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【朝が来る】9

「洋二さん、そろそろやめた方がいいんじゃないですか」

 缶チューハイを冷蔵庫から取り出すと、キッチンに立っていた絵里が恐る恐る声をかけてきた。

「ええと、やめる?」

 いい具合に酔った頭では、絵里が何を止めようとしているのか理解が出来なかった。

「もう、今日は四本目ですよ。このままの生活を続けると、体調を崩してしまいます」

 洋二は手に持った五百ミリリットルの缶チューハイをじっと見た。

「あ、これを、やめろって?」

「はい。少しずつでも、控えた方が……」

 絵里は決して強い口調で洋二を否定したわけではなかった。しかし、洋二の呼吸は浅くなった。きーんと甲高い音が耳の奥に響いた。

「お前なんかに、何が分かる!」

 気付くと、怒鳴っていた。怒鳴ったことにより更に興奮し、洋二は手にしていた缶チューハイを絵里に投げつけた。

 絵里は顔面目掛けて飛んできた缶を、右手で受け止めた。少しへこんだ缶を、食材の乗ったバットの脇に置いた。

 その冷静な行動に、また腹が立った。

「お、お前、俺のこと、どうしようもない馬鹿だと思ってるんだろ!」

 洋二は右手にぎゅっと力を籠めた。ひゅう、と自分の吐き出す息の音が聞こえた。拳を絵里の頬に打ちつけた。絵里はそれをかわすことなく、そのまま受け止めた。頬を押さえ、洋二をじっと見る。殴った拳が、遅れて鈍く痛んだ。

 今度は足が出た。

 絵里の脛に、洋二の右足が当たる。感触は、人間と変わらない。

「俺だって、俺だってさ……! 人間には、飲まないとやってられないこともあるんだよ!」

 洋二は叫び、肩で息をしながら絵里を睨みつけた。

 絵里は「ごめんなさい」と言った。怒った様子も、怯えた様子も見受けられない。静かな声で、穏やかな顔で、洋二を見ている。

「私、洋二さんの気持ちを理解出来なくて、無神経なことを言ったかもしれません。ごめんなさい」

 洋二はそこで、はっと我に返った。自分は、なんてことをしてしまったのだろう。頭がさっと冷めるのを感じた。

「ご、ごめん。絵里は、悪くないのに」

 絵里は首を横に振った。洋二は殴ってしまった絵里の頬に手を当てた。

「大丈夫です。痛くないですから」

 洋二は絵里の頬から手を放し、力なく落とした。

「本当に、ごめん」

 消え入りそうな声で洋二は詫びた。絵里は洋二の手を取り、両手で包んだ。

 洋二が顔を上げると、絵里は微笑んでいた。洋二はいたたまれなくなって目を逸らした。


 絵里はそれ以来、やたらと洋二に気を遣うようになった。

 以前から絵里は気の利く女であったが、最近では気を配るというよりも顔色を窺っているという方がしっくりくるようになった。

 絵里は洋二の言動を終始神経質なほど見張っている気がした。

 自分が絵里に手をあげてしまったからだ、と洋二は解釈した。これまで温厚だった洋二が暴力を振るったことで、絵里は怯えてしまっているのだ。

 洋二がテレビを見ていると、やたらと話しかけてきた。

「この番組、好きですか?」

「主役の俳優が好きなんだ。演技がわざとらしくなくて良い」

「他にも好きな俳優さんはいらっしゃいますか?」

「まあ、それなりにいるけど、言っても分からないかもしれないよ」

「知りたいです」

 始めのうち、洋二は丁寧に答えていた。絵里は自分を知ろうとしているのだと分かったからだ。

「こういう場所、行ったことありますか?」

「また、行きたいと思いますか?」

 教科書のような問いを繰り返されるうち、答えるのが面倒になった。

「洋二さんはこのスポーツ、得意でしたか?」

「別に、普通」

 素っ気なく返すと、絵里はしばらく静かになる。しかしまた、折を見ては同じように洋二を探る質問をする。そのことに、疲れ始めていたときだった。

 絵里が「お母さまとの思い出はありますか?」と聞いた。洋二の中で何かが切れた。

「うん、特にはないけど。あのさあ」

 洋二の顔色が変わったことを察したのか、絵里の顔から笑みが消えた。それで歯止めが利かなくなった。

「なんなの? 毎回毎回取り調べみたいに質問攻めにして。お、俺がさあ、過去にどういうことをしてたって、それはお前に関係ないだろ」

「私はただ、洋二さんのことが知りたくて」

 絵里の言葉を最後まで聞かず「本当かよ」と吐き捨てた。

「ど、どうせあれだろ。そういうマニュアルなんだろ。それかあの、研究所の誰かに言われてんのか? あの、俺が殺人犯かもしれないから、気を付けて見とけって。そんで色々聞きだすように言われてるんだろ」

「違います」

 絵里は否定した。嘘だ、と洋二は思った。

「も、もしあってたとしたって認めるわけないよな。治験者()なんかより自分を作った研究員の言うことを聞くに決まってる。俺は、俺は実験台だもんな。成功しても失敗しても、その結末情報(データ)が取れればいいんだろ」

 自分で発した言葉にはっとした。口にした言葉が、逃げ場をふさぐように胸に落ちた。

 胸が苦しい。頭もずきずきと痛む。どうして、いつもこうなんだろう。洋二は何も悪いことをしたつもりはないのに、どこで間違えたか分からないのに、うまくいかなくなっていく。

「私はただ、洋二さんのことを知って、洋二さんの力になりたくて」

「う、嘘つけ! 嘘なんだろう! お前も俺のことを、騙すつもりなんだろう!」

 洋二は絵里に、クッションを投げつけた。続けて右の手のひらを、絵里の頬に打ちつけた。

 絵里は殴られた頬に手を当てた。瞬きもせず、じっと洋二を見つめていた。

 その視線に耐えられず、洋二はもう一度、絵里の頬に自分の手のひらを打ちつけた。

 絵里は目を逸らすことなく、じっと洋二を見ていた。


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