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死亡猶予

作者: Mr.あいう

この作品は空想科学祭2010参加作品です。

 朝起きたら、死んでいた。

 多分、心臓発作なのではないかと思う。

 この年になっても節度を知らずに毎日毎晩酒を飲み明かしていればそりゃあ動脈だって堅物になってしまうだろう。少し血栓を通してやるくらいの余裕も無くなってしまうだろう。

 天井から垂れ下がる蛍光灯のスイッチ紐に手をかける。寝たままでも操作できるように継ぎ足してあるのだ。明るさに眼を瞬かせながら時計を見ると、午前の四時。朝というにはまだ早かったようだ。やれやれ、また中途半端な時間に死んでしまったものである。

 体を起こすと、全身が妙に軽い。

 奇妙に思いながらも立ち上がると、ようやくその違和感の正体に気がついた。

 体の感覚が全くないのだ。寒くも暑くもなく、痛くも痒くも、自分の体が何処にあるのかもいまいち定かではない。噂には聞いていたが、死んだ後に感じる開放感とは、どうやらこのことらしい。

 一度無意味に伸びをしてから考える。

 今、妻は一階にいるはずなので、起こしに行こうとふすまを開けた。

 起きるには早い時間だが、何しろ亭主が死んだのだ。睡眠時間など気にしている場合ではない。

 やけに体が軽いので、スキップなどしながら階段へ向かった。そして、一段下へ足をかけた所で、嫌な予感。抵抗がまるでないというのは、ひどく下りづらいものなのだ。スキー用の靴を履きながら階段を下りる難解さに近い物がある。

 案の定、バランスを崩して騒々しく一階へ転げ落ちた。

 自分が転げ落ちていく音を他人事のように聞きながら落ちていると、途中手すりに顔面をしたたかぶつける。

 妙に視界が狭くなってしまったと思いながらもようやく一階にたどり着いた。

 立ち上がろうと思ったが、右足が動かない。幸い首は動いたので見てみると、なるほど折れ曲がっていた。

 面倒だが手すりを掴んで立ち上がる。折れた中指を一緒に握りこむのは奇妙な感じだ。

 ただでさえバランスが取りづらいのに右足まで骨折してしまい、本格的にゾンビのような悠長な歩き方になってしまっていた。根がせっかちな俺には少々辛いものがある。

 まだぼんやりと焦点の合わない視界の中で揺ら揺らと片足を引きずり、妻の寝ている寝室まで行こうと思ったが、洗面所の辺りで妻と出くわした。

「まあ! まあ! そんな顔になって! 一体何があったんです!?」

 顔? 顔色がそんなに悪いのかと疑問に思いながらも、俺は妻に死んでしまった旨を伝えた。

「階段から転げ落ちて!? あら~、どんくさい死に方ねぇ…………」

 どうやら勘違いをしているようなので即座に訂正。

 死亡理由が階段から転落死では俺のプライドが許さない。

「へえ、心臓麻痺。で、私に伝えようと下りてきた所で躓いたと……まったく、だからあれほど酒は控えなさいと言ったのに!」

 責め立てるような口調でそんなことを言ってくる妻。

 俺の死が妻の正当性を裏づけしているので反論も出来ない。

 所在なく余所見をしながら頭をかいていると、呆れたようでため息をついて妻が言った。

「…………まあ、死人を責めても仕方がないわね。それよりあなた顔だけかと思ったらまあ、体中傷だらけじゃないの。自分の体を見て御覧なさいな。そのままだと気味悪いから、早く何とかして頂戴」

