第40章:プライド
神谷の誕生日祝いの飲みの席、泥酔して合流したなるか。介抱して新宿の街に放り出された宮下は、終電を逃したことを妻に告げるが
「解散した! 合流してい??」
「あ! 待って?」
私は慌ててスマホのマイクを手で覆い、目の前にいる男に顔を向けた。
「陸さん、なるかが合流したいって言ってるんだけど、いいかな?」
「勿論だよ! きなきな!」
神谷は悪戯っぽく笑い、優しくグラスを傾けた。
「あ、もしもし、合流していいってよ。位置情報送るからここにおいで? 二階の奥の席にいるから」
「わかった!」
数分後、階段を登ってきたなるかは、見るからに出来上がっている様子でフラフラと私たちの前に現れた。
「おいおい、大丈夫かよ。水飲みな」
私は冷や汗を拭いながらお冷のグラスを差し出すと、彼女はそれをひったくるようにして一気に飲み干した。
「なるかちゃん、随分飲んだみたいだね!」
「ははは! 結構飲んでまーす」
その危うすぎる酔いっぷりは、呆れるのを通り越して心配になるほどだった。
「陸さん! この前の歌めっちゃよかったですー!! せんせもすごくよかったー!」
虚ろに焦点を結ばない目で、なるかは先日のライブの感想を熱っぽくまくし立てる。
「ふふふふ、せんせー。めっちゃかわいかったぁ」
「かわいかった?!」
「かわいいよぉ! 好き過ぎるとね、かっこいいじゃなくてかわいいになるんだよ? 覚えて置きなさい!」
「あぁ、そうなんですね。失礼しました」
私はたじたじと気圧されながら眉を顰めたけれど、次の瞬間、彼女の口から飛び出した言葉に心臓が跳ね上がった。
「大体さ!! せんせは、私がどれだけ愛してるか分かってないんだよ!!」
「え?! 伝わってるよ?!」
「いーーーや!! 伝わってないね!! その想像の100倍は愛してるもん!」
「大丈夫だよ、伝わってるって」
「絶対分かってない。せんせより私の方が絶対愛大きいもん」 「同じくらいだよ」
「いーーーーーーーや!! 私の方が絶対大きい!!」
老舗のうなぎ屋の渋い空気に似つかわしくない、あまりにも生々しい恋の痴話喧嘩に、私と神谷は顔を見合わせて冷や汗を拭うしかなかった。
けれど、高ぶった感情の波にアルコールが追いついてしまったのか、次の瞬間、なるかは小さく身を震わせ、先ほどまで胃の中に収めていたものをその場で盛大にぶちまけてしまったのだった。
静まり返った座敷に響いた音に血の気が引く思いでいると、すかさず温和な女将さんが嫌な顔ひとつせず、手際よくテーブルへと駆け寄ってきた。
「あらら、大丈夫ですか? お召し物は汚れてないかしら? おしぼりお使い下さい」
長年、夜の街の人間を見てきたのだろう、その隙のない完璧なまでの神対応に、私たちは申し訳なさで頭が割れそうになりながら、泥酔した彼女を抱え上げるようにして店を後にしたのだった。
泥酔し、ぐったりとしたなるかを両腕で支えながら、私と神谷は新宿の容赦ない喧騒のなかにポツンと立ち尽くしていた。
「さてぇ、どうすっかぁ。もう終電ねぇしな。宮ちゃん、なるかちゃんと新宿泊まっか?」
「いや、流石にカミさんからの許しが出ないよ」
「んだよなぁ。一回電話してみて、ダメそうだったら俺が代わって話してやるよ!」
私は藁にもすがる思いでポケットからスマホを取り出し、自宅の番号を叩いた。コール音が数回鳴ったあと、受話器の向こうから、温度の一切ない冷え切った声が私の耳に届いた。
「もしもし?」
「あ、もしもし? 陸さんと盛り上がっちゃってさ、終電逃しちゃったから、始発で帰る感じでいい?」
「だめです。約束は必ず今日中に帰るという話だったはずです。それは認めません」
「あ、ちょっと、待って?」
私の様子を察した神谷が、無言ですっと手を伸ばし、私の手からスマホをひったくるように受け取った。
「あ! どうも! お世話になってます、神谷ですけれども。すいません、私の誕生日を祝ってくれてて、話が盛り上がってしまって、私のわがままを聞いていただけませんか?」
普段の柔和な彼からは想像もつかないほど、低く、けれど温かみを含んだトーンで神谷は切り出した。しかし、スマホの向こうの彼女は一歩も引かなかった。
「いえ、ダメです。私は旦那と約束しているんです。必ず帰ると。神谷さん、あなたには彼を帰す責任があります。早急に帰して頂かなければ、今後一切、宮下と音楽活動を共にする事は私は許可しませんので。大体、そんないい加減な態度で、誰にいい音楽が届けられるんですか。甚だ疑問です」
その、アーティストとしての矜持を土足で踏みにじるような冷徹な言葉は、神谷の逆鱗に完全に触れた。
「……お言葉ですが!」
神谷の端正な顔が、今まで見たこともないような怒りの形相へと歪んだ。
「あなたに我々の音楽観についてとやかく言われる筋合いはない!! これとそれとは別の話だ! 実に失礼極まりない! わかりました! 何がなんでも帰します! それでは!!」
そう吐き捨てるなり、神谷は画面の切断アイコンを乱暴にタップして、通信を断ち切ったのだった。




