十六話 歴史的最大多数の最大幸福
さて、神と名乗るからには、神と名乗るだけの事をしたい。むしろ何もしない事になるのだが。
基本方針としては「人間に努力させる」。これに尽きる。努力を全肯定するわけではない。他人を陥れるための努力、犯罪のための努力など肯定できないものもある。あるのだが、「悪」「善」という概念は極めて主観的なもので、状況や情報、時代によっていくらでも変動するため、具体的にアレは良くてコレは駄目と定めるのは難しい。
難しいだけであって細かく定める事はできるし、時代に対応した内容を変えていく事もできるものの、それはもう教義じゃない。法律だ。政教分離の原則に反するからそれはできない。
政治と宗教が入り混じると大抵ロクな事にならないというのが歴史の教訓。アマテラス教は色々と特殊な宗教だし上手くいく可能性もあるにはあるが、危険は冒したくない。私は自分が世界を運営できるほど優秀な政治屋だと思うほど自惚れていないので、人間には自分達で政治をやってもらう。
政治云々はとにかく、まとめると努力の種類に対して否定も肯定もしないというなんとも日和見なスタンスに落ち着く事になる。まあ奇跡を起こす事によって無言の肯定はするのだけども。
私は全知全能の絶対神ではなく神様の真似事をしているだけのハイスペック人間に過ぎないから、迷ったり間違えたりする。間違えて結果的に人々を不幸にしてしまう奇跡を起こす事もあるだろう。一万年先、人類は私のやってきた事全てが誤りだったと判断するかも知れない。有り得る事だ。
でもそれでいい。私は神と名乗るが、絶対者であると名乗るつもりはない。アマテラス教での神は「人間より全体的に優れた存在」であって、人間を創造しただとか人間を裁くだとかそういうモノではない。人間がどこから生まれたかは人間に解明させるし、人間は人間に裁かせる。「悪」「善」の定義を決めるのも人間。私は人間が人間の手で物事を定め、解明し、解決するのを手助けする神だ。人間が神に頼るという手段を封じるために先回りして神になっているだけともいう。
私が起こす奇跡を疑問に思い、神を追放し、人間の手で人間の世界を運営していくというのなら、それはそれで構わないどころか歓迎する。私は喜んで神を辞め、ちょっと変わった一人の人間としてひっそりと生きよう。神なんていない方がいい。ただし私を追放して代わりに思考停止推奨主義を広めようというなら全力で抵抗する。思考停止してはいけない、という主張だけは例え六十七億人に間違っていると言われても譲れない。
なにより思考停止が広まってしまったら神菌の正体が分かる日が遠ざかる。
神菌はあまりにも高度過ぎて二十一世紀そこそこの科学知識しかない私には理解できない。私一人が研究して理解できる代物でもない。今から99.99999999999999%無駄になる神菌解析の努力をするよりも、まず人間を発展させ、年代が進んでから発展した人間の助けを借りて解析した方が遥かに効率的だと思う。もし神菌に隠し機能があり、悪意的な何かが仕込まれていたら、放置すれば取り返しのつかない事になる。杞憂で済めばいいが……というか大部分は知的好奇心で知りたいだけなんですけど! まあ地道にいこう。
なお、アマテラス教では魂や死後の世界について触れない。私はそんなもんあるわけないと思っているが、絶対に無いとも言い切れないから。地球46億年のデータが記憶された領域が11次元のどこかに存在し、宇宙人はそのデータバンクから私のデータを取り出して改造した、などというSFチックな可能性も無きにしもあらず。それなら魂や死後の世界があるといえなくも無い。