 ゾンビに対してなんて言い草だと思ったが、仕方なく洗面所の明かりをつけて、鏡を覗くと…………。

 ……なるほど、これは確かに酷い。視界が狭くて焦点も合わないと思ったらこれが原因だったようだ。

 左目があった部分には空洞が広がり、眼の端からは涙のように視神経らしき物が垂れ下がっていた。

 これは、確かに見るに耐えない外見だ。

 ひょこっと、俺の後ろから顔を出して鏡を見ながら妻が言った一言。

「ほら、まるで三流ホラーのゾンビみたいな顔をして」

 ゾンビ相手に流石に不謹慎じゃないかと思った。



 人間は電気で動いている。極端に言えば、の話だが。

 筋肉は電気で伸縮し、脳は電流で思考する。

 死、というのは機械で言うところの故障な訳だ。

 血液が体外に出すぎたせいで発電システムに不備が生じた結果、脳が損傷し送電システムに不備が生じた結果、酸素や栄養が欠乏し電力が不足した結果、発生する事象が死である。

 故障すれば停止する。その一点に置いて人間は機械となんら変わりはない。

 だから、故障による混乱を防ぐ為に機械にはバックアップが存在し、予備電源が存在する。


 それならば人間を機械と捉え、予備のバッテリーを据え付ければ一時的にしろ人は生き返るのではないか。

 そう考えたある企業が、とうとうある歴史的な発明をした。

 ナノテクノロジーの最終形態とも言えるその機械。使用目的は死からの蘇生。

 原理は予備電源と同じである。人間の体内を常に行き来する電気信号が途絶え、死亡が確認されたときに体内に無数に存在するその極小の機械が作動し筋肉なら筋肉に、脳なら脳に直接電力を供給する事で呼吸や食事といった生命活動を行わなくとも動くことが出来るようにする装置。

 取り付けに大仰な手術は必要なく、そのナノマシンが入った錠剤を嚥下する事で体内で自動的にそのマシンが最適な居場所を見つける。体内電気をわずかづつだが絶えず取り込んでいるので電源がきれる心配もない。いついかなる場合に死亡したとしても、脳さえ無傷なら思考し続けられるのである。

 しかし、必要最低限の電気しか供給できない為に、食べることや寝ることなどの生命活動が出来るわけでもない。

 しかも、体内電気に電気の供給を全て頼っているわけであるからして、死んだ後充電する方法はない。内蔵されたバッテリー内のエネルギーが無くなれば、あとは死体に逆戻りである。

 そのバッテリー内のエネルギーが無くなる期間と言うのが…………。


「激しい運動等をしなければ、もつのは約三日だそうよ」

 妻は自分の茶碗にご飯をつぎながら言った。

 俺は新聞を読みながら返事を返す。そんないつもの食卓。相違点としては、俺が何も食べれないということだけだ。俺が死んでいる事なんてお構い無しに、日常は通常通り動いていくようだ。

そんな現実に、何となくむなしいものを感じた。

「何が?」

 どうやら口に出てしまっていたようである。目ざとく聞きとがめた妻がそんな事を聞いてきた。

仕方なく手に持った新聞を指差し、来週の洋画劇場『ゾンビハザード3』が見れないからだと言うと、呆れたような顔をされてしまう。

「別にそれくらい借りてこればいいじゃない。全く。ていうか、なんでゾンビになってからゾンビの映画を見たいのよ」

確かに死んでからゾンビ映画を見ると新たな視点から楽しめそうである。

『止めろ! そのゾンビたちにも人生があったんだ!』とか? ……いやいや、流石に無いだろう。

そういえば、俺が死んだ事について、娘には何か言ったのだろうか?

「え? あ、ああ、ああ。そうね。すっかり忘れてたわ。何しろあなた、ぴんぴんしているものだから」

なんという肝の座った女なのだろうか。それか俺の重要度の低さが原因か。

ともかく、俺が死んだと言うのに間違って朝食を二人分作る程度には普通だ。

俺は死んだと言う事を、はっきり理解してもらいたいものである。

「そうね。確かにこのままだとホントにあなた生きてるみたいですものね……そうだ! ちょっと病院行って、死亡届を貰ってきて頂戴。口が聞けるうちの方が、そう言う手続きはスムーズに行くそうよ。仕事場と娘には電話しとくから、急いで急いで」

