第一話
「父さん、大きくなったらあたしをお嫁さんにしてね」
「さて、どうするかな」
「ええーっ、ぜったいー、ぜったいー」
「ははは、まあ、考えとくか」
「いやー、そんなの駄目ー、ぜったいー、ぜったいー、
ねえ……約束して?」
「ははははは……」
笑い声だけを残して、父さんはどこかへ行ってしまう。
慌てて見回すと、はるか彼方に男女の影。
父さん、その女のひとは誰?
どうして一緒に旅をすることになったの?
どうしていつも父さんのそばにいるの?
いや。
そのひとと仲よくしないで。
あたし、そのひと、きらい。
だって、いじわるなんだもの。
まって、父さん、いかないで。
どうして、そのひとを選ぶの?
どうして、あたしじゃ駄目なの?
父さんの夜の顔を見て、逃げ出したから?
そのあと拗ねて、素直ないい子じゃなくなったから?
だからって、あんまりじゃない。
おいていかないで。
おいていかないで。
さよならも言わないで。
言わせてくれないで。
こんなの、ひどい。
まってよ。
「父さん!」
飛び起きて、目が覚めた。
差し伸ばした腕が、虚しく空を切る。
金色の前髪が、ひたいに貼りつく。
柔らかな曲線を描く頬にも、汗ばんだ首すじにも、
上下する肩にも。
豊かな金髪が、きらめく鎖の如く、
睡蓮の上肢に、まとわりついている。
「あ……」
小鳥のさえずり。
窓から差し込む、やさしい光。
朝の訪れを知って、睡蓮は深いため息をつき、
両手で、顔をおおう。
が、いつまでもそうしては、いない。
上肢にまとわりつく黄金の鎖の束を、
ぱっと跳ね上げて、みずからを解き放ち、
寝汗を吸った夜着を床に、脱ぎ捨て。
庭へ出て、泉水に身を浸す。
頭の先まで、水に潜る。
ばかみたいよ、睡蓮。
もう十年も昔のことなのに。
いまだに夢を見て、うなされるなんて。
限界まで呼吸を止めておいてから。
一息に、浮上。
睡蓮、十七歳。
妖精のごとく、清水をまとい、
泉から現れたその姿は、まるで。
たった今、誕生したばかりの、美の化身。
「睡蓮姐さん、朝食の用意ができました」
扉の向こうから、少女が呼びかける。
「ありがとう、今いくわ」
睡蓮は即応し、したたる雫を適当にぬぐって、
薄物を、羽織る。
大鏡の前を通り過ぎる際、
ふと、濡れそぼつ自分の姿を認め、
お小言を食らうかしら、と逡巡したが。
一瞬後には、まあいいわ、と思い直し、
気楽な足取りで、食堂へ。
果たして、案の定。
「睡蓮ッ!」
親友の絶叫が、食堂に響き渡る。
「睡蓮、あんたってば、また、
水浴びをしたまま、なんの手入れもしないで!」
「うん、だって、気持いいから」
「駄目よ、だめだめ、食卓には座らせないわよ、
こっちへ来て!」
「いいじゃない、朝ごはんの後だって」
「駄目だったら!
