第八話
すべてを、終えて。
まどろむ睡蓮を間近で眺め。
銀月は改めて、彼女の美しさに驚嘆。
渦をまいて散らばる金髪。
薄闇の中でも、ほんのり輝く真珠色の肌。
薔薇のくちびる、重たげなまつげ、彫りの深い鼻梁。
指の先まで、端整にできている。
どこもかしこも、小さくてやわらかくてなめらかで、ふんわりした曲線で、できていて。
呼吸するたび、ゆったりと上下する肩や胸が、いじらしい。
寝息すら、甘美。
なにをしていても、していなくても。
ただ眺めているだけで、至福感に満たされる。
と同時に、切なさが胸をしめつける。
白磁のひたいに、うっすらと走る一条の傷跡も、無粋どころか。
創造主があえて、つけ加えたかのよう。
愛しさのあまり、ひとめで、それとわかるように、聖別されたあかしのよう。
銀月はそっと、くちびるで傷にふれた。
古傷だから、もう全然いたくはないのよ、と睡蓮は笑ったけれど。
痛々しい。
睡蓮が、自分の過失で負った傷なのだと告白しても。
なぜそのとき傍にいて、守ってやれなかったのかと、つい自責の念に駆られる。
「……ん……?」
ふたつの紫水晶が、金色のまつげの下から現れる。
間近で見る、潤みをおびた瞳。
吸い込まれそうだ。
「すまない、起こしてしまったかい?」
「…………」
睡蓮は、まだ半分、夢の中にいるようで、銀月を気だるげに見つめ返す。
やがて。
「もう、おわったの?」
舌足らずな口調で、とぼけたことを訊いてきた。
銀月は笑いをかみ殺しながら、それでも真摯に、終わったよ、と答えた。
睡蓮は、重ねて訪ねた。
「……ぜんぶ?」
「ああ、全部おわったよ」
その問いにも、銀月は誠実に答える。
「あたし……どうだった?」という睡蓮の問いにも。
「素晴らしかったよ」簡潔に、正直に。
もっと、ひねった気の利いたような表現も、できなくはなかったけれど。
疲れ切ってまだ陶然としたままの睡蓮を、混乱させたくなかった。
「…………」
それなのに。
睡蓮は不意に覚醒し、みるみる目に涙を溜めたかと思うと、くるりと背を向け、しくしくと泣き始めた。
「ど、どうしたんだ睡蓮、なにを泣くことがある?」
あわてて銀月が、睡蓮の顔を覗き込もうとするけれど、睡蓮は布団から顔を離さない。
そして、くぐもった声で。
「……赤ちゃんみたいに、泣き喚いちゃったわ」
はずかしい。銀月はきっと、あきれたわ。あたしがまるで見かけ倒しで、本当は踊ってるとき以外は色気もなんにもない子供だって、大枚はたいて手に入れる価値なかったって、後悔してるわ。
途切れ途切れに涙の理由を、布団で顔を覆ったまま肩を震わせて語る睡蓮に、銀月は別の意味で、あきれた。
きみが子供だってことくらい、はじめから知っているよ、睡蓮。
たしかに、肝心なときに寸止めをくらったし、やめてと言ったりしてと言ったり振り回されて大変だった。
処女だから気を遣ったし、楽しめたかと聞かれたら、練れた娼妓を相手にしたほうが、それはよっぽど気楽で手軽だった。
だが、そんなことじゃない。
比べられない。
遊びでした行為じゃない。
自分の楽しみのためにしたんじゃない。
わたしだって今夜は、初めての経験だったのだよ、睡蓮。
けれど、銀月は。
自分の気持を赤裸々に、睡蓮にぶつけることは、しなかった。
娼妓と比較などしようものなら、この繊細な娘は、さらに傷ついてしまうだろうから。
「……きみを赤ちゃんみたいに泣き喚かせたのは、この、わたしだ」
睡蓮の顔を覗き込むのをあきらめて、銀月は睡蓮の上に、覆いかぶさった。
「悪いのは、わたしだ。きみを泣かせて、惑乱させて、傷つけて、めちゃめちゃに壊して、汚した。いけないのは、全部、わたしだ。だからきみが負い目を感じる必要なんか、微塵もないんだ」
睡蓮。
きみを輝かせているために必要ならば。
きみを守り続けるために必要ならば。
わたしは、ずっと悪の側に立とう。
闇にまみれ、汚名をかぶり。
太陽のきみに、寄り添っていよう。
この決意は、昔から持っていたもの。
けれど、きみは、知らなくていい。
今までも、これからも、無邪気に、天真爛漫に、輝いていればいい。
「顔をみせて、睡蓮」
銀月の言葉に、睡蓮は素直に、従った。
「落ち着いた?」
「うん……ごめんね、銀月」
銀月は睡蓮の涙を拭ってやり、ひたいの傷に接吻。
「銀月って、すごいわ。こんなひと、他にいない」
「なんだね、唐突に」
「だって、あんなにみっともなく泣き喚いたのに、本当にあたしのこと、嫌いになってないんだもの」
「…………」
「……なに?」
「ん、なにが」
「だって今、へんな顔をしたわ。あたし、なにかおかしなこと言った?」
「いや、べつに」
「うそ、絶対へんな顔をしたわ、ねえ、隠さないで……んっ」
銀月は睡蓮のくちびるを接吻でふさいだ。
そのまま追及する間を与えず、有無も言わせず、睡蓮を再び、忘我の境地へ連れて行った。
「夜明けまでは、まだ間がある。もう一度、眠るといい」
「いやよ、眠らないわ」
「何故? とても疲れているはずだよ、それに、ほら、目がとろんとしてきた。眠いのだろう?」
「だって、もっとお話したいわ」
「話など、いつでもできるだろう。明日も明後日も、ずっと一緒にいるのだから」
「そうだけど……」
明日のことなど、わからない。
世界はたやすく、ひっくり返る。
甘美なるこの一夜に、そのような不安を打ち明けるのは、ためらわれた。
それに、不覚にも、本当に、眠くなってきた。
「でも、いや……まだ、眠らないわ……だって、銀月はずっと起きてるんでしょう? あたしも、起きてて、お話相手に……ねむら、ない、わ……」
おばかさん。
きみが起きてたって、話相手になど、するものか。
話より、もっと他に、したいことがあるのだから。
「銀月って、すごいわ。こんなひと、他にいない」
「なんだね、唐突に」
「だって、あんなにみっともなく泣き喚いたのに、本当にあたしのこと、嫌いになってないんだもの」
先刻の会話を思い返して、忍び笑う。
おばかさん。
世の男どもはすべからく、きみの泣き顔や、しどけなく取り乱した姿を見てみたいものだと切望しているのだよ。
だが、そんなことを、きみが知る必要は、ない。
きみのそんな姿を現実に見るのは、わたしだけだから。
「……睡蓮」
起こさないように用心しつつ、触れずにはいられなくなって、頬の線をそっと指先で、なぞる。
きみをこの家に迎えるのは、狼の巣穴に子羊を放り込むようなもの。
それも、きみを勝ち取るために名乗りをあげられなかった懸案のひとつ。
まだ、時期尚早だった。
だが、こうなったからには。
守ってみせる。
愛しい睡蓮。わたしの茉莉花。
好 一朶(花) 美麗的 茉莉花
好 一朶(花) 美麗的 茉莉花
芬(香)芳 美麗 滿枝芽
又香 又白 人人誇
讓我來 將儞(汝)摘下
免被風雨打
【訳】
誰もが好きだという香り高い純白の茉莉花。
咲いたばかりのその一枝をわたしが摘み取りましょう。
雨や風に打たれぬように。




