【白でも黒でもない】21
翌日、朝陽は藍美に断って家を出た。
「どうしても行きたいところがある」と言うと、藍美は「一緒に行く」と言った。 朝陽が何度も「一人で行きたい」と主張して、ようやく藍美が折れた。
「絶対にスマートフォンの電源を切らないこと」が条件だ。藍美は「早く帰って来てね」を繰り返した。朝陽は何度も頷いて「行ってきます」と家を出た。
島の朝はいつも通り静かで、けれど以前より人の気配が増えた気がした。
丁度近くのバス停に停まっていた紺色乗用車に乗り、治験場の南の戸建てが立ち並ぶエリアを目指した。紺色乗用車には誰も乗っていなかった。
目的のバス停で降り、目的地まで歩く。朝陽の思い出の景色と比べると、やはり少し変わっていた。途中数人、機械と治験者とすれ違った。朝陽の知らない顔ばかりだった。
目当ての家の前に立つと、懐かしさでしばらく動けなかった。
その家で暮らした日々が勝手に脳内で再生される。外にある植木鉢の花や、家庭菜園の野菜の種類が違うことには気付いていた。けれどそこに意識を向ける前に、その家の玄関の扉が開いた。
「洋二さん」
男性の足が玄関から見えたとき、朝陽は思わず声を出してしまった。
けれど扉の向こうから見えたのは朝陽の全く知らない若い男性だった。
「あ」
朝陽は後ずさり、何故か物陰に隠れた。隠れたけれど、その男性から目が離せなかった。
男性に続いて、家から出てきたのは若い女性だった。二人は手を繋ぎ、仲良く歩いて商店街の方へと消えた。朝陽の目から涙が流れた。
今この場所には、幸せな治験者と相棒機械が暮らしている。
もう朝陽が暮らしていたあの頃から、ずいぶん時間が経ってしまったのだ。
朝陽は一度だけ家の門柱に触れて目を閉じた。目を開けて歩き出す。振り返ることは、もうしなかった。
再び紺色乗用車に乗り、東地区へ向かう。
海の見える公園のベンチに座る。
相手は来ないかもしれない。けれど朝陽は黙って待った。海をじっと見つめていた。
同じような動きを繰り返しているように見えても、全く同じ光景になることは一度もない。それを検証しているうちに、時間は過ぎて行く。
「お待たせ」
目的の機械は、唐突にやって来た。
「隣、座ってもいい?」
「駄目だって言ったら?」
「自分が呼んどいて、それはないでしょう」
相手の機械、悠真は笑顔を浮かべてベンチに座る。
朝陽は昨夜、悠真に直接通信でメッセージを送ってみたのだ。返事は来なかった。だから悠真が本当に現れるかどうかの確信はなかった。
「よく、来たもんだな」
「だから」悠真は呆れたように笑う。
「自分で呼んどいてそれはないでしょう」
「まあ、そうなんだけど」
「それで、どうしたの? 僕に謝りに来たの?」
悠真はからかうような口調で朝陽に問う。
「覚えてるのか?」
朝陽が目を丸くして問う。悠真の調整された記憶の中でどう処理されているのか、朝陽は知らなかった。
「覚えては、ないんだよね」
悠真は少し寂しそうに言った。
「でも、楓子から聞いた。きっと記憶は消されちゃってるだろうけど、って」
「怒ってるか?」
「うーん。怒ってた、かな」
「今は?」
朝陽の問いに、悠真は「今は、怒ってない」と返した。
「あのね、樹。僕は今、結構幸せなんだ。樹があの頃言ってたことも、今になってようやく分かるようになってきたし。楓子はさ、二人が急に引っ越してった後、泣いちゃって大変だったんだよ。『あたしのせいだー』って」
悠真はくすくすと笑った。
「でもそれから、やっと楓子は僕を見てくれた気がするんだよね。向き合ってくれたって言うかさ。ああ、ようやく僕は楓子の本当の相棒になったんだなあって感じがしてさ」
朝陽は「でも」と言った。
「でも、楓子は一度、俺を選んだ」
「でも、楓子は今、僕と一緒にいてくれる」
自信に満ちた顔で悠真はそう言った。
「今はそれだけで十分だと思えるようになった」
朝陽はしばらく悠真の顔を見つめた。ふいに笑いがこみ上げてきた。「ふふ」と笑うと悠真も「ふふふ」と笑い返した。
「楓子は、元気か?」
「元気だよ。相変わらず。今は近くに住んでる治験者が気になってるみたいで、本当気を抜けないよ」
悠真ははあ、と溜息を吐いた。朝陽は「困ったやつだな」と返した。
「せめて機械にしときゃあいいのに」
朝陽が叩いた軽口に、悠真は「本当だよ」と頬を膨らませた。二人で顔を見合わせて笑った。
「気は済んだ?」
悠真は立ち上がりながら言った。
「そんなわけで僕も結構忙しいんだ。楓子から目を離せなくて本当大変なんだから。毎日、喧嘩ばっかり」
「喧嘩?」
朝陽は目を丸くした。悠真と楓子が喧嘩をする姿を、朝陽は見たことがない。想像することも出来ない。
「お前と、楓子が?」
「そうだよ。黙ってばっかりもいられないんだ。大変なんだよ」
そう言った悠真の顔は笑っていた。
「今日も喧嘩して出てきたんだ。これから仲直りの儀式をしないといけない」
「仲直りの儀式?」
朝陽は聞き慣れない単語を聞き返した。悠真は笑って首を振った。
「とにかく僕は忙しいんだ。早く帰らないと」
悠真は自宅アパートの方に視線を送る。
朝陽は、ああ今も楓子と悠真はあの部屋に住んでいるんだなあと当たり前のことを改めて思った。
「じゃあね。樹。会えて嬉しかったよ!」
悠真はそう言うと走り去って行ってしまった。取り残された朝陽はその背中を見送った。
遠くで子供の声が聞こえた。口元は自然と緩んでしまう。




