どうも、悪魔に『お前の記憶はドブの味がする』と泣かれた令嬢です
モリー公爵家には奇妙で恐ろしい噂がある。
当主であるモリー公爵は『伴侶の記憶を食べる悪魔』に取り憑かれているのだ、と。
彼の婚約者となった女性は、決まって翌日から記憶を失い始めるらしい。
悪魔に自身の幼い頃の思い出さえも喰らい尽くされ、恐怖に震えて逃げ出すのだという。
だから誰も彼に嫁ごうとはしない。
広大な領地と莫大な資産を持ちながら、彼は孤独に暮らしている。
そんな呪われた公爵家に私――男爵令嬢ビータは嫁いできた。
正確には実家に『売られた』というのが正しいけれど。
公爵邸で出迎えたのは使用人たちの歓迎ではなく、当主の怒声だった。
「なぜこの家に嫁いできた! 僕は絶対に反対だ!」
エントランスの階段上に立つモリー公爵は美しい顔を歪めて私を睨みつけていた。
整った顔立ちに少し長めの銀髪。
本来なら社交界の華となるべき容姿だが、その瞳には他人を拒絶する険しい光が宿っている。
私は荷物を足元に置いて告げる。
「ごきげんよう、公爵様。本日よりお世話になります、ビータです」
「挨拶などどうでもいい! 噂を聞かなかったのか? さっさと帰れ!」
彼は出口を指差した。
なるほど。
噂通りの恐ろしい悪魔憑きかと思えば随分と理性的でお人好しだ。
本当に危険な人物なら警告などせずに餌として歓迎するだろう。
私は表情を崩さず、静かに告げる。
「帰る場所などございません」
「は……?」
「実家は私を厄介払いできて祝杯をあげている頃でしょう。馬車も帰しました。今さら戻ったところで、私の部屋はもう物置になっているはずです」
ここに来る前、男爵は「二度と戻ってくるな」と私を送り出した。
実家にとって私は扱いに困る娘でしかなかった。
「ですから、こちらに置いていただかないと私は野垂れ死にます」
「だ、だが……! 僕には悪魔が……!」
「承知の上です。それに記憶の一つや二つ、くれてやっても構いません。幼少期の思い出などろくなものがありませんから」
モリー様は絶句した。
何か言い返そうとして、結局深くため息をついた。
「……どうなっても知らんぞ!」
「ええ、自己責任と心得ております」
「勝手にしろ!」
彼は捨て台詞を吐くと自室へと去っていった。
交渉成立、と判断していいだろう。
案内された客室は今までの私室など比較にならないほど豪奢だった。
私は豪華なバスタブで湯浴みを済ませると、持参した鞄から『対策グッズ』を取り出した。
魔除けの聖水。香木。
そして、代々伝わる(と骨董屋が言っていた)退魔の札。
枕元にそれらを並べ、私はベッドに潜り込んだ。
やれることは全てやった。
――そう、思っていたのに。
ふと、意識が覚醒した。
いや、これは夢だ。体は動かないのに感覚だけが妙に鋭敏になっている。
暗闇の中にゆらりと黒い影が立っていた。
「……また性懲りもなく、伴侶になろうとする者が現れたか」
影が喋った。
脳に直接響くような粘着質な声。
「よほど記憶を失いたいらしい」
これが例の悪魔らしい。
夢枕に立つタイプか。
物理的な接触ではなく、精神世界に干渉してくる類のものだと推測できる。
影が顔とおぼしき部分を私に近づけてくる。
裂けたような口元が、三日月形に歪んだのが見えた。
「い た だ き ま す」
その言葉と共に黒い影が私の頭へと伸びてくる。
まずい。
枕元に置いた魔除けの札も、聖水も、何一つ効果を発揮していない。
やはりインチキだったか……!
