてやれる日もそう遠くはないでしょう。
その時は是非、私秘蔵のウォッカをベルトン閣下と一緒に飲みたいと思います。
モニターに映し出された少し長い手紙は、小さな子供による満面の笑みで締めくくられていた。
暗い室内にフフン、と声にならない微笑が溶けてゆく。
続いて、カランとグラスの中の氷が転がる音。
最後にプンと電子音が響き、男が見つめるモニターに次の手紙が表示された。
件名:ナノマシン群体の襲撃について
From:アスモロフ博士
まったく、驚きました。
ご存じの通り、アトラス01は地球を周回する間に3度大気圏に突入します。
しかしまさか、そのタイミングを狙ってナノマシン群体が攻撃をしかけてくるとは……
幸い新型の増殖抑制信号を放射して足止めを行い、取り付かれたドックを一部パージして事なきを得ました。
しかし、しばらくはそちらとの往来が不可能となりそうです。
現在施設内の徹底洗浄中ですので、今月の定期便の離発着は恐らくは無理でしょう。
ランギヌイで生産されるブランデーやビールが飲めないのは少し、残念です。
なにせ、アトラス01ではすべての施設が研究優先で、ウォッカしか作れませんから。
プン、と電子音。
モニターは次の手紙を表示する。
しかし、男が続けてそれを見ることはなかった。
ピピピ、と少し急かすような電子音が部屋に響いて、モニタ上の手紙を押しのけ彼の秘書の姿が浮かび上がったからだ。
『閣下。式典まであと1時間です。そろそろ準備をお願いいたします』
「わかった。アスモロフ博士は?」
『まだ到着しておりません。デプリ帯を抜けるのに手間取っておられるようです。先程、到着に10分程遅れるとの通信がありました』
「そうか。なら、式には間に合うな」
『あの……』
「なんだ? ナオミ」
『今回の式典なのですが、“きわめて重大な発表”とはなんでしょうか? 先程から市民から問い合わせが殺到しております』
「サプライズ、だよ。何、決して悪い内容ではない」
『サプライズ、ですか?』
「そう。サプライズだ。それもとびっきりの、な」
『せめて、秘書である私に教えていただけませんか? 閣下』
「だめだ。アスモロフ博士と賭をしていてな」
『賭?』
「いつも冷静な君が、驚くかどうか、というね」
『まぁ!』
「とにかく、内容は秘密だ。ただし、悪い内容ではない。それで処理してくれないか?」
『かしこまりました、閣下』
「ああ、それと。耐アルコール薬を頼む。恐らくはしこたまウォッカを飲まされる羽目になるだろうから」
『かしこまりました、閣下。それでは、式典10分前になりましたらもう一度お呼びいたします。それまでに準備をお願いいたします』
「ああ、わかった。それじゃ、これで」
ピ、と電子音が鳴り、モニターに映っていた若く美しい秘書の姿は消えてしまった。
その跡に先程見損ねた電子手紙の文章が浮かび上がる。
内容は次のような物であった。
件名:運命
From:アスモロフ博士
まずは、神に感謝を。
閣下、あなたは運命を信じますか?
先程、そう、つい先程の事です。
ナノマシン制御信号が完成しました。
増殖抑制信号ではありません。
制御信号が、です。
閣下。誰が完成させたと思いますか?
なんと、私の娘……リディヤが完成させたのです!
