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誓言 ~砂漠を渡る太陽は銀の月と憩う~  作者: 中山佳映&宝來りょう
シーズンⅤ(かえ担当)
28/66

第七話

 銀月インユエは睡蓮を寝台へ運んだ。

 睡蓮は、これから住まう部屋を、ものめずらしげに眺めまわす。

 連れてこられたばかりの新居を、あちこち探検したくてうずうずしている仔猫のよう。


 幼い頃、一度、庭に咲く睡蓮の花を見せてもらいに来たことがあったけれど。

 そのときはさすがに、寝室までは案内されなかった。


 しかし、銀月としては睡蓮に、あまり不用意に動き回られては、困る。

 先刻の熱烈な抱擁で、睡蓮が軽く腰を抜かしているのは、幸い。



 帰宅したら部屋の隅々まで点検しなくては、危険。

 留守の間に、父の愛人、明華ミョンファが、どんな罠を張り巡らせているか、わかったものではないから。


 それに。

 新居に対する睡蓮の好奇心を許容してやれるほどの余裕は、いまの銀月には、なかった。

 部屋の案内など、明るくなってからでもいいだろう。

 それよりも。

 先刻の続きを、一刻もはやく再開してしまいたい。


 それでも、はやる心を抑え、さりげなく部屋を一周して、ひととおり調べてから寝台へ。

 目線だけはきょろきょろと泳がせながら、そこでおとなしく銀月を待ち受ける、睡蓮のもとへ。


 まどろっこしいと思いつつも、睡蓮をあまり怯えさせないようにと、慎重に接吻を繰り返す。

 そうしていると、おや、と銀月はつぶやき、ふいに動きを止めた。


「知らなかった、こんなところに傷が」

 銀月は睡蓮の前髪を掻きあげ、ひたいにも接吻をしようとしたのだった。


「ああ、それね」

 その昔、蓮姫リョンフィの悋気にふれて、花瓶を投げつけられた、傷跡。

 とはいえ、そのような事実を、銀月に伝える必要など、ない。

 これから先だれにも、たとえ銀月にさえ、言うつもりは一切ない。


「子供のとき、つまずいて花瓶へ突っ込んじゃったことがあるの、ほら、あたしって、そそっかしいから」

 舌を出し、肩をすくめてみせる。


「ああ、なるほど」

 銀月は睡蓮の方便を、たやすく信用。しかし。

 そそっかしいとは自分で言ってみても他人には、他人どころか愛する人には、あっさり肯定してほしくなかった。


「そこは否定するところ!」

 睡蓮は頬を膨らませ、こぶしを握って、銀月の胸を連打。

「ははは、そうか、そうだったな、ごめんごめん」


 銀月には睡蓮の連打など、痛くも痒くもなかったけれど、降参の意を込めて、わざと仰向けに寝転がってやった。

 はからずも睡蓮は、銀月の上に折り重なった。

 いつにない銀月の快活な笑い声につられて、いつしか睡蓮も、笑い出す。

 笑い転げながら、肩で呼吸し、銀月の上から、どいてやる。


 銀月はまだ笑いを抑えきれぬまま、素直な思いを口にする。

「ふふ、なんというか……なかなか色っぽい雰囲気には、ならないね」

 素直。そんなことが自分にできるとは。

 なんと新鮮。なんという爽快感。


 一方、睡蓮は。

「今日は、よしとく?」

 常とかわらぬ無邪気さで、とっさに口をすべらせた後、それを恥じ入って、うなだれる。


 ……あ。

 いやだ、あたしったら、この期に及んで。

 往生際が、わるい。


 あんまりにも、真に迫った子供っぽい演技を、いつもいつも銀月のまえで心がけていたから。

 すぐには、大人っぽく、ふるまえない。


「よしておきたいかい?」

 銀月が、睡蓮の頬に手をのばして、やさしく問う。

「……銀月、は……?」

 されるがまま、頬をなでられながら、睡蓮が問い返す。


 銀月の答えは、こうだった。

「きみの望むとおりに。わたしは、それに従う」


 銀月。

 つい先刻、あれほどまでに狂おしく、あたしを求めたのに。

 あたしが驚いて、ひるんだら、男のひとだったら誰でも抑えるのがとても困難だといわれる欲望を、我慢してくれたわ。


 今だって。

 あたしのわがままを、受け入れようとしてくれている。

 あたしがもし本当に、今夜はやめてと言ったなら。

 銀月は本当に、なにもしないで、いてくれるわ。

 明日も明後日も、もしもやめてと、言ったなら。

 銀月は。

 気が狂いそうになっても、自分を殺して、あたしを尊重してくれる。


 それに、甘えてしまっていいの?

 いいわけがないでしょう、睡蓮!


