第9話 すれ違う心
朝のユージ堂は、いつもより静かだった。
入口の壁に、リーネが新しい張り紙を貼っている。
「簡単な料金表、作ってみましたにゃ。かわいく見えるように、肉球も描きましたにゃ」
「リーネ、凄いな、プロみたいだ! ありがとう」
俺が素直に褒めると、カウンターの向こうでミナが小さく耳を伏せた。
「ふーん。猫、器用なんだ」
視線がユージ堂の看板に動く。
ミナがつくった、不器用ながら味のある看板。
「お褒めにあずかり光栄ですにゃ」
「別に褒めてないし」
空気がぴり、と固くなる。俺は喉を鳴らし、話題をずらした。
「じゃ、開店準備を――」
「ユージ、今日は外回りしてくる。市場の人に挨拶、してくるから」
「ミナ? 一緒にやろう」
「いい。……あたし、やれるから」
ミナは尻尾を小さく振っただけで、ドアを押して出ていった。ベルの音が、いつもより冷たく響いた。
◇
午前の客が続いた。
だが、俺の意識は上の空だ。指は動くのに、胸の奥がざわつく。
「先生、大丈夫ですか?」
「すみません。少し集中を――」
目を閉じた。
呼吸を整