そう思っていると、黒い影がいきなり弾かれたように身を仰け反らせた。
「……ッ!? なんだ、これは!」
脳内に素っ頓狂な声が響き渡る。
先ほどまでのおどろおどろしい威厳など微塵もない。
まるで腐った牛乳を口に含んでしまった子供のような、悲鳴に近い叫びだった。
「不味い! なんだ貴様、この記憶は……! ぺっ、ぺッ!」
悪魔らしき影が必死に舌を拭う仕草をしている。
どうやら私の記憶はお口に合わなかったらしい。
「お前、一体どんな幼少期を過ごしてきた!? ドブのような味がしやがる!」
ドブのような味、と言われても。
私は冷静に、悪魔が今しがた齧ろうとした私の過去を反芻してみる。
私の実母は物心つくかつかないかの頃に流行り病でこの世を去った。
その後、親戚である叔母の家に引き取られたわけだが、そこは家庭というより監獄に近かった。
食事は残飯、寝床は納屋。大した理由もなく鞭が飛んできた。
そして、あれは十歳の冬だったか。
熱を出した私に水をかけて雪の中に放り出した叔母に対し、私はついに堪忍袋の緒が切れた。
その日の深夜、私は叔母の寝室に忍び込み、手近な薪で高いびきをかいている叔母を布団の上からたこ殴りにしたのだ。
あれが私の自立の第一歩。
騒ぎになる前に家を飛び出し、そのまま二度と戻らなかった。
あの時の叔母の、豚のような鳴き声は今でも鮮明に耳に残っている。
家を出てからは王都のスラム街に潜り込んだ。
今日食べるパンを得るために、スリや盗みは日常茶飯事。
見つかれば容赦なく殴られ、蹴り飛ばされる日々。
地面に這いつくばり、泥水を啜りながら、それでも私は死ななかった。
そんな荒んだ生活の中で、私に魔法の才能があることが発覚した。
それを目ざとく見つけたのがスラムを根城にする盗賊団。
彼らは私を『便利な道具』として扱った。
鍵開け、目くらまし、追手の撹乱。
私はただ生き延びるためだけにその才能を行使した。
おかげで命だけは繋がったが、その過程で人の温かみなどというものは完全に欠落したように思う。
そして極めつけは、今の実家である男爵家への入り方だ。
盗賊団の仕事で掴んだ男爵令息の致命的な醜聞。
私はそれをネタに男爵家を脅迫し、身寄りのない私を養女として迎え入れさせた。
戸籍を整えさせ、『男爵令嬢ビータ』という立場を強引に確立させたのだ。
義父となった男爵は私と顔を合わせるたび、まるで毒蛇を見るような目で見てくる。
そして今回、「死んでこい」と言わんばかりに難あり公爵家に嫁がされたわけだ。
――なるほど。
改めて振り返ってみても、砂糖菓子のような甘い思い出など一欠片もない。
あるのは泥と血と黒い感情が煮詰まったような記録だけだ。
「反吐が出る! 貴様の記憶はヘドロか何かか!?」
悪魔がえづいている。
失礼な話だが、美食家の悪魔にとって私の半生は腐った生ゴミ以下の味わいだったらしい。
「お前の記憶は不味くて食えたもんじゃねぇ!」
影が怒りに震えながら叫ぶと、逃げるように闇へと消えていった。
後に残されたのは静寂と、妙にすっきりした私の目覚めだけだった。
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目を覚ました私は、自分の名前と昨日の夕食のメニューを思い出してみた。
……問題ない。記憶は鮮明だ。
私は身支度を整え、食堂へと向かった。
扉を開けると、そこには既に食卓についていたモリー公爵の姿があった。
彼は私を幽霊でも見るような目で私を凝視した。
「君は……なぜ平気なのだ!?」
普通の伴侶は今頃、泣き叫んで屋敷を出ているはずなのだろう。
私は席につき、優雅にナプキンを広げながら答えた。
「おはようございます、旦那様。どうやら私の記憶は悪魔のお口には合わなかったようです」
「は……? 口に、合わない?」
「ええ。『不味すぎて食べられない』と言われました」
「……そんなことあるのか?」
彼は信じられないといった顔で呟き、私の顔をまじまじと見つめた。