きっかけは、彼女の体のメンテナンスでした。
ご存じの通り、彼女の体はナノマシンで構成されております。
したがって、レベル6以上の施設内でないと彼女の体はメンテナンスができないのです。
が、その場所は同時に地上のナノマシン群体のサンプルが保存してあるエリアでもあります。
このエリアは最重要危険物でもあるナノマシン群体サンプルを、どの部屋からでも監視できるようすべての部屋から
サンプルを見ることができるのですが、そこで運命が訪れました。
メンテナンスベッドに寝そべり、暇をもてあました彼女が突如、パパ、見て? と私に語りかけたのです。
彼女はそのまま、あのサンプルが見える窓を指さしました。
そこには、ただの四角い金属であったサンプルが、リスへと変わっていたのです。
娘は言いました。
次は、ウサギ! と。
そして、驚く私の目の前で、あのサンプルは白いでっぷりとしたウサギへと変化しました。
私はさらに驚愕し、それからすぐに何が起きているのかを判断して、娘を抱きしめました。
そこから、制御信号の正体にたどり着くのは時間の問題でした。
閣下。
技術的な話はさておき、近いうちに閣下ととっておきのウォッカを飲めそうです。
暗い部屋の中、モニターによって照らし出されている男の表情は、静かな歓喜を湛える。
電子手紙は自分の、家族の、人類の長年の願いがようやく形となった報告であった。
その内容は星間航行船『ランギヌイ』と軌道エレベータ『アトラス01』の最高権力者しか見ることはできない。
式典はアスモロフ博士とその娘を極秘裏に迎え、発表と同時に地上奪還計画の第二段階を発令するための物であった。
ようやく。
ようやく、この時が人類にやってきたのだ。
男は呟いて、昨日届いたばかりの最新の電子手紙を幾度目か、読み返し始める。
件名:サプライズについて
From:アスモロフ博士
閣下。
明日の式典出席の件、たしかに拝領いたしました。
娘も初めて外へ出られると聞いて、とても喜んでおります。
ナノマシンの制御信号は、今のところ娘しか発信できません。
これは制御信号の発信に人類のある特有の遺伝子が鍵となっている為なのです。
しかし、この遺伝子はすでに解明しており、クローン技術を使えばすぐに実用化できるでしょう。
余談ではありますが、娘は最近レベル6のサンプルに執心しており、これを犬の姿に変えて非常にかわいがっております。
あの恐ろしい悪魔も娘にかかればかわいい犬でしかないとは、なんとも皮肉な話です。
本当ならば要請にありました、サンプルをそちらに持ち込み、閣下のサプライズの一助としたいのですが流石に危険であるため
これは辞退したいと思います。
代わりに閣下、一つ賭をしませんか?
閣下の秘書である、非常に美人で、非常に無愛想なナオミ女史が今回のサプライズを耳にしたとき、どんな表情を浮かべるか。
私はくしゃくしゃに泣き出してしまう、に秘蔵中の秘蔵である、地上産のウォッカをかけますぞ。
無論、賭に勝った場合はこれをすべて、閣下に飲んでいただきます。
いかがでしょう?
それでは、明日の式典を楽しみにしております。
読み終えて、男は立ち上がり部屋の照明を灯した。
式典に出席するための船長服はすでに着用している。
時刻は式典が始まる、13分前。
高揚する胸の内を沈めるため、とっておきのブランデーを出して嗜んでいたのだったがそれも徒労に終わってしまった。
なぜならば、気持ちが早く、早くこの事実を発表したいと強く急かしていたからだ。
男が浮つきながらも机の上に置いてある小さな鏡で身だしなみをチェックしていた所で、ピピピと呼び出し電子音が部屋に響いた。
それからすぐにモニターに映し出される、彼の美しい秘書の姿。
『閣下。お時間です』
「わかった。博士は?」
『アスモロフ博士とそのお連れの方もすでに到着しております』
「そうか。では極秘裏に会場へ案内しくれ。ああ、それと。用意させておいた博士とそのお子さんの礼服も渡しておくように。私もすぐに行く」
『かしこまりました、閣下。――あ、それと、確認なのですが……閣下?』
返事は無い。
はやる気持ちを抑えきれずに、男は船長室をすでに飛び出していたからだ。
明るくなった船長室のモニターのむこう、美しい秘書はいつものように気むずかしい表情を浮かべて小声で愚痴を吐く。
「まったく。しかし、困ったわね。」
「どうしたの? ナオミ」
「ああ、ユーリア。聞いてよ、ランギヌイのデータベース、ちょっとおかしいの」
「どこが?」
「アスモロフ博士のお子さんはどうみても女の子なんだけど、データベース上は男性なのよ。礼服、本当に女の子用でよかったのかしら?」
少なくとも、男の子用の礼服は必要ではなかった。