そんなものかねぇ……と思いながら俺は妻が朝食を取っているのを見る事を止めた。

着替えをしようと自分の部屋に行くと、妻が食事途中なのについてきた。

「だって、今のあなた一人じゃ着替えも出来ないでしょう? それに…………」

そう言って妻は、俺の足を指差す。

「いくら痛みが無いからって、流石にそれじゃ歩きにくいでしょう? それにあなたの顔、とても朝食後に見たい顔じゃないわ。他の人の迷惑よ。待ってて、今ギッチギチに包帯で固めてあげる」

そう言って妻は、嬉しそうにオホホホホと笑うのだった。


「…………それで、こんな格好に」

行きつけの医者と向き合い、苦笑いを浮かべあう。

先生のメガネに映る俺は、見まごう事無きミイラであった。

確かに眼球を失った眼孔は隠せたし、足首も固定され動きやすくはなったのだが、それにしても全身を包帯で覆いその上からスーツを着るファッションはいささかハイセンスすぎはしないだろうか。

おかげで病院に来るまでの道のり、怪訝な視線を向けられっぱなしであった。

「まあ、しかし合理的ではあるんですがね。とりあえず、心拍を確認しますので包帯を…………酒井君。はずして差し上げて」

感覚が無くなり精密性が失われた俺の指でははずすことは不可能と判断したのだろう。

ナースさんが私の胸に手をあてて繊細な手つきで包帯をはずしていく。感覚がなくなったのが少し惜しい。

やがてはずし終わると、痣で変色した俺の体が露わになった。

あまりに酷いその様子に、少々面食らいながら先生が尋ねてきた。

「これは……一体どうしたので?」

はあ、じつは……と、階段から落ちた旨を説明する。

「なるほど、階段から足を滑らせてそのまま……いやはや、不運ですな」

どうやら先生も勘違いをしているようだった。

俺のプライドの為にも、頑として訂正しておいた。

「ふぅむ、心臓麻痺ですか。まあ、日ごろの不摂生がたたったんでしょうな。まったく、だからあれほど………」

妻と同じ指摘に、俺は再び恐縮した。生前はいらだった先生の長い説教も、死んで見ると案外素直に受け入れられるようだ。

やがてひとしきり説教をし終わった先生は、俺に上着をあげるように言うと、聴診器を使って鼓動を調べ始めた。小さくうなずいて、神妙な面持ちを作る。

「残念ですが、ご臨終です」

自分の臨終を医者に知らされるというのも、また妙な話だ。

そういえば、先生も人が生き返るようになって何か変わった事があるのだろうか?

興味が沸いたので尋ねてみると、苦笑しながら先生は語りだした。

「いやぁ、正直に申しますと、新しい事の連続で対応に困ることもしばしばです。特に救急車で死んだ人が運ばれてくるときが一番厄介です。死んだ人間に『先生、寒いです。何とかしてください』と懇願されるとね、どうにも自分の無力さを再認識してしまうんですわ。結局私ら医者には生きてる人しか救えないんだとね。私の知り合いの外科医がそれで内科に転任してしまいましたよ。まだ若く、才能もあった外科医なんですけどね。『さっきまでうんうん唸っていた重篤の患者が、治療中に突然元気になって悲しそうな顔をして「先生、ありがとうございました。もう痛みも無くなった。私はもう駄目なようです」なんて言うものだから、自分の責任に耐え切れなくなった』と言っていましたわ。医者も因果な商売になったものです。昔は良かった。自分が死なしてしまった人間が、何も言わなかった時代は…………」