これまでこの屋敷に嫁いできたのは、深窓の令嬢ばかりだったのだろう。
私ほど灰色の、いや、漆黒の過去を持った人間など、貴族社会にそうそういるものではない。
モリー様はしばらく呆気にとられた顔をしていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
その瞳に宿っていた険しい拒絶の色は消えていた。
代わりに浮かんでいたのは困惑と、ほんの少しの呆れ、そして――期待の色だった。
「まあ……それならば、伴侶として申し分ないかもしれないな」
彼は咳払いを一つして、座り直す。
「記憶を失わないのであれば、追い出す理由もない」
「左様でございますか。それは重畳です」
「ああ。……今後とも、よろしく頼む」
彼は少し気恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに私を見て言った。
私は静かに頭を下げる。
「よろしくお願いします。旦那様」
朝の光が差し込む食堂で、私は心の中で苦笑した。
まさか、誰からも愛されず、泥水を啜って生きてきた不幸な過去がこんな形で役に立つ日が来るとは。
人生とは本当に何が幸いするか分からない。
こうして、記憶喰らいの悪魔さえも逃げ出す『不味い女』と、孤独な公爵様の奇妙な結婚生活は幕を開けたのだった。
◇
屋敷に来て数週間が経った。
この屋敷での暮らしは驚くほど平穏だった。
午後の柔らかな陽射しが差し込むサンルーム。いつもの二人きりのティータイム。
芳醇な紅茶の香りが漂う中、私は向かいに座るモリー公爵とお茶を飲む。
「……あー、その。ビータは、以前はどのような暮らしをしていたんだ?」
彼は視線を泳がせながら、ぎこちなく話題を振ってくる。
これまで誰も寄り付かなかった反動で、会話慣れしていない様子だ。
「そうですね。元々は平民の身で、貧しい家に暮らしておりました。ですが男爵様に見出されて養女として拾っていただいたのです」
もちろん大嘘である。
『見出された』のではなく『弱みを握って脅迫した』だし、『拾われた』のではなく『押し入った』が正しい。
だが、そんな真実をこの綺麗な公爵様に伝えたら、白目を剥いて倒れてしまうだろう。
「そうだったのか……。平民の身で貴族に見出されるとは、それほどの才女だったのだろう」
「いえ、それほどではございません。運が良かっただけです」
「……逆境にありながら、そう言える強さも持っているのだな」
モリー様は感心したように頷いている。
純粋培養の貴族様というのは騙されやすいらしい。
私がスラムで磨いたのは、教養ではなく『鍵開け』と『スリ』と『ハッタリ』の才能だ。
ふふっ、可愛らしい……。
不意に、そんな感情が胸をよぎり、私は自分で自分の思考に驚いた。
……可愛らしいだって?
三十路も近い男を捕まえて?
しかも相手は公爵で、私は元・ドブネズミだぞ。
けれど、そう思ってしまうのも無理はないのかもしれない。
彼は不器用なのだ。
会話が得意なわけでもないのに私の顔色を窺い、楽しませようと一生懸命に言葉を探している。
その姿は尻尾を振る大型犬のように見えてくる。
殺伐とした日々を過ごしてきた私にとって、今の生活はまるで夢のようだ。
朝、何に怯えることもなく目が覚める。
カビの生えていないパンと、温かいスープが食卓に並ぶ。
誰にも殴られず、誰からも奪わなくていい世界。
気を張っていた神経が少しずつ、バターが熱で溶けるように解けていくのを感じる。
モリー様もまた、孤独だった。
呪われた公爵として誰からも恐れられてきた人。
私たちはお互いに欠落を抱えている。
だからこそ、こうして歪な形でも惹かれ合っているのかもしれない。
ふと、窓の外に目をやる。
手入れの行き届いた庭園には色とりどりの花が咲き乱れている。
もしかしたら、私にも穏やかな日々が訪れてくれるのだろうか?
地べたを這いずり回った私の人生の終着点として、この優しい公爵の伴侶として幸せな生活を送ることが許されるのだろうか?
