【朝が来る】5
目まぐるしく日々が過ぎて行く。
洋二がこの治験場で暮らす為に、覚えることも多かった。さほど広くない治験場だが、必要な設備は一通り揃っていた。
治験場の中央には、ガラス張りの建物がそびえている。中央公社だ。
一階と二階は役所業務を担い、三階以上は倖田研究所の施設が入っている。
洋二は初めの一か月は週に一度、その後は月に一度のペースで治験者面談を受けに行かなくてはならない。
買い物は家の近くの商店街、治験場の東西に一軒ずつあるコンビニ、それから北側の商業施設。この三つを覚えれば十分だった。
ネットショッピングは可能だが、注文から到着まで余分に二日ほどかかる。
荷物の中身を相棒機械が把握する必要があるので、「欲しいものがあれば言ってください」と絵里に言われたが、生活に必要なものは大体揃っていたから、取り立てて取り寄せるものも特になかった。
給料は治験場にある銀行口座に定期的に振り込まれる。金の管理はほとんど絵里任せで、洋二は細かく確認することはなかった。
ここが治験場だということを、洋二はときどき忘れた。何でも機械化されていることだけが洋二を戸惑わせたが、絵里がさりげなくサポートしてくれるので、深刻に捉えるほどでもない。
絵里が機械であるという意識も、すぐに薄れた。
二人で囲む食卓にはいつも暖かい料理が並ぶ。
洋二は特に絵里の味噌汁が好きだった。暖かい湯気を鼻で吸い込み、口に運ぶ。向かいでは絵里が洋二と同じ、洋二より少ない量の食事を一緒に食べる。
絵里に聞くと、人間と同じように食物が栄養になるらしい。仕組みを説明してくれようとしたが、洋二の頭では理解出来そうにないので断った。
絵里は洋二が尋ねれば何でも理解するまで教えてくれた。難しいことも分かりやすい言葉に置き換えてくれる。野々村のタブレットで同意した治験場の注意事項なども今更ながら少しずつ把握し、覚えることが出来た。
セックスをしてみても、人間との違いは分からなかった。
身体は柔らかくて暖かい。洋二が久しく触れていない女性の身体そのものだった。絵里がほんの少し瞳を濡らし、上目遣いで洋二を見る。それだけで洋二の心は絆される。「愛してる」と呟いてみた。絵里は洋二を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。そんな言葉を口にしたのも、受け入れて貰えたのも、生まれて初めてのことだった。
洋二はすっかり絵里に夢中だった。絵里は洋二を否定しない。
二人で並んでソファーに座り、テレビを見る。
洋二が海外ドラマが好きだと言ったら、いつでも見られるように設定してくれた。長いシリーズものだから、いつまでも見ていられる。その後の予定も特にない。
これは洋二が心から欲していた平穏な幸せそのものだった。
夢なのではないか、と何度も疑い、頬や腿をつねってみるけれど、毎回きちんと痛い。どうやら現実らしいと思うと、胸のあたりがくすぐったくなる。
「どうしたんですか?」と絵里に問われる。絵里の瞳には、洋二だけが映っている。その美しい瞳と優しい言葉で、洋二を捉えている。その優しさと美しさは、ときどき、洋二を不安にさせることもある。どうして自分がここでこうしていられるのか。そういうことは、あまり深く考えないようにしていた。
洋二は「いや」と首を横に振った。
「こんなに幸せだと、今に罰が当たるんじゃないかと思って」
洋二の言葉に、絵里は何も言わず小さく頷いた。
その言葉が的中していると知ったのは、洋二が治験場で暮らし始めてから二週間後、中央公社で二度目の面接を受けたときのことだった。
「警察から、事情を聞きたいという連絡がありました」
中央公社の面談室に、野々村の冷たい声が響いた。
いつも横にいる絵里は今、別室で所長面談を受けている為不在だ。そのことが、洋二の不安を余計に煽る。
「ええと」と言いながら洋二は言葉の意味を考えた。警察という単語にあまり良い印象はないので身構えたが、特に心当たりもない。
「あの、なんの事情でしょう?」
洋二が問い返すと向かいに座った野々村がタブレットを差し出した。洋二は受け取り、そこに表示されている記事を読んだ。
殺人事件という見出しが目に飛び込む。見覚えのある建設会社の寮の写真。左上の丸枠で囲われた顔写真を見て、息を飲んだ。
被害者と書かれたその氏名は洋二を解雇にした親方のもので、見慣れた、親方の神経質そうな顔写真が白黒で載っている。
「この事件のものです」
野々村の顔がぐにゃりと歪んで見えた。
ケチで神経質で、甲高い声で喚く親方の顔が浮かぶ。
現場の人間は大体親方が嫌いだった。親方もきっとそのことを理解していたと思う。だからいつもイライラしていた。
自業自得だ、と一瞬思った。拳をぎゅ、と握った。指先が冷たく感じた。
「既に説明してありますが、機密保持の観点から、この治験場に一度入居されたら、基本的にはすぐに出ることが出来ません。これは治験参加時に同意いただいている安全管理措置です。場所を特定出来ないように通信制限もかかっていることはご存知ですね?」
洋二は「ええと、はい」と答えた。絵里がそのようなことを言っていた気がする。「島外に通信を試みても、特定の単語や文章が規制対象に引っかかると、通話が切れてしまったり、SNSに投稿出来なかったりすることがありますよ」。
洋二は特に治験場の外の世界に未練などなかったから、関係ないと思っていた。スマートフォンもすっかり放置していて、基本的には家に置きっぱなしである。
「警察も直接この治験場に入島することは原則出来ません。ですがどうしても事情を聞きたいということで、特別に治験場の自治機関の機械に事情聴取をさせ、その映像を提供することで了承を得ました。この手配に大変苦労をしました。人類の今後に関わる重大なプロジェクトなのです。たくさんの権力や財力が関わっていることを理解してください」
野々村の口調は変わらないが、責められている気がした。
「あの、すいません」
洋二が頭を下げると、野々村は「はい」と頷き、「一応言っておきますけど」と言葉を続けた。
「もし事件に関わっているようでしたら、この治験場から出て、速やかに罪を償うことをお勧めしますよ」