遠い眼をしながら呟く先生を見ながら、俺は先生が丁度この機械が発明された頃にこの病院にやって来た事を思い出していた。

「こんな戯言、聞いてくれてありがとうございます」

笑顔でそんな事を言う先生に、帰り際に俺は声をかけられなかった。

『あなたの責任じゃない』なんて無責任な事は、到底口に出来なかった。


死亡届を役所で貰ってから家に帰ると、何と玄関で娘と知らない男が正座していた。

確か娘が住んでいるのは車を飛ばしても一時間はかかるところだったが…………。

「あら、お帰りなさいあなた。何か、恭子が話があるそうよ」

「父さん! 死んだって聞いて、飛んできました!」

ニコニコと笑顔で笑う妻と、殺気が感じられる眼でコチラをにらむ娘と、びくびくとコチラの様子をうかがっている見知らぬ男。

全く意味がわからない。

「とりあえず、その書類はこっちに貰うわね」

と、妻は私の手から死亡届をひったくるとさっさと奥に引っ込んでいった。

まあ、ともかく残った二人に事情を説明して貰う事にした。

だが、俺が声を上げようとすると、先手を打って正座していた二人が地面に頭をこすり付けた。

そして、男の方が叫ぶ。

「娘さんを僕にくでぇやひゃうぃ!」

かんだ。



ともかく、話を聞いたところ。

「あの、この人は正輝さん。二年前からお付き合いをしていて、あの、母さんにはきちんと言ってたんだけど、父さんにはもうちょっと待って伝えようかな~……なんて思って言わずにいて、あの、だから、つまり……」

口ごもりまくっている娘に見かねて妻が助舟を出した。

「ようは、父さんに二人の結婚を許してもらいたいとそう言うわけよ」

「「お願いします!!」」

再度土下座を敢行する二人の懇願がソプラノとアルトでハーモニーを奏でた。

そうは言っても、あまりに唐突である。

生前ならこんな優男は蹴りあげて怒鳴りつけて玄関から放り出すくらいの元気は合ったんだが、死んでからはどうも怒りと言う物が沸いてこない。あるいは、これが死を受け入れた後の安らぎなのだろうか。