そんな甘い夢想を抱くことすら、今の私には許されているような気がした。
――そんなある夜のことだ。
私は深い眠りの中にいた。
ふわふわとした幸福感に満ちた夢を見ていたはずだった。
けれど。
不意に暗闇の奥底から、あの粘着質な声が響いてきた。
『ご ち そ う さ ま』
満足げな声。
背筋に冷たいものが走る感覚と共に、私はガバッと飛び起きた。
「は……っ、はぁ……!」
心臓が早鐘を打っている。
額にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
部屋を見渡すが、そこには誰もいない。
「……夢、か」
私は大きく息を吐き出し、乱れた髪をかき上げた。
どうせ私の記憶など、『記憶を食べる悪魔』にとっては吐瀉物のような味しかしないはずだ。
また不味すぎて逃げ出すに違いない。
私は再びベッドに潜り込み、強引に意識を闇へと沈めた。
翌朝。
私はいつものようにモリー様と朝食を摂るために食堂へと向かった。
「おはようございます、モリー様」
席について挨拶をする。
先に座っていたモリー様がビクリと肩を震わせてこちらを見た。
「あ……おはよう、ビータ」
今日の彼は顔が赤い。
私の顔を見るなり、なんだかもじもじとし始めた。
「……どうかされましたか? お熱でもあるのでは?」
「い、いや! 違うんだ。熱などない」
彼はブンブンと首を横に振る。
そしてちらりと私を見上げて照れくさそうに頬を掻いた。
「ただ……その、昨日は、ありがとう」
「はい?」
「僕も……幸せなひと時だったよ。あんなに心が満たされたのは生まれて初めてだ」
彼の言葉に、私はナイフを持つ手を止めた。
……待て。
昨日は特にこれといった特徴もない一日だったはずだ。
朝起きて、ご飯を食べて、昼に彼とお茶をして、本を読んで寝た。
彼がここまで顔を赤らめて感謝するような『特別なイベント』があった覚えはない。
「……昨日、ですか?」
「ああ。静かな夜に二人で語り合ったひと時は……僕にとって何物にも代えがたいものだった」
うっとりとした表情で、彼は宙を見つめている。
……語り合った?
夜に?
私の脳裏に昨晩の夢の声が蘇る。
『ご ち そ う さ ま』
瞬間、カシャンと音を立てて、私の手からナイフが滑り落ちた。
「……喰われたな」
「え?」
「記憶を、喰われたようです」
私が低い声で告げるとモリー様の表情が凍りついた。
さきほどまでの陶酔した空気は霧散し、血の気が引いていく。
「記憶を……? まさか昨日の夜のことを覚えていないのか?」
「はい。綺麗さっぱり。私の記憶では夕食後にすぐ寝たことになっています」
そう言うと、モリー様は絶望に満ちた悲痛な顔をした。
せっかく悪魔に記憶を食べられない伴侶を見つけたと思った矢先だ。
そのショックは計り知れないだろう。
――ふざけるな。
私の、ようやく手に入れた穏やかな日々を。
この人がくれた、かけがえのない時間を。
あんな味オンチの偏食悪魔に、勝手にツマミ食いされてたまるか。
奪われたら取り返す。
それが私が生きてきた世界の流儀だ。
「モリー様」
「ごめん、ビータ……」
「嘆いている場合ではありません。状況を整理します。昨日、何があったか詳細に教えていただけますか?」
私が冷静かつ強めの口調で尋ねると、モリー様は涙目で顔を上げた。
「え……?」
「取り調べです。隠さず全て白状してください」
「あ、ああ……」
気圧されたのか、彼はポツリポツリと語り始めた。
彼によると、昨夜、眠れないと言った私を彼が自室に招き入れたらしい。
そこで二人で酒を飲み、今までのこと、これからのこと、お互いの孤独について語り合ったという。
「それで……その流れでお互いに愛を語り、口づけを交わしたんだ……」
最後の方は蚊の鳴くような声だったが、内容は爆弾級だった。
愛を語った!? 私が!?
そして口づけまで!?
