十一話 熊、風呂
ここしばらくは鹿肉で喰いつないできたのだが、流石に狩りの心得もなく無軌道にうろついて獲物を発見するのは難しく、三頭目の獣は狩れていない。
一頭分の肉を二人で食べてだいたい一週間だから、ここ一週間ほどは僅かに採れるキクラゲやアミガサタケ、自然薯、一食二、三口分にケチッた薫製肉を食べている。エネルギー収支はマイナスで、菌の貯蓄をじわじわ切り崩している状態だ。
獣の一頭でもしとめれば一気に改善するのだが、雨で動けなかったり獲物が見つからなかったりで上手く行っていない。
もっとも陶器が完成すれば煮炊きできるようになるので、食料事情は明日には解決する。心配はしていない。
とは言え肉食が高効率なのは事実。わびしい昼食を終え、二人で恒例の森探索に入る。フォレストハンタータマモは変異が終了してからは一応連れていくようにしている。
そもそも狐はリスやネズミ程度の小動物しか狩らない。タマモが持つハンティングスキルもそれに対応したものだ。体格が変わったせいでそのスキルは使いものにならなくなっているが、嗅覚は変わっていないので、新しく鹿や熊、猪の臭いを覚えて貰おうと思っている。見つけさえすれば私が一撃でしとめられるから、タマモが索敵してくれればかなり助かる。
今タマモが覚えているのは鹿の臭いのみ。追々覚えさせればよかろう。
石室の南方面の森の中を歩いていると、奇妙なものを見つけた。杉の木の根本の樹皮がひっぺがされている。腐り落ちて剥がれたという風ではなく、どうも何か鋭いもので裂いたような感じだ。
なんだこりゃ。人間がこのあたりにいて、目印にでもしたのか。
首を傾げていると、タマモが木の傷跡に鼻を寄せた。ふんふんと臭いを嗅ぎ、私に報告する。
「けもの、けもの。におい、ちかい」
「獣のマーキングか。鹿、じゃないよね?」
「しか、ちがう。きつね、ちがう。わかる、ない」
「ふむ。その臭い、探して」
「わかった。タマモ、しごと、がんばる」
何やら気合いを入れたタマモがその場に四つん這いになり、周辺を這い回って地面の臭いを嗅ぎはじめた。
地面を這い回る狐人。不思議と違和感がない。ケモ耳と尻尾のせいか。
「こっち」
臭いの跡を嗅ぎ当てたタマモが四つん這いのまま尻尾をふりふり先導する。貯蔵エネルギーが十分な今、どんな獣が現れても恐るるに足りない。放射能熱線を吐いてくる大怪獣が現れたら流石に困るが。
尻を追う事三十分ほど、タマモが止まって立ち上がった。
「いた」
タマモが指す方を見る。そこには年老いて枯れかかった大木があり、根本のウロに黒い大きな毛玉がみっちり入っていた。
丸い耳、毛皮の色に紛れて分かりにくい黒い目。熊だ。眠そうな、困惑した目で私達を見ている。
「おっきい。なに?」
「あの黒いの? 熊」
「くま。くま、くろいの、おっきい」
タマモは無造作に熊に歩み寄ると、しゃがんでふんふんと臭いを嗅いだ。熊は目をぱちくりさせ、のっそりウロから出て臭いを嗅ぎ返す。