「いいじゃないですか。どうせこの二人、あなたがどれだけ反対しても死んだらすぐに籍を入れちゃいますよ」

なんという……俺の妻の節操の無さだろうか。普通言わないだろそんな事。

「いえ! 僕は父さんが許してくれるまで結婚しません!」

「えっ!? 父さんが許さず死んだら一生結婚できないじゃない!?」

「あっ、えっ!? その……そのときは同棲とか、色々考えるよ」

「ふざけんじゃないわよ! なんでそんな事で結婚を諦めなきゃ……あ!!」

なんというか、一言多い我が娘である。一体誰に似たのやら。

まあ、俺も老い先短い、というか、すでに死んでいる。

死人が若い奴らの足を引っ張るなんざ、俺のプライドが許さない。

が、どうしても親として一つ確認すべき事がある。

確か、マサキといったか。彼の眼を見て、一つだけ尋ねた。

こんな娘を、一生かけて幸せにする覚悟があるのかと。

彼は、はっきりと俺の目を見て、近所迷惑なくらいに大声で叫んだ。

「はい!」

見ているこっちが赤面してしまいそうな純情さだった。

そんな様子を笑顔で見ていた妻が、あろう事が水を差しやがった。

「ホントにそうよ、あなたが頼りにならないと、ウチの人化けて出るくらいは平気でするわよ」

「えぇっ!?……あのっ、努力、します…………」

……なんというか、今ひとつしまらない青年だった。


「なんというか、楽しい青年でしょう?」

その日の晩。物が食えない俺の目の前で、うまそうに出前の寿司をつまんでいる妻。

あの後、どうやら青年は仕事そっちのけで家まで来たらしく、そのままとんぼ返りして帰っていった。

仕事場への連絡も忘れていたと言うのだから、何か一つ抜けている青年である。

ニヤニヤとマグロを口に放り込む妻に、仕返しとばかり、お前を姑にするあの男は災難だなと言ってやった。

「ウフフ、しっかりと私好みに手なずけて見せるわ。いっそ娘が嫉妬するくらい」

我が家の行く末が心配になる冗談を顔色一つ変えずに口にする妻を見て、妻に頭が上がらないのは俺の運命なんだと心から実感せざるおえない。

「で? ともかく、あと二日あるけれど、明日はどうするの?」

三日。長いようで短いこの期間には、警察サイドの事情もあるらしい。

死亡事故などの状況説明に調書作成までに丁度よく、計画殺人には不向きな期間。

まあ、他にも面倒な遺産相続の手続きが省ける、殺人が早々に起こせない(なにせゾンビになるのを防ぐには頭を潰す覚悟がないと駄目なのだ)。などの理由が多々あるのだが。

そういった面倒なしがらみがない俺には、やや長すぎる期間である。

会社に顔を出すのもいいが…………。


ニコニコと笑っている妻を見ていると、気持ちがだんだん固まってきた。

旅行に行こう、と俺は妻に切り出した。そうすると……。

「ええ、荷造りは済ましておきましたよ」と来た。思考回路を完全に見通されている。

やれやれ、と俺は首をすくめざるを得なかった。



「気持ちいいですよ~。あなた」

朝早くに家を出て、新幹線に乗り、鉄道を乗り継いで目的の場所に来たのは夕方になってからだった。

山のふもと、一部屋一部屋に露天風呂がつく豪奢な温泉旅館の一室。

一足早く風呂に入っている妻の声が窓の外から聞こえてくる。

私も入りたいのだが、先生に電話した所『風呂になど入ると腐敗が加速して早く死んでしまいますよ』だそうである。そんな俺に対して『気持ちいいですよ~』なんて、嫌がらせもいい所である。

ぞんざいに返事をして旅館に据え付けてあるテレビを見ていた。やっているのは、地方局ばかり。

素人の獅子舞踊りを退屈しながら見ていた所で、湯気を立てながら浴衣姿の妻がやってきた。

「あらぁ、ふんどし一丁で獅子舞ですか。そんな芸人がどこかにいましたね~」

と言いながら隣に座って他の男の裸を熱心に見始めた妻。

そんな芸人は知らんと突っぱねようとしたが、妻がその前に俺に抱きついてきた。

「お風呂に入れないから、暖かさのおすそ分けです」

俺には感覚が無いんだよ。と、憎まれ口を叩こうと思ったが、止めた。

無いはずの感覚。しかし、体の底から暖かい物が沸いてきた。

しばらく、獅子舞を眺めながらそんなぬるい時間に浸っていたい気分になって。

「それに、暖めると腐敗が進むって聞きましたしねぇ」

……だが、我が妻は、何かをことごとく台無しにしてから、俺から離れて行く。

今日は別々の布団で寝る事を決意した瞬間であった。



「さて、今日で最終日ですね」

言わずもがな、私の生命の最終日である。

眼前には山。これを目標に、ここまで来たのだ。

「そういえば、この山のてっぺんでプロポーズされたんですよねぇ」

そんな甘い記憶を思い出している妻。

「山登りで疲労困憊のときに頭を使わされちゃったから、プロポーズを受けちゃったんでしょうかね?」

甘い記憶が一気に苦いモノへと変わり、ないはずの感覚が疲労を訴え始めた。

「そんな所でへたり込んでないで、さあ、登りましょうあなた」

誰のせいだ! と言える元気さえ残っていなかった。


黙々と、淡々と続く坂道を登っていく。

妻は疲れているはずなのだが、漂々とした表情で疲れない俺よりすいすいと登って行っている。

全く、最後まで何を考えているのかわからない女であったと過去を回想しながら。

不意に、心にとげが刺さっているのを思い出した。

忘れられない、忘れたい記憶。吐き出すのには丁度いい頃あいだ。

なあ……と、妻の背中に声をかける。

「あら、頂上を前にもう死にそうなんですか?」

そんな妻の憎まれ口を受け流しながら、俺は重たい口を開いた。

実は…………一回だけお前を裏切った事があると謝罪した。結婚してから一度だけ、浮気をしてしまったと。すまない、と頭を下げて、断罪を待った。しかし……

「ああ、真智子さんの事ですか?」

思考停止した。もう一度記憶を再確認し、その相手が真智子であった事を確認した。

「あの時はあなたこっぴどく振られたでしょう? それこそ二度と浮気なんてするか! ってな具合に」

ウフフ、と暗黒な微笑を浮かべて、妻が続ける。

「知ってます? 犬を手なずけるのには、頭ごなしにしかるより効果的な方法があるんですよ?」

…………じゃあ、あの強烈なビンタは君の差し金か?