宇宙や世界の構造について全て解き明かした時に始めて魂や死後の世界が存在するかどうか判断できる。いくら私が魂&死後の世界否定派でも、証拠が無い以上、誠に残念ながらあるかどうか分からないものについて根拠の無い主張をするわけにはいかない。「無い」と言っておいて実はありましたでは困るし、「ある」と言っておいて実はありませんでしたでも困る。ちなみにこの困るは私が困るのではなく、「無い」事を前提として研究を進めたが、実は「ある」ため矛盾が生じて研究が立ち往生してしまうという、そういう類の困る、だ。私が困るかどうかはどうでもいい。
努力せよ、考えよ。最善を尽くしなお届かなかった者に、救いを与える。
という教義は簡潔に纏めたから短文になったのではなく、本当にそれしかないから短文なのだ。
神活動はこの教義の布教をベースとして、サブミッションをこなしていく形になる。サブミッションは人間が平和的に努力できるように、無駄な争いが起きないように、を念頭に、少し私の趣味を混ぜたものを行っていく。
例えば、努力し、研究した結果銃が生まれました。ダイナマイトが生まれました。
ここまではいい。どちらも平和利用が可能だ。
大量の射殺事件が起きました。戦争の被害が拡大しました。
これはやめて欲しい。
人間の問題は人間に解決させるのがアマテラス教だから、射殺事件や戦争が起きても私が「やめてーっ! 銃はいけない! 戦争はいけない!」と主張する事はない。肯定も否定もしない。でも本音を言えばやめて欲しい。
二人の人間が餓死しそうで、リンゴが一つある。二人で分け合ったら二人とも餓死するから、殺しあって独占する。これは悲しいが生存競争故仕方ない。しかし二人ともリンゴをたくさん持っているけど、イエローモンキーだから奪ってやれとか、異教徒だから奴隷にしてしまえとか、そういう不必要な争いは許しがたい。
とは言え世界から争いを無くす事は人類全員を洗脳でもしない限り不可能だ。私もそこまで外道じゃない。私にできるのは争いの種を減らす事だけだ。
例えば言語問題。
古代、ギリシア人は他民族に対する呼称として「バルバロイ」を用いた。バルバロイは「聞きづらい言葉を話す者・訳の分からない言葉を話す者達」という意味で、バルカン半島東部のトラキア地方に住むトラキア人や、ペルシャ人のことをさした。トラキア人は、長い間周辺の国々で奴隷としてひどい扱いを受けてきた。由来としてはギリシア人から異民族の言葉は「バルバルバル」と聞こえたからといわれている。当初は「野蛮人」という意味合いはなかったが、徐々に野蛮人を指すようになった。
もし言葉が通じていれば、トラキア人はギリシア人ともっとマシな関係を築けたのではないだろうか。同じ言葉を話す者同士は別言語の者同士よりも交流が容易で、親近感を抱き易い。争いは起き難くなるだろう。
例えば人種問題。
二十一世紀になっても人種差別の影響は根強かった。肌が黒いから人間じゃない。肌が黄色いから黄色い猿だ。生物学的に同じホモ・サピエンスで、知能や身体能力に差はほぼ無いと言っていいのに、なんとも馬鹿馬鹿しい差別が蔓延していた。
これは馬鹿馬鹿しい一方で分からなくもないと思う。私だって肌が緑色で水だけで生き口からタマゴを産む人間がいたら、たとえ同じ言葉を話し意思疎通できて交配可能でも、差別しない自信が無い。
しかし生まれた時から肌が緑色で水だけで(ryな人間と身近に暮らしていたら差別するとはあまり思えない。
アルベルト・アインシュタイン曰く、「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う」。生まれた時から異なる人種と共に生活するのが当たり前な環境で育てば、差別的な価値観が育まれる可能性は下がるだろう。
他にも宗教問題、資源、食料の奪い合いなどなど。せっかく宗教どころか文明らしい文明が無い時代に来たのだから、千年先、万年先を見据えてそれらに対策をとっておきたい。
具体的には世界中を巡り、
・布教
・言語統一
・混血の推進
・飢餓の救済
・努力者への奇跡
これらを行う。