熊は基本的に植物食で、動物を襲って食べる事はしない。鮭とるイメージあるけど。人の味覚えて人喰熊になる可能性もあるけど。まあ陸上動物はまず襲わない。
それは私はもちろんタマモに対しても同じようで、互いに興味深そうに臭いを嗅ぎあっていた。
「タマモ」
「ん」
名前を呼ぶとタマモが離れて私の隣に来る。熊はその場に棒立ちになり、短い尻尾をぴこぴこ動かして興味津々といった様子で私達を見ていた。やはり警戒が非常に薄い。好都合にも。
「南無」
「なむ」
私は手に持った小石を加速させ、のほほんと無警戒な熊を容赦なく射殺した。
頭を打ち抜かれた熊がゆっくりと地面に倒れるのを、タマモは無邪気に尻尾をゆらゆらさせながら見ていた。流石は弱肉強食自然界出身。動揺の欠片もない。
私は食料が確保できて嬉しくはあるけど、毎度の事ながら罪悪感で胸が痛いよ。やっぱこれ完全に騙し撃ちじゃん? 食虫植物が臭いや派手な見た目で獲物を引き寄せてパクッとやるのとやってる事はそう変わらないけど、合理性と感情は別だ。なんかもうほんとごめん。
重いため息を吐きながらもやる事はやる。さっさと腹をかっさばいて血と内臓を抜き、担ぎ上げて石室に戻る。
戻ったら毛皮を剥ぎ、草木汁入り水たまりを作って沈める。服を着たまま作業したので鹿革服が血みどろになってしまった。
タマモに熊肉の焼き肉準備を任せている間に川の流れが緩い場所で身を清める。ああ水が冷たい。風呂が恋しい。冬は寒くて風呂に入りたくなるが、夏は夏で入りたくなる。一考の価値ありだな。
水気を帯びて重くなった腰まである長い髪を手で持ちながら石室に戻る。せめて肩胛骨ぐらいまでは切りたいのだが、切ると損傷と判定され、エネルギーを消費してすぐに再生してしまう。再生能力も良いことばかりじゃない。
「やけた」
「んむ」
水を滴らせながら竈の側に座ると、熊肉を焼いていたタマモが箸で肉をつつきながら言った。
私は遠慮なく肉にマイ箸を伸ばし、
「うっ」
なにこれくさっ。くっさ! 鼻にツーンとくる。
え? これ食べれるんだよね? 熊の手は珍味って聞くけど体の方も食べれるんだよね? ちょっと口に入れるのを躊躇する臭さだぞこれ。
私がためらっているとタマモが首を傾げた。
「アマテラス、たべる、ない?」
「い、いや、食べるけど」
箸を迷わせているとタマモはぱくぱく肉を口に入れていく。タマモは私よりもこの獣臭を強く感じているはずだが、大丈夫なんだろうか。
「おいしい?」
「くさい。しか、もっと、すき」
タマモは渋い顔で言った。鹿の方が好きか。奇遇だね、私もだよ。
タマモが我慢して食べているのだから、と鼻を摘んで食べてみる。硬い劣化牛肉みたいな感じだった。こりゃ焼いて食べるもんじゃないな。味噌で煮込むか醤油に漬けるかどうにかして臭みを抜かないと喰えたもんじゃない。
私は三切れでギブアップした。タマモも箸が進まないようで、すぐに焼くのをやめてしまった。鹿はあんなに美味しかったのに熊ときたら。
どうすんのこの肉。鹿肉一頭分よりちょっと多いぞ。薫製にしたらマシになるか?
