【朝が来る】11
洋二は待った。絵里のいなくなった家で、絵里が帰って来るのを待った。
絵里は洋二の相棒機械なのだから、洋二の傍にいるのが仕事のはずだ。だから待っていればきっと帰って来る。
ひとまず気持ちを落ち着ける為に缶チューハイを一本空けた。
中央公社に出向く前にも飲んで行ったのだが、面談で暴力行為を指摘されてすっかり酔いが冷めてしまった。頭の奥でずきずきと頭痛の種が疼くのは酒が切れたからだと結論付けて、缶チューハイをもう一本空けた。
絵里は、まだ帰ってこない。
いつもならつまみを持ってくる絵里がいないので、洋二はキッチンの引き出しを次々と開けて、食べられるものを探した。そのまま食べられそうなものは見当たらない。
冷蔵庫を開けた。食材はたくさん入っていたものの、調理済みのものは何もない。
仕方がないのでロースハムのパックを取り出して、そのまま食べた。冷たくて、ハムの味しかしない。
どうして絵里は、俺にこんな思いをさせるのだ、と腹が立った。
絵里が余計なことを言わなければ、洋二は野々村に責められることもなく、いつも通り夕飯を食べ、ソファーで寝そべり、気持ちよくテレビでも見ていた頃である。
悔しくて、悲しい。
せっかく洋二の人生が上向きになってきたと思っていたのに、結局いつも通りうまくいかない。
ダイニングの椅子を蹴飛ばした。テーブルに何度も拳を打ち付けた。それでも気持ちは収まらない。
そのとき、目の前が一瞬真っ暗になった。
頭が引きつれるような感覚に襲われ、洋二はその場でふらつき、テーブルに手をかけてへたり込んだ。頭がガンガンと痛みを訴え、目を開けることも出来ない。ぐるぐると世界が回る気がする。声を出そうとしたが、舌が痺れたように口の中で転がるだけで、意味のある単語にはならなかった。
しばらく堪えていると、痛みは少しずつ弱まった。ようやく立てるようになったので、ふらふらとした足取りでソファーに向かい、倒れ込むように横になった。
どうしてこんな肝心なときに絵里はいないのだ。辛くて苦しいとき、いつも自分は一人ぼっちだ。目尻に涙を光らせて、洋二は眠りに就いた。
目を覚ましても、絵里は帰って来ていなかった。
頭痛の種は多少芯の部分に残ってはいるものの、昨夜よりは大分ましになった。
洋二は立ち上がり、伸びをした。腹が減ったので、また冷蔵庫を開けた。
昨日と中身は全く変わらない。野菜室からきゅうりを取り出してかじった。きゅうりの味しかしなかった。
その日の夜まで待ってみても、絵里は帰ってこなかった。
ここにきて、洋二を支配しているのは焦燥感だった。
もう絵里は帰ってこないのではないだろうか。
洋二は治験者として不適格だとみなされて、また解雇になってしまうかもしれない。そうなればまた、住所不定生活に逆戻りだ。
誰も帰りを待っていない場所で夜を凌ぎ、自分より若い誰かに頭を下げる日々。
もう戻りたくない、と思った。
治験者としての日々の間、不満を感じることがなかったわけではないが、少なくとも以前よりはよっぽど幸せだった。
絵里の笑顔が、頭に浮かんだ。
そうだ、絵里だ。絵里が洋二の傍にいつもいてくれたから、洋二は寂しいと思うこともなかったのだ。
絵里を連れ戻さなければならない、と思った。洋二は飲みかけの缶チューハイを最後の一滴まで飲み干すと、立ち上がった。
白色乗用車に乗ろうと思ったが、呼び出し方が分からない。玄関脇の端末にはそれらしいアイコンが並んでいるのに、絵里がいつも何をどう操作していたのか、洋二は思い出せなかった。押して間違えたら、何かが起きそうな気がした。
洋二はしばし家の前で途方に暮れ、それから意を決して歩き出した。
歩いて行ったことはないが、道はそこまで複雑ではない。重たい体を引きずって、島の真ん中にそびえるガラス張りのビルを目指す。
息が切れてきた頃に、後ろからエンジンの音が聞こえてきた。振り返ると、白色乗用車だった。洋二は右手を上げ、手を振った。白色乗用車は静かに洋二の横に停車し、後部座席の扉が開いた。
「中央公社まで」
言いながら、洋二は白色乗用車に乗り込んだ。運転手は「はい」とだけ返事をし、車を走らせた。
「い、いやあ助かったよ。丁度白色乗用車に乗りたかったんだ」
洋二が息を整えながらそう言うと「それは良かったです」と運転手は返した。
「いつもああやって走ってるの?」
「ええ。呼び出しがないときはこうして走り回って、利用者様を探しているんです」
「ああ、そうなんだ。いやあ運が良かったなあ」
「でも実際に呼び出しではない利用者様を乗せたのは、今回が初めてです」
「ああ、あはは、そりゃそうだ。み、みんな相棒がちゃんと補佐して、白色乗用車くらい呼んでくれるんだろうなあ」
洋二の口調は乾いた寂しいものになった。運転手は気にする様子もなく、会話を続ける。
「今日は奥様とご一緒ではないんですね」
洋二は「ええと」と言い、運転手の顔を覗き込んだ。
「ああ、君だったのか」
洋二がこの治験場に来た日にチップを握らせた、あの運転手だった。
「はい。その節はどうも」
洋二は身体を倒し、後部座席の背もたれに体重を預けて天井を見た。
「ええと、恥かしい話なんだけど、逃げられちゃって」
洋二は「ははは」と誤魔化すように笑った。
「そうなんですか」
運転手の相槌のあと、洋二はしばらく黙り込んだ。
「もうすぐ着きます」と運転手が告げたとき、洋二は意を決して口を開いた。
「あの、でも、迎えに行くんだ。ゆ、許してくれるかどうか、分からないけど、もしかしたら許してくれないかもしれないけど、迎えに行くんだ。あの、俺には君が必要なんだって、許してくれるまで、何回だって謝るつもりなんだ。だから、ええと」
洋二が続く言葉を探している間に、車はハザードランプを光らせ、停車した。
「着きましたよ」
運転手の平坦な声を聞き、洋二は自分が今言ったことを思い出して赤面した。この赤の他人の機械にこんな話をしても、どうしようもない。
後部座席の扉が開き、洋二は座席から尻を浮かせた。
「じゃあ、ありがとう」と言って車を降りかけたとき、運転手が「目的が達成されることを祈っています」と言った。鼻の頭がつんとした。
洋二はもう一度「ありがとう」と言って車から降りた。
白色乗用車はエンジン音を響かせて、洋二を置いて走り去って行った。




