【朝が来る】14
洋二は三日ほど、絵里の顔色を窺うことに終始した。
上目遣いで絵里を見て、目が合うと引きつった笑顔で誤魔化す。絵里が近付くと、わずかに心拍数が上昇する。緊張しているのだ。
暴力は振るわない。けれど洋二が洋二でなくなったような姿を見て、本当にこれでよかったのだろうかと、絵里は演算を繰り返した。
酒の量が減ることはなかった。唯一のストレスのはけ口を咎めることが出来ない。ひとまず暴力を振るわなくなっただけでも十分ではないかと絵里は結論を出した。何もかもを制限することは悪手である。人間が変化するには時間が必要だと、絵里の知識が訴える。
しかし洋二に残された時間は、あまり長くないようだった。
三日間絵里に気を遣い終えると、体調を崩して寝込んだ。頭痛と倦怠感を訴え、ソファーから起き上がれずに時間を過ごした。
医療機関への受診を強く勧めたが、「ひとまず今はいい」と一点張りで、行こうとしない。何故かと問うと「怖い」と言う。
「あの、これで医者に診てもらって、もしも余命でも宣告されたら俺、ショックで死んじゃうかもしれないから」と弱気な顔で首を横に振る。絵里が何度説得しようとしても応じない。「寝てれば治る」と目を閉じてしまう。
せめてベッドに運ぼうとしても、「寂しいから」とそれを断った。一人で寝ていると、悪夢ばかりを見るのだと言う。
酒を飲み、目を閉じ、浅い睡眠を繰り返す。絵里はこのとき、無理矢理医療機関を受診させるべきか、検討していた。
しかし洋二は数日で少し元気になり、歩き回るようになった。多少眩暈があるようだったが「元気になった」と嬉しそうにする洋二に、絵里は一瞬検討し、「良かったですね」と言葉を選んで返した。
「あの、夢の中に、お袋が出てきたよ」
洋二はそう言って、自分の財布の小銭入れの中から、赤いボタンを取り出した。
「それは、なんですか?」
絵里が問うと、洋二は目を細めた。
「これはさ、あの、お袋の洋服のボタン。お袋はホステスをしてて、出勤のときは派手な色のスーツを着ていくんだ。ガキの頃にさ、俺、ハンガーにかかってたスーツの袖のボタンをちぎって隠したんだ。馬鹿だから、あの、そうすればお袋が仕事に行かないで俺と居てくれるかもしれない、って思って」
「そうなんですか」
絵里の相槌が聞こえているのかいないのか、洋二は優しい顔で話を続けた。
「でも、でも結局そうはならなかった。お袋は気付かないまんま、出勤して行っちゃって、でも俺、すごく悪いことをしたような気がして、お袋にはそのことを言えずに、引き出しの奥にこのボタンを隠してたんだ。なんか、うまく説明出来ないんだけど、こう、お守り、みたいな気持ちもあって」
絵里は頷いた。洋二は「ふ」と自嘲気味な笑いを浮かべた。
「で、でも結局、俺はお袋に捨てられて、施設に保護された。お袋のこと、嫌いなんだけど、忘れられないんだ。このボタンを何度も捨てようと思ったけど、なんか、捨てられない。でも今になって、夢の中で、俺に謝るんだ。『ごめんね洋二、愛してる』って」
洋二は手の中でボタンを転がすように持ち、ずっとそれを見ている。
「お、俺、愛された記憶ってあんまりなくて、だから、っていうと言い訳だけど、愛してるってあんまり分かんないんだ。頭も良くないからさ、上手に人と付き合うことって出来なくて、皆、あの、俺のこと馬鹿にしていなくなってさ。でも、でもやっと俺、変われそうな気がするんだよね。絵里がいなくなっちゃうかも、って思ったとき、お袋と離れたときとおんなじくらい、ショックだった。だから、あの、多分きっと、それをお袋も応援してくれてるのかもしれないな、と思ってて。だから、その」
洋二の目には涙が浮かんでいる。
「お、俺、不器用で、本当、駄目なやつだけど、絵里の為に変わりたいと思ってる。このままじゃいけない、って分かってる。今はこんなに酒も飲んじゃってるけど、これも少しずつ、減らしていこう、って思ってる。あの、だから、ずっと、俺と一緒に」
ボタンを握り締め、意を決したように絵里の顔を見た。耳は真っ赤だった。
「俺のこと、見捨てないで。ずっと一緒に居て欲しい」
絵里は洋二の手を握り、微笑んだ。
「はい。不束者ですが、よろしくお願いします」
洋二はあからさまにほっとした顔をして、「ありがとう」と言った。
絵里はもう、洋二に何も言わないことに決めた。
洋二は変わろうとしている。化石を掘り出せた可能性がある。それを磨くのか、壊すのか。絵里は以前倖田が言った台詞を脳内再生していた。