……明日陶器を使って山菜と一緒に煮てみよう。それでダメなら薫製。薫製にしても酷い味だったらもう我慢して食べるしかない。
後ろ向きの決意を固め、この日は濡れた体が乾いてからすぐに寝た。
翌朝、目が覚めてからすぐに釜を開けた。一昼夜放置で温度はかなり下がっていたが、それでも少しむわっとした暖かい空気が出たのは驚きだった。
灰の中からドキドキしながら土器を、じゃない、陶器を取り出す。灰を払うと白くつるつるした層を作っているのがはっきり分かった。多少凸凹していて厚みや色合いにムラがあるものの、概ね期待通りの出来だ。
と、思ってひっくり返してみたら壺の底に盛大に亀裂が入っていた。ま、まあ壺は保存用であって、煮炊きに使うわけじゃないし。大切に使えば壊れはしないだろう。小鉢と深鍋に亀裂が入ってなくてよかった。
陶器を抱えて石室に戻る。「待て」を命じられ暇そうにしていたタマモは私が持ってきた陶器を見て目をぱちくりさせた。
「それ、なに?」
「陶器。これが小鉢でそれが深鍋で、こっちが壺」
指さしながら言うとタマモは難しそうな顔をした。
「これとうき、これこばち、これふかなべ……つぼ?」
「いやいや、陶器で小鉢、陶器で深鍋、陶器で壺。熊は獣で熊、鹿は獣で鹿でしょ?それと同じ」
「!」
タマモはなるほど! という顔をして何度も頷いた。微笑ましい気持ちになる。子供にものを教える親はこんな気持ちなのだろうか。
「タマモ、水くんで来て」
「ん」
タマモに深鍋を渡し、私は山菜、というか野草採りをする。
大食い女子高生探偵曰く、雑草は香りを良くするには最適らしい。あらかじめちょっとかじって毒がない事だけ確認しておいた名前も知らない雑草を両腕いっぱいにむしり、石室に戻る。
タマモが持ってきた水たっぷりの深鍋を火にかけ、雑草を投入。加熱されて湯気が出ると、タマモが一生懸命湯気を掴もうとして首をかしげていた。微笑ましい。
煮たったら浮いている大量の灰汁を小鉢ですくって捨て、肉を投入。タマモはまた熊肉か、と嫌そうな顔をしていたが文句は言わなかった。
やがて熱の通った熊肉を箸でとる。ちょっと吹いてさましたらそのまま一気に口に入れた。
咀嚼する。焼いた時と食感はそう変わらない。
「……うーん」
確かに夏場に汗を吸ったシャツを放置したような耐え難い臭みは大幅に減り、食べれるようにはなっていた。酒に漬けておけばもうちょい良くなるんだろうけど、酒の原料になるような食材があったらそれをそのまま食べている。
「タマモ、不味くはないよ」
「おいしい?」
「不味くはない」
「…………?」
タマモは意味が掴めず首を傾げていたが、すぐに理解を放棄して箸を伸ばした。
旨くもなく、抜けきらず残った臭みを無視すれば不味くもない。そんな肉を食べていて会話が弾む事もなく、私達はしばし無言で鍋をつついた。
味はどうあれ満腹にはなった。膨らんだ腹を撫でながらちょっと休憩。
現在、タマモの私への親愛度は家族レベルのようで、エネルギー徴収は7J/s。一日で605kJ。基礎代謝は私とそう変わらないから、タマモは最低でも一日4605kJ=1100kcalのエネルギーをとる必要がある。三食肉を食べても4800kJぐらいだから、割とギリギリだ。
今の私の貯蓄は12MJ。鹿肉が寂しくなってからの一週間強制ダイエット食が響いた。タマモによる収入はあったが、タマモの変異に必要なエネルギーを菌から供給したので差し引きマイナス。
しかしこれからは熊肉があるし、煮る事で食べられる食材も大幅に増えた。一番厳しい時期は乗り越えたのであまり心配はしていない。
休憩後、タマモと一緒に風呂作りをする。
革なめし用の水たまりへ川から引いた水路を分岐させ、石室の近くまで水を引く。タマモと二人で入れるぐらいの深さになるまで砂利や石ばかりの地面を掘り返し、水で満たした。
「みずたまり」
一仕事終えてくたりと河原に寝そべったタマモが風呂をのぞき込んで呟く。確かに今はただの水たまりだ。これが夜には風呂になる。
これでもなかなか頭を捻って作った。タマモにも是非堪能して欲しい。
陶器を焼いて大量に消費した薪の補充のために日中は森に入りタマモと手分けしてしこたま薪をかき集めた。