「そうですよ、真智子さんにお願いしました」

尋常ではない脱力感が体を襲った。

俺はどうやら、ずっと妻の手の上で踊らされていたに過ぎないらしかった。

しかも、長年連れ添ったパートナーを犬に例えやがって。

「ほらあなた。頂上が見えましたよ。そんな所でうずくまってないで急ぎましょう」

飼い主の柔らかな一喝に、飼い犬たる俺は反抗するすべを失っていた。


頂上からの風景は、昔と何一つ変わっていなかった。

空気がうまい。死んでなおそう感じる事の出来る幸運に感謝しつつ、深呼吸を繰り返す。

「知ってますか? 今日は二人の結婚記念日なんですよ」

知ってるよ。自身満々にそう答えた。

「ウフフ、朴念仁にしては上出来ですね。あれから三十年……思えばずいぶん年を取ったものです。でも、いい年の取り方をしましたね。あなたも当然そうでしょう? なにせ、私が付いていたんですから」

妻の断定口調にも、今なら腹の底から同意できる。

頂上から見る景色の中で、私と妻の人生は始まったのだ。

そして、ここで終わるのか…………。

そう思ったとき、先ほどとは違う緩やかな脱力感に体が襲われた。

立っていられず、岩の上にしゃがみこむ。

「まあ、年のせいですか? ちょっと運動したくらいで」

いや、どうやらお迎えが来たらしいんだ。

力なくそう呟いて、私は笑った。

「そう……ですか。確かに、激しい運動をしたら、体力を喰いますものね」

そう言って、妻もいつものように微笑んだ。

なあ、一つお願いがあるんだ。

「なんです?」

死ぬときには、一人にしてくれないか?

「わかりました」

妻は理由も聞かず、ただいつものようにうなずいた。

そして、立ち上がると、最後に微笑みを崩してただ一言呟いた。

「また、ここでのプロポーズ、待ってますから」

初めて見た妻の表情に、俺は思った。

最後まで妻に翻弄された人生だったが、それでも。


選んだ最後に、後悔はないと。


「それじゃあ、また来世」

そういって手を振った妻に、俺も振り返す。

…………ああ、また来世。

過ぎ去っていく妻の後姿に、最後まで妻が茶化さなかったとおぼろげに思った。

俺と妻との人生は、これからも続いて行く……確証はないが、そんな気がした。



全てが淡く、白くなっていく世界の中。

ぬるい空気の中で、まぶたがだんだん下りてきた。

体の端から順に、暖かくなっていくのを感じながら、俺は過去を振り返ってみた。

最後まで妻の手の平で踊り、孫の顔さえ拝めなかった。

死因は不摂生。心臓麻痺であえなく死亡。

それでも、俺の命に残された、たった三日の猶予のおかげで。

娘のパートナーにはあえたし、送り出す事だって出来た。

最期の最後で、妻に自ら謝罪する機会も得た。

帳尻合わせにしては、充分すぎた。


そういえば…………結婚記念日に合わせて指輪を宅配しておいたんだったっけ。

ペアリングなんだが、届いたそれを見て妻はどうするんだろう。

驚くんだろうか、泣くんだろうか、それともいつもどおり微笑んでくれるだろうか。

案外、片方だけ付けて片方は質屋に売り払ってしまう気がする。


それでも。

多分、初めて妻の意表をつけた気がする。


今まで一度も見た事が無い妻の驚いた顔を想像しながら、私は暖かい光に身を投げた。

この人生、後悔は無数にあるが。

誰にも聞こえないからこそ、声に出して呟いた。


「分不相応なほどには、いい人生だった…………」

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