なんてことだ。
私の人生初の色恋沙汰が、記憶喪失というオチで消えるなんて冗談じゃない。
悪魔め、一番美味しいところだけを狙って食べやがったな。
私の不幸な記憶は残したまま、昨夜生まれたばかりの新鮮で幸福な記憶だけを喰ったのだろう。
「……確認します。モリー様は何と言って私に愛を伝えてくれたのですか?」
私は身を乗り出して聞いた。
「えっ!? それを僕の口から言わせるのか!?」
「当たり前です。私は覚えていないのですから。再現が必要でしょう」
「さ、再現……」
モリー様は耳まで真っ赤にして狼狽えている。
だが、ここで引くわけにはいかない。
「言ってください。一言一句、間違えずに」
「うう……」
彼は覚悟を決めたように深呼吸をした。
そして私の瞳をじっと見つめる。
「……ずっとそばにいてほしいと。一緒に生きてくれないかと言ったんだ」
その声は震えていたけれど、真摯で、熱がこもっていた。
心臓がドクリと跳ねる。
ああ、確かに心地よい。
この銀髪の美丈夫にそんな言葉を言ってもらえたのなら、昨日の私はさぞかし舞い上がったことだろう。
悪魔にとってさぞ美味だったに違いない。
「……それに対して、私はなんといったのです?」
「『こんな私でいいのですか?』と。……それに対し、僕は『君が良いんだ』と答えた」
胸の奥が熱くなる。
昨日の私のセリフもいかにも私らしい。
まだ幸せになることに怯えている自分の姿が目に浮かぶようだ。
「……では、もう一度言ってもらえますか?」
「え?」
「今ここでもう一度言ってください。記憶の補填作業です」
私が真顔で要求するとモリー様は目を丸くした。
しかし、決心したように彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。
そして私の手を取る。
彼の大きな手が私の冷えた指先を包み込む。
その温かさが直接心臓に流れ込んでくるようだった。
彼は真剣な眼差しで私を見据えた。
もう迷いはないようだった。
「……ビータ。ずっとそばにいてほしい。これからも、一緒に生きてくれないか」
その言葉は私の心の泥を洗い流していくようだった。
「こんな私でいいのですか?」
私は昨夜の私が言ったという台詞をなぞった。
これは演技ではない。
今の私の偽らざる本心だった。
「『こんな』なんて言うな」
彼は私の手を強く握りしめた。
「僕は、君が良いんだ」
その言葉と共に彼が身を乗り出す。
近づく顔。
銀色の髪がサラリと揺れて。
触れた唇は柔らかく、温かかった。
ああ……。
これが、愛されるということなのか。
これが、満たされるということなのか。
ドロドロとした過去も、冷たい孤独も、全てがこの熱に溶かされていくようだ。
……こりゃあ、美味いわけだ。
私は心のどこかで冷静に分析していた。
こんなにも甘くて、温かくて、幸福な感情。
これは絶品だったことだろう。
唇が離れる。
私はきっと、とろけそうな顔をしているに違いない。
しかし、ふと彼の表情に陰りが差した。
「……この記憶も、また悪魔に食べられてしまうのだろうか?」
彼は不安そうに眉を下げた。
確かに、この幸せな記憶は悪魔にとって最高のご馳走だろう。
だが。
私はニヤリと笑ってみせた。
スラムで生き抜いてきた女を舐めるなよ。
「大丈夫です。何とか喰われないようにしてみますよ」
◇ ◇
そう啖呵を切った、その日の夜。
私はかつて愛用していた灰色のボロ布を頭から被って屋敷を抜け出した。
豪奢な公爵邸を背に、闇夜に紛れて足音を殺して走る。
向かう先は王都の最底辺、スラム街だ。
鼻を突くのは腐敗臭とゴミの臭い。
ああ、帰ってきた。私の古巣に。
私は誰からも見えない階段の下にうずくまり、じっと獲物を待った。
狙いは金ではない。
『最悪の気分』だ。
しばらくすると、少し離れた通りから聞き慣れた音が聞こえる。
肉を殴る鈍い音と、押し殺したような子供の嗚咽。
「おい、これだけかよ? もっと持ってんだろ?」
「も、もうお金はないよぉ……」