布教に関しては私自らが世界を回ろうと思っている。誰かに布教を任せて、伝言ゲーム式に教義が歪んだり変な解釈をされるのは恐ろしい。大本の私が布教するのが一番確実だ。
また、布教した地域で宗教が悪用されたり腐敗したりしないように、管理組織を設置する。具体的には神社を設置し、動物に菌を感染させた亜人を神官にする。
亜人には寿命がない。人間との血縁がなく、しがらみもない。人間よりも人間に対して公平公正であれると思う。
人間に神官を任せると代替わりが起き、神官の高潔さや能力もピンキリにならざるを得ないが、ずっと同じ者が神官に就いていれば安定する。
欠点もいくつかある。が、総合すれば人間より亜人の神官の方が良いと判断した。
言語統一は布教と同時に行う。
どうせならクセの少ない人造言語であるエスペラント語を広めたいが、私が人に教えられるほど習熟した言語はよりにもよって数ある言語の中でも特に難しいとされる日本語しかないので、残念だが日本語にする。識字率向上も視野に入れた教育を行っていきたい。神社に寺子屋的側面を持たせるのもいいかも知れない。
混血の促進はある程度世界を回ってから行う。
神菌は感染者を基点にして効果を発揮するから、感染者が増えるほど効果を及ぼせる地域が増える。あっちの地域の信者とこっちの地域の信者を量子論的瞬間移動で入れ替え! とやれば手っ取り早い。
二、三千年もシャッフルしていれば、世界中の人種の血が入り混じって誰が何人なのかという概念すら消え去る事だろう。全員地球人だ。
飢餓の救済は人間からエネルギーを吸っている以上当然とも言える。日頃エネルギーをちょっぱねているのだから、そのお返しとして飢饉の時は神菌を介して直接エネルギーを与えるなり他地域から食料を転送するなりして助ける。頼り切りになられても困るから救済といっても本当に最低限だが。本格的な飢饉への備えは自分達でやらせる。
努力者への奇跡は私が最大限に努力したと認めた者に与える。ただし制限は多い。
例えば余命一年の病にかかった者を助けようとした場合、与える奇跡は病の治癒ではなく、余命の延長だ。最大限に努力すれば必ず病気が治る、というのは医学の発展上良くない。
また決闘や競争で、互いに努力していた場合。これは互いに全力が出せるようにするだけで、どちらかに肩入れしたり、勝利を約束したりはしない。スポーツの試合前日に事故に遭ったら治してやる、決闘であまりにも装備に差があったら貸し出す、など。
私の奇跡は背中を押すものであって、おんぶにだっこさせてやるものではない。
なお、神官(亜人)に菌の使用権限を開放して手分けして努力しているかどうかの判定と奇跡の実践をしたとしても、とても全人類を見守る事はできず、最大限に努力したのに奇跡なんて起きなかったという者は出るだろうが、「最大限に努力すれば奇跡のチャンスがある」という事だけで納得してもらうしかない。本来ならそのチャンスすらないんだから。
あとは趣味の領域で、歴史の記録と文化の保存をしていきたいと思っている。
歴史というものは大抵主観的で、記録者にとって都合のよい様に記される。戦勝国がさも敗戦国が悪者であったかのように書いたり。反乱の理由を悪魔がどうたらと理屈をこねてぼかしたり。
私は政治に関わらず多くの歴史的事実に対し非利害関係者であるから、人間の歴史をかなり正確に記録できる。後の歴史家に全世界数千年分の歴史書を叩きつけてドヤ顔してやりたい。
そして紀元前七千年から西暦2013年まで約九千年、失われる技術や文化は多い。国が技術や文化を保存しようとしても長きに渡る興亡で失われるから、その心配がまずない私が記録・保存しておく。
ギリシアの火の製法とか。アレクサンドリア図書館の文献とか。こっそり調べたり複製しておいたり。わくわくが止まらないね! いやこの世界にギリシアやアレクサンドリアが生まれるか知らないけど、例えばの話で。
さあ、人生の目的は定まった。ながい長い永い、神様のお仕事をはじめよう。