また木のささくれで手が擦り傷だらけになったが、菌が働いてすぐに治癒した。熊革で手袋でも作ろうか。
薪を集め終え、夕食を食べ終わったらいよいよ風呂に入る。竈を作っていた石を崩して灰を払い、木の棒で転がして水たまりに落とした。じゅあっと一瞬蒸発する音を立てて石が底に沈む。水面に落としきれなかった灰が浮かんだ。じっとそれを見ていたタマモに声をかける。
「タマモ、手伝って。私の真似して、竈の石を落とす。分かった?」
「わかった。かまどのいし、おとす」
タマモと協力して石を落としていくと、半数落としたあたりで水面から湯気がたった。手を突っ込むとちょっとぬるかったので、二個石を追加で落とす。
水面に浮いた灰を手ですくって捨て、風呂の準備は整った。
「さあタマモよ、服を脱ぐのだ」
「ふくを?」
「脱ぐ。ほら手を上げて。脱がせてあげるから」
ずっと服を着たままで脱ぐという言葉が分からなかったタマモを素っ裸に剥く。タマモは恥ずかしがらず、むしろ余計なものを脱ぎ捨てた開放感に機嫌を良くしていた。このへんに野生の獣の名残を感じる。
タマモを脱がせたら私も脱ぐ。一糸纏わぬ姿になった私をタマモは穴が空くほどまじまじと見つめてきた。負けじと私も見つめ返した。
あのふさふさの毛皮はどこへやら、体毛が綺麗さっぱりなくなっている。均整のとれたスレンダーで野性的なしなやかさを感じさせる幼い体がたき火の明かりに照らされてはっきり見て取れた。
「…………」
思わず目を逸らした。改めて見るとちょっと恥ずかしい。そんなに見るなよ。
視姦されて悦ぶ趣味はないので、さっさと入ってしまおうとタマモの手を引く。
タマモは数歩おとなしく引かれたが、風呂の手前で突然踏ん張った。どうかしたのかと見ればぷるぷる震えて首を横に振っている。
「や、やだ」
「大丈夫、そんなに熱くないから火傷はしないって」
「ぬれるの、やだ」
あ、そっちですか。
でもね、私と違ってタマモは水浴びしてないし、普通に生物的代謝をするから垢もたまりやすい。いいから入れ。臭いだすのも時間の問題だぞ。狐だった時と違って体の構造的問題で自分の全身を舐めて綺麗にするわけにはいかないんだから。
「だめです。入りなさい。汚れを綺麗にしないと一緒に寝てあげないよ?」
「うー……」
「私も一緒に入るから。ね、怖くない」
「きゅーん……わかった」
尻尾を縮こまらせて怖がるタマモの手を引いて風呂に入る。湯からとびだそうともがくタマモを背後から抱きついてホールドしていると、数分で大人しくなった。泣きそうな顔はゆるみ、地獄谷温泉の猿を彷彿とさせる表情になっている。
試しにホールドを解いてもタマモは逃げなかった。フフフ、風呂の魔力に捕まったか。
「気持ちいい?」
「きもちい~」
「これが風呂ね。露天風呂」
「ろてんぶろ、きもちいい」
タマモは風呂の縁に頭を預けてくたぁ~っとした。頬は紅潮し、心底気持ちよさそうに目を細めている。残念ながら曇っていたため星空は楽しめないが、久しぶりの風呂は身も心も暖めて清めてくれる心地だ。
タオルや垢スリは用意していないので手でこするだけで済ませ、十分体が暖まったところで上がる事にする。
「タマモ、あがるよ」
「やだ~」
気の抜けた声で拒否しおった。そうきたか。タマモめ、反抗期か。
「こら、のぼせるから出なさい」
「や」
「湯ももう冷めるから」
「やだ」
タマモは頑なに出るのを嫌がった。
ぬーん。また脅してもいいけど、あんまり不満を溜めるのはよろしくない。一度痛い目見させたほうがいいか。
「あー、じゃあもう私は先に寝てるから。どうなっても知らないよ」
私は一人湯から上がってたき火で体を乾かし、そのまま寝た。
夜中にふと目を覚ますと、タマモが寒そうにぶるぶる震えながら私にくっついていた。湯が冷めきるまで浸かっていたらしい。
「アマテラス、さむい」
「私の言う事聞かないから」
「……ごめんなさい」
あら素直。抱きしめてあげよう。
タマモの反抗期は数時間で終わったようだった。
鮭や死体を食べる熊肉は不味く、ドングリや残飯を食べる熊肉は美味いらしいです