ゴロツキが子供を蹴り上げている。
ありふれた光景だ。
この街では呼吸をするのと同じくらい日常茶飯事の暴力。
私は苦くなった唾を、足元のドブに向かって吐き捨てた。
胸糞が悪い。最高だ。
――あいつでいいか。
私は音もなく立ち上がり、闇に溶けるようにしてゴロツキの背後へと忍び寄った。
奴が子供から奪った財布を懐に入れ、満足げに鼻を鳴らして路地裏の角を曲がった、その瞬間。
私は手近に落ちていた手頃な大きさの石を掴み、奴の後頭部を躊躇なくぶん殴った。
「ぐあっ……!」
短い悲鳴を上げてゴロツキがよろめく。
すかさず私は拘束魔法を放って奴の両手足を縛り上げると、男の頭を二、三度蹴り飛ばした。
白目を剥いて気絶している男の懐から、先ほど奪ったばかりの財布を抜き取る。
「お前がカツアゲをしたのは生活のためか、単なる憂さ晴らしか……。まあ、どちらでもいい」
私は冷めた目で見下ろした。
「いずれにせよ、私の記憶の糧となれ」
最低な感触が靴に残る。
よし、仕込みは上々だ。
私は財布を手に、先ほどの子供の元へと戻った。
子供はまだ地面に座り込んで泣いていた。
その目の前に立ち、ぶらりと財布を見せてやる。
「あ……!」
子供が顔を上げた。
奪われたはずの財布がそこにある。
子供の瞳が一瞬で輝いた。
まるで物語に出てくる正義の味方を見るかのような憧れと感謝に満ちた眼差し。
「おねえちゃんが取り返してくれたの……? ありがとう……!」
子供が震える手を伸ばしてくる。
その顔には財布が戻ってきた安堵で無垢な笑みが浮かんでいた。
――今だ。
今こそが、最高の『スパイス』を投入する瞬間だ。
私は財布を渡そうとした手をひょいと引っ込め、子供の手を空振らせた。
「え……?」
きょとんとする子供の前で、私は財布の中身を開けた。
中には銀貨が数枚と、銅貨が少々。
私はそこから銀貨の半分を抜き取って自分のポケットに入れた。
「取り返した代金だ。手数料としては安いもんだろ?」
そう言って、軽くなった財布を放り投げて返してやる。
子供は呆然と財布を拾い上げ、中身が減っていることを確認し、そして私を見上げた。
その瞳から先ほどの輝きは消え失せていた。
代わって浮かんだのは困惑と、裏切られたという絶望。
『理不尽』への行き場のない悔しさ。
「……っ!」
子供は私を睨みつけるようにして頭を下げると、逃げるように走り去った。
後味の悪さだけが路地裏に濃厚に漂う。
完璧だ。
これなら、あの甘ったるい公爵様との思い出も、このドブのような気持ちと混ざり合ってさぞ不味くなることだろう。
私はまた苦くなった唾を路地に吐き捨て、闇に紛れて公爵邸へと帰ったのだった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
案の定、夢の中にあの黒い影が現れた。
「うぇぇ……!」
鬼の形相をしていた顔がボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「なんだこれは……! マズすぎるぞ!」
悪魔は私を指差して叫んだ。
「美味そうな記憶にドブを擦り付けるとは……」
涙目でえづく悪魔に向かって、私はニヤリと笑い返してやる。
私はモリー様との幸せな記憶をどうしても守りたかった。
だが、ただ幸せなだけではこのグルメな悪魔の餌食になる。
だから私は混ぜたのだ。
彼と幸せな思い出を作ったその日のうちに、スラムでゴロツキを殴り倒し、子供から金を巻き上げるという最悪の行為を。
「貴様の記憶は最高級のケーキの中に汚物を詰め込んだような味がする……。分離もできん、完全に混ざり合っている」
スラムでの体験は私の予想通りに耐え難いドブの味がしたらしい。
私の作戦勝ちだ。
「お前は記憶を保持するために、幸せを感じるたびに、わざわざスラムに行ってゴミみたいな体験を上書きする気か? そんな生活、果たしていつまで精神が持つかな?」
悪魔が憎々しげに言ってくる。
確かに普通なら心が摩耗するだろう。
だが私は不敵に笑って言い返してやる。