水気が蒸発して髪が痛むわ、肌が荒れるわ、
今すぐ香油と乳液を擦り込まなくっちゃ」
親友の部屋へ、強制連行。
彼女の名は、英愛
ここへ、睡蓮とほぼ同時期に、やって来た。
奴隷商人から無報酬で、もらい受け、
大切にしてやってくれと念を押されて居ついた睡蓮とは、
雲泥の境遇。
食いつめた極貧一家の子。
他に娯楽があるわけでなく、
男は慰みに、言いなりになる女を抱き。
女は孕み、ときに流し、ときに生んだ。
その中の、ひとり。
何人、兄弟がいるのかは、知らない。
兄や姉は、いつのまにか、いなくなった。
売り飛ばされて、初めて。
兄や姉も、同じ道を辿ったのだと、悟った。
奴隷市場で、英愛は売れ残った。
やせこけて、顔色は悪く、不潔で、
なんの役にも立ちそうになかった。
それを女将が、哀れに思い、引き取った。
英愛が女将の酒楼にて、
最初に与えられた仕事は、床磨き。
命じられ、這いつくばって、
床をごしごし擦っていると。
「あたしも、手伝うね」
耳に飛び込んできたのは、鈴のような声。
陽がさしたような明るさを感じ、顔を上げると。
目に飛び込んできたのは。
ふわふわの金髪。むらさきの瞳。
名工が丹精こめて作り上げた異国のお人形のような顔に、
花が咲きこぼれるような、微笑。
「ここを拭くのね?」
「睡蓮、なにやってるんだいっ!」
汚れた床に膝をつき、絹の肩掛けを惜しげもなく、
どす黒く淀んだ水を湛えた桶へ突っ込もうとしている少女を、
女将は必死の形相で留める。
女将がどれほどきつく叱ろうとも、
いたいけな見かけによらぬ頑固さで、
手伝うと言い張って譲らぬ睡蓮を、説得したのは、英愛。
「あんたはおりてこなくていいわ、睡蓮。
あたいが、あんたのところまで、あがってくから。
待ってて、すぐよ、すぐに、追いつくから」
英愛は、誓いを果たした。
奴隷市場で売れ残り、お情けで引き取ってもらった、
みすぼらしい子供は。
いまや睡蓮と一、二を競う、酒楼の花形。
睡蓮にとっては好敵手であり、親友でもあり、
しっかり者の妹のような、英愛。
成り上がるまでには、睡蓮の付き人も、こなした。
そのときの習慣が抜けず、
いまだに、あれこれと睡蓮の世話をやく。
嬉々として。
今も睡蓮の肌を、
本人がするよりも丁寧に丹念に、整えている。
そうしながら「ねえ、睡蓮」と声をかけ。
「ん?」
顔をすべる優しい指の感触に、うっとりと目を閉じ、
睡蓮は、生返事。
「本当にやるの? 旦那を一般公開して決めるって、あれ」
英愛の問いに、睡蓮は夢から醒めたように目を開け。
「うん、母さんにもお話したわ。
あたしを囲いたいってひとが三十人を超えたし。
このままじゃ無茶を言い出す人も増える一方だし。
そろそろ一人に決めなきゃ、おさまりそうにないから」
睡蓮に限らず、酒楼の娘たちは皆、
女将を「母さん」と、ごく自然に呼び習わしていた。
「ふん、男なんか、もっともっと焦らして、
せいぜい財を搾り取って、
あいつもこいつも鼻ヅラをひきずりまわしてやればいいのに」
「駄目よ、母さんがこれ以上悪く言われるのは、
耐えられない」
睡蓮を欲するあまり、
様々な重圧をかけてくる輩がいるのだ。
金と権力にものを言わせ、脅し、宥め、賺し。
あらゆる手を使って。
睡蓮には、嫌われては元も子もないから、
それほどあからさまな態度は示さない。
しつこいひとは嫌い、と睡蓮は、
常日頃から、言い放っていたから。
それ故、矛先は睡蓮を抱える、女将へ。
女将は防波堤となり、睡蓮を守ろうと、懸命。
女将は平静を装っているが、
ひとつ屋根の下に住んでいれば、
その心労の度合は、気を配っていれば、
容易に、慮れる。
……水面下で、こそこそできないように、してやるわ。
睡蓮は、思い切った策に、出た。
自分の旦那選びを公開して、見世物にしようと言うのだ。
「あたしを囲うのは、
高級官吏の試験に合格するより、難関よ」
肌の手入れを終え、今度は髪を梳かし始めた英愛へ、
鏡ごしに不敵な笑みを向ける、睡蓮。
獲物を待ち伏せる、しなやかな獣のよう。
英愛はため息をついて頭を振った。
一瞬とまった手をまた動かし、睡蓮の金髪を整えながら、
「それで、銀月様も、
その難関に挑戦しようと名乗りを上げているのよね?」
当然、という口調。
睡蓮は、自嘲。
先刻とは打って変わって、
叱られた仔猫のような、しおらしさ。
「銀月は……そんなんじゃないもの」
「えっ?」
英愛の手が、また止まる。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。
そんなんじゃないって、なら、あの方は、
あんたの一体、何なわけ?」
睡蓮は答えず、曖昧に微笑む。
心の中では、こうつぶやいて。
知らないわ。
あたしが訊きたいくらいよ。
ううん、本当は知りたくない。
知るのが、怖い。
ねえ、父さん。銀月。
何故、あたしでは駄目なの?