「……して」

 睡蓮は恥じらいながら、みずからの意志を口にした。

「……いいのかい?」と銀月は訊いた。

 それにはうなずいて答えた。

「本当に?」

 また、うなずいた。


「本当に?」

「もうっ、そんなに何回もきかないでよ!」

 ついに睡蓮はたまりかね、真っ赤になって、また銀月の胸をぽかぽかと殴ってしまう。


「ははは、ああ、ごめん、ごめんよ」

 銀月は、また笑い出してしまった。

 しかし今度は睡蓮は、つられて笑い出したりしなかった。

 銀月の胸に顔をうずめたまま、まんじりともせず銀月の次の行動を、待った。


 銀月は睡蓮を胸に乗せながら、睡蓮の声を、思い返した。

「……して」

 して。

 なんと、わかりやすい表現。

 もっと、聞きたくなった。

 言わせたくなった。


 して、して、銀月、ああ、もっと、して。


 銀月は形勢を逆転させ、睡蓮を身体の下へ、組み敷いた。

「一度はじめたら、途中でやめられない、それでも、いいね?」

「……いいわ」


 それが強がりだと、わかっていた。

 声は震えていたし、組み敷いた身体も、わなないていた。

 まるで、捕縛された小鳥のように。

 それでも銀月は、睡蓮の放った答えに別の意味を乗せた。


 いいわ、銀月、とっても、いいわ。


 もっと、聞きたくなった。

 言わせたくなった。


 先刻たしかめた、女らしさの極致と言ってもいい、曲線。

 まだ、手のなかに生々しく残っている。

 見るからに、豊満で、しなやかな肢体。

 この身の下で、なまめかしく、息づいている。

 その抱き心地は、想像をはるかに超えて、すばらしく。


 女など、誰でも同じだ、などと。

 うそぶいていた自分はなんと、愚かで浅はかだったことか。


 睡蓮は、ちがう。

 他の誰とも、ちがう。


 最愛の女と交わす性愛。

 その快楽と、恐怖。

 光と闇、善と悪、終わりと始まり、死と再生。


「きゃああああっ、いや、いや、いやあああっ!」

 もう終わりが近づいてきたとき、睡蓮は錯乱して泣き喚いた。

 力を抜いて、という銀月の言葉も、耳に届かないくらいに。


 いくら泣かれても、今さらもう、止められない。

 それでもいいかと、あらかじめ確認は、した。

 睡蓮は、うなずいた。

 だから、止めなくてはならない道理はない。


 ないのだけれど。

 睡蓮の悲鳴は、耐え難く。

 銀月の原始的な欲望を、凌駕してしまった。


 銀月は、それ以上進むことを、断念した。

 そうなってから、ようやく睡蓮は正気に返った。

「……あ……」


 睡蓮は、さぞやほっとした顔をするだろうと思ったのに。

 あにはからんや、後悔と自己嫌悪に苛まれて、悲しげ。

「ち、ちがうの、いまのは……ちがうの、忘れて、聞かなかったことにして」

 うろたえて、銀月にすがりつく。


「そういうわけには、いかないだろう」

 睡蓮を宥めながら、猛り狂った自分自身を、意志の力で捩じ伏せる。

「でも、でも、途中でやめられないって、言ってたわ」

「まあ……なんとかなる」


 銀月は、睡蓮に微笑んでみせた。

 しかし、その微笑は苦悶に歪んでいた。

 我慢も、そこまでで限界。

 銀月の五体が、震え始めた。


「ちょっと、失礼するよ」

「待って、いかないで、おねがい!」

 一層つよく睡蓮にしがみつかれて、銀月は思わず、うめき声を漏らす。


「睡蓮……たのむ、これ以上は……」

「いかないで、ちゃんとして、今して。今、あたしをぜんぶ銀月のものにして。痛くても苦しくても恥ずかしくても、いいの。銀月を全部うけとめたい。今して。ちゃんとして。今がいいの。今じゃなきゃ、いや」


 明日なんて、どうなるかわからない。今度なんて、もう来ないかもしれない。

 あたしは知ってる。

 世界はいとも簡単に、ひっくりかえる。

 父さんも母さんも、一瞬でいなくなった。

 二番目の父さんは、ある朝とつぜんあたしを捨てて、消えた。


 この幸福も、いつなくなるか、わからない。

 陽花楼で暮らしていても、女将や姐さんたちにどれほど可愛がられ、妹たちからいくら憧れられていようとも、だれにも一言もこぼしたりはしなかったけれど、眠るのは毎晩こわかったし、起きるのはもっと怖かった。


 すべてが、泡のように儚く消えるまえに。

 いっそのこと最愛の男になにもかも、奪いつくされてしまいたい。


 激しく泣きじゃくる睡蓮を、きつく抱きしめ。

「すぐに、終わるから」

 銀月は、覚悟を決めた。


「……もしも、あたしが嫌がっても、やめないでね」

 銀月は深くうなずいて、再び動き始めた。

「あ……いッ……!」


 いや、と言いたかったのか、痛い、と言いたかったのか、それとも銀月の名を呼ぼうとしたのか。

 銀月には、わからなかった。

 睡蓮は、あとに続く言葉を苦痛とともに、呑み込んだから。


 睡蓮の望みどおり、銀月はもう、やめなかった。今度こそ、もう止められなかった。

 ひたすら、うわごとめいた身勝手な慰めの言葉を、吐き続けるだけ。


 睡蓮、睡蓮、あと少しだから。

 力を抜いて、愛しているよ、いい子だ、もう少しだから。

 愛しているよ、いい子だ、愛してる、愛しているよ、睡蓮。


 ばかの一つ覚えのように、愛の言葉を口走りながら。

 自分の弱さ、醜さ、浅ましさを噛みしめる。

 この世のものとも思われぬ、法悦のなかで。

 自分はただの男なのだ、男でしかないのだ。

 睡蓮の前では、ただの男でしかないのだ。


 それで、いいのだ、と。

 すさまじいまでの開放感を、味わっていた。

 睡蓮の、なかで。

 今までの銀月は死に、新しい銀月が、うまれた。

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