第一話
「もう、これで思い切れるから」などと、真っ赤な嘘。
お膳立てをしてくれた蓮姫への気遣いと、精一杯の強がり。
あれ以来、睡蓮の胸に絶えず暗雲として垂れ込めるのは、銀月と最後に交した、会話。
すれ違うばかりの、空虚な。
夕間暮れの中庭で、途方に暮れて。
近づこうとするほど、波に押されて遠ざかる漂流物のようだった、睡蓮と銀月。
中庭で待っていた銀月は、最初から機嫌が悪かった。
ずいぶん待たせたせいもあったろうけど、なんだか、それだけじゃなかった。
ずいぶんと、おっかなかった。
「あの……もしかして、機嫌わるかったり、する?」
とりつく島もなくて、わかりきったことを質問してみたら。
「まあ、良くはない」と、どこか投げやりな返事。
「え、ど、どうして?」うろたえて、訊ねると。
「で、きみの用というのは?」
銀月の、鼻を括るような態度に、睡蓮は萎縮して、しどろもどろになってしまった。
「えっと……あたしの、旦那えらびの、ことなんだけど」
「ああ」
「銀月は……参加したり、しない、のかな」
「なぜ、わたしが……?」
まるで、銀月は「わたしにはまるで関係のないこと」と思ってるみたいで。
かちんときた。その憤りが萎縮を凌駕した。
「銀月は、あたしのこと、どう思ってるの?」
思い切って、核心にふれてみた。
「…………」返ってきた反応は、あきれたような沈黙。
わざわざ言葉にしなくてはわからないのかい睡蓮?
銀月は、目顔でそう示している。
睡蓮は祈るような、いっそ挑むようなまなざしで銀月を仰ぎ見た。
そうよ、わからないわ。言葉にして、ちゃんと言って。
態度で示して。
もしも本当にあたしを欲してくれるのならば、行動を起こして。
名乗りをあげて。あたし、あなたを選びたい。
他の誰にも渡さないって言って、あたしを安心させてよ。
おねがい。
祈りは銀月に、届かなかった。
気まずい沈黙に耐えられなくなった睡蓮は、焦燥に駆られ、あげくの果て。
言わなくていいことまで、口走ってしまう。
「……あたし、知ってるのよ。銀月が妓楼に通ってるってこと」
「!」
ここで初めて、銀月がたじろぐ気配を見せた。
睡蓮は少しばかり溜飲を下げた。
なによ、涼しい顔しちゃって。
あたしばっかり、青くなったり赤くなったり、ばかみたいじゃない。
少しはあわてると、いいんだわ、この、わからずや!
愛しさは、憎らしさに、裏返った。
睡蓮は、さらに畳みかける。
「どうして、他の女のひとはよくて、あたしは駄目なの?」
「駄目というより、きみとわたしはそんな関係ではないはずだ」
ソンナ関係ジャナイ。
それが銀月の、本音なのか。本心なのか?
いや、そんなの、信じたくない!
めまいに襲われ、ふらつく睡蓮。
ソンナ関係ジャナイ。
銀月にしてみれば、睡蓮を性処理の道具にするなど、とんでもない、という意味を込めて遣った言葉だった、が。
睡蓮は、別の解釈をした。
「あたし、小さい頃から、銀月のことが、好きだったの」
絶望の淵に立たされながら、それでも勇気をふりしぼり、震える声で告白したのに。
「そんなことはとうに知っている。さっきから一体、きみは何が言いたいんだ?」
睡蓮は、絶望の淵に、ぶらさがった。
「……あたしって、銀月から見たら、女として魅力がない……?」
「ぷっ」
なんと銀月は、吹き出した。
上目づかいで、恥じらい、ぷるぷるしながら、真摯に問う睡蓮が、砂ねずみみたいに愛らしくて、つい笑ってしまったのだ。
その何気ないふるまいが、睡蓮を絶望の淵へ、ついに突き落としたのだとは、想像もしない。
「もっ、もう、いいっ、よくわかったわ、さよなら!」
「睡蓮、どこへ行く。まだ肝心の用が済んでないだろう」
「用なんかないわ、もう帰ってよ、もう、もう、銀月なんか、知らないッ!」
こっぴどく、振られた。
もう、もう、立ち直れない。
それでも、旦那選びは、睡蓮自身が決めたこと。
心身の調子が最悪でも、幕は上がる。
楽しみにしてくれている人々の期待は、裏切れない。
主役の代理は、今度ばかりは、他の誰にも務まらない。
当代随一と謳われる踊り子としての誇りにかけて、睡蓮は晴れの舞台を踏んだ。
ひとたび舞台に上がれば、睡蓮は、一個人を超越する。
陽花楼を、背負って立つ、花形。
女将、奉公人、姐たち、妹たち、その背に何十人もの生活を、人生を背負って、踊る。
かつて睡蓮が失い、見出し、また最初から築き上げた、大切な居場所。
そして、観衆の夢想と官能を掻き立て、退屈な日常に、潤いを。
役目は、果たす。必ずや。
傷つこうが、立ち直れなかろうが。
むしろ、踊ることによって、前に進める。救われる。
銀月がいても、いなくても。
踊っている間は、自我すら、消滅するのだから。
観衆は、睡蓮の舞に酔う。
それは、睡蓮自身が、陶酔を極めるからだ。
客席に銀月を認めても、動揺はしなかった。
旦那の候補者に銀月の友人である夢龍がいたので、その横に座っているかもしれないとは、あらかじめ予測がついていた。
「睡蓮姐さん、とっても綺麗」
「まるで花嫁さんみたい……」
「あたしたちも、がんばろうね」
「最高の踊りで、盛り上げましょうね」
可愛い妹たちが前座に上がる前、円陣を組んで気合を入れ合う様子が視界に映り、睡蓮は覚えず微笑を浮かべたもの。
蓮姫姐さんが見立ててくれた、純白の清楚な衣装をまとい、みずからも精神を統一する。
睡蓮が本当に銀月への片想いを断ち切ったのは、まさにこの瞬間だった。
……その刹那、だけだった。
舞い終わり、自我を取り戻し。
銀月が座していた席が空になっているのに気づいた途端。
胸の痛みは、よみがえり。
人々の喝采に応えて深々と頭を垂れながら、睡蓮は落涙しそうになっていた。
自分の弱さに、ほとほと嫌気がさす。
それは、絶え間なく睡蓮を苛み、蝕み。
近頃は、ふと気を抜いたら最後、精神が現実を乖離して浮遊する始末。
今も。
候補者の一人一人と、個別面談の最中だというのに。
……睡蓮……睡蓮……誰かの呼ばわり声が、遠くから聞こえてくる。
「睡蓮ったら!」
「……あ」
隣席の親友、英愛に袖をつかまれ、引っ張られて、ようやく我に返る。
ハッとして辺りを見回す。
正面には、夢龍が困惑した表情で、かしこまって座っている。
夢龍。
銀月の、友人。
銀月、の。
そう連想しただけで、睡蓮の瞳から大粒の涙が。
その場の全員に、動揺が走る。
夢龍は当然のことながら。
審査員よろしく、円卓を囲む女将と、蓮姫をはじめとする睡蓮の姐たちと、英愛も。
「あ……ごめんなさい、あたし……ごめんなさい、本当に……ちょっと、失礼します」
「待ってくれ、睡蓮ッ!」
慌てて立ち上がり、走り去る睡蓮。
反射的にあとを追う、夢龍。
腰を浮かせた英愛を、蓮姫が制する。
「英愛、放っておきなさい」
「だ、だって姐さん、睡蓮と夢龍様を二人きりにするなんて……」
「蓮姫の言うとおりだよ、英愛」
女将・房子も、蓮姫に同意。
「母さんまで、そんな」
「面談を中座して、泣きながら逃げ出すなんて無作法を、先にやらかしたのは睡蓮のほうだ。
夢龍様には睡蓮が、詫びを入れなきゃいけないんだ」
それ以上、母や姐に抗う術もなく、英愛は二人が出て行った扉に、じっと目を注ぐ。
睡蓮……と心配そうに、つぶやいて。