「上等だ」
悪魔の問いかけを一蹴する。
「私はモリー様との幸せを守るためなら、何度だってスラムに潜り続けてやる。私が壊れるのが先か、お前があきらめるのが先か……。勝負だな、『記憶を食べる悪魔』よ」
私の狂気じみた宣言に、悪魔は呆れたような声を出す。
「ふん……。いいだろう、その泥臭い牙を研ぎ続けろ……。さもなくば、その幸せごといずれ全てを失うぞ」
捨て台詞を残して悪魔は消えていった。
ざまあみろ。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
私は爽やかな朝の食堂でモリー様と一緒に朝食をとる。
……覚えている。
昨日の夜、スラムから帰ってきた後のことだけではない。
モリー様と二人で過ごした甘い時間のことも、彼が私に向けてくれた言葉も、その唇の感触も。
すべて鮮明に。
「あの、ビータ……」
おずおずと、モリー様が声をかけてきた。
「記憶は……その、失ってない?」
心配そうな、それでいて期待を含んだ声。
私は顔を上げようとしたが、どうしても彼と目を合わせることができなかった。
「……はい」
短く返事をして、小さく頷く。
「そうか! よかった……!」
モリー様が心底安堵したように息を吐く気配がした。
「やっぱり君は僕の運命の人だったんだな。悪魔ですら、僕たちの絆を裂くことはできなかったんだ」
彼は感動しているようだが、実情は『絆』なんて綺麗なものではない。
彼の知らないところで、私が子供の夢を砕いて作った『毒』のおかげだ。
――ふと、昨日の口づけの記憶が蘇る。
優しく包み込むような彼の体温。
真剣な眼差し。
それと同時に昨日の子供の軽蔑するような視線が頭の中でフラッシュバックして交差する。
甘美な幸福と、胸を抉るような気持ち。
この二つが脳内でマーブル模様を描いてなんとも言えない複雑な味がする。
確かにこれは、食べた悪魔が腹を壊すのも無理はない。
「絶対に、彼との記憶を喰わせない」
私は改めてそう心に誓った。
「ビータ? 顔が赤いよ?」
「……なんでもありません」
覗き込んでくるモリー様の綺麗な瞳。
彼の顔を見ると昨日のキスの感触が蘇ってきて、なんともむず痒くなってしまう。
私は逃げるようにパンを口に押し込んだ。
それから私はモリー様が愛を囁くたびに、スラムに潜って苦い唾を吐き続ける日々。
いつしかスラムでは「謎の義賊」として名を馳せることになるのだが……それはまた別の話だ。
◇ 記憶を食べる悪魔の視点 ◇
モリー公爵には『記憶を食べる悪魔』が憑いている。
だが、その正体が何者なのか真実を知る者は誰もいない。
……そう、私自身さえも自分がどうしてこんな姿になってしまったのか分からないのだから。
私は闇の中から眼下の寝室を見下ろす。
そこには愛しい銀髪の男性が、規則正しい寝息を立てて眠っている。
――モリー様。
彼にはどういう星の巡り合わせか、ろくでもない女ばかりが寄り付く。
婚約者として現れた女たちの思考を覗き見て、私は何度反吐を吐きそうになったことか。
ある女は公爵家の資産をすべて売り払い、若い愛人と国外へ逃亡する計画を立てていた。
ある女は敵対派閥から送り込まれた暗殺者で、初夜に彼の寝首を掻くつもりでいた。
ある女は彼を地下牢に幽閉し、自分が女公爵として君臨しようという妄想に取り憑かれていた。
どいつもこいつも、ゴミばかりだ。
だから私は悪魔の姿を借りて彼女たちの夢枕に立った。
幼い頃の誕生日の記憶や初恋の甘い記憶を少しだけ齧り取り、おどろおどろしい声で警告した。
『立ち去れ。さもなくば、全ての記憶を喰らい尽くすぞ』
彼女たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
そうして私は「記憶を食べる悪魔」として恐れられるようになった。
本当は心根の良い女性が現れたのなら、私は大人しく身を引くつもりだった。
けれど。
この屋敷には――『私』が現れてしまった。
ビータ。
それがかつての私だった。
私は知っている。
この先、二人に何が起きるのかを。
――あれは数年後の未来。
私とモリー様は確かに愛し合い、幸せな日々を送っていた。
私は彼に溺れていた。
温かいベッド、美味しい食事、そして優しいキス。
それらが私の牙を抜いた。
スラムで培った警戒心は薄れ、懐に忍ばせていたナイフは錆びつき、人の悪意を嗅ぎ分ける勘は鈍っていた。
「もう戦わなくていいんだ」と、私は平和ボケしていたのだ。
そしてあの日が来た。
領地視察の帰り道。
馬車を取り囲んだのは武装した強盗団だった。
いや、あれは単なる強盗ではない。
明らかに訓練された手練れの暗殺者たちだった。
昔の私なら御者が殺される前に初撃を防げたはずだった。
けれど、幸福に浸りきっていた私は反応が遅れた。
『ビータ……きみを、まも……』
彼は私の腕の中で瞳から光を失った。
私は泣き叫び、喉が裂けるほど彼を呼んだが、二度と返事はなかった。
私が弱かったからだ。
私が幸せボケして牙を捨ててしまったからだ。
絶望した私は自らの喉を突いた。
後悔と、自責と、妄執を抱いたまま。
――そして気づけば、私はこの姿で過去の公爵邸に漂っていた。
だから私は決めたのだ。
今の『私』に同じ轍は踏ませない、と。
ビータよ。
幸せになってもいいが、決して『安らぎ』に浸りきってはいけない。
その身に刻み込んだ暴力の記憶を。
血と泥の臭いを決して忘れるな。
彼が襲われたのはおそらく偶然ではない。
襲われる瞬間を知らせて回避できたとしても、必ずまた暗殺者たちがやってくる。
その時に彼を守れるのは、スラムの闇で汚い手口を知り尽くした『お前』だけだ。
だから私はあえてお前をスラムへ向かわせる。
『貴様の記憶はドブのような味がする』
そう罵倒して、お前の幸福な記憶に泥を混ぜさせる。
お前が彼との幸せに包まれて腑抜けにならないように。
お前がその爪を研ぎ続けるように。
私はそっと彼らの寝室を覗き込む。
ダブルベッドの上、モリー様の隣でビータが安らかに眠っている。
その拳には昨夜の『スパイス』集めで作ったであろう新しい擦り傷があった。
……いいぞ、ビータ。
その痛みこそが彼を守る盾になる。
ふとモリー様が寝返りを打ち、無意識にビータの体を引き寄せた。
ビータもまた、寝言のような微かな声で彼の名を呼び、その胸に顔を埋める。
ズキリと、私の魂が痛んだ。
羨ましい。
愛おしい。
そして、何よりも――嬉しい。
モリー様が生きている。
温かい血が通い、心臓を動かし、こうして『私』を抱きしめている。
その光景を見るだけで、私の胸は張り裂けそうなほど熱くなる。
涙など出るはずもない霊体の身でありながら、視界が滲んでしまいそうだ。
私はもう一度、彼と出会えたのだ。
触れることは叶わなくとも守ることはできる。
「その泥臭い強さだけは決して手放すな。……幸せボケして彼を殺したくなければな」
私は自分自身に向かって呟く。
私は『記憶を食べる悪魔』。
二人の愛の行方を一番近くで誰よりも厳しく見守る番人。
もしもお前が彼との幸せに溺れて牙を失いそうになったら、容赦なく幸せな記憶を喰らい尽くしてやる。
絶望を植え付けてでも、お前を戦士に戻してやる。
だから――どうか、死なせないで。
今度こそ彼をその手で守り抜いて。
私は祈るように闇の中へと溶けていった。
◇
まぶたをくすぐる朝日で、私は目を覚ました。
「ん……」
意識が浮上すると同時に、頬に冷たい感覚があることに気づく。
手で触れると、濡れていた。
涙だ。
「……あれ?」
私は上半身を起こし、手のひらに落ちた雫を見つめる。
どうして泣いているのだろう。
悲しい夢を見たわけではないはずだ。
むしろ、とても懐かしくて、胸が締め付けられるほど切なくて、それでいて温かい……不思議な夢を見ていた気がする。
隣には安らかに眠るモリー様がいる。
私は寝ている彼の頬を撫でる。
「……この幸福な日々を、絶対に守ってやる」
そんな決意を新たにする。
私の拳には昨夜の喧嘩でできた小さな傷跡が残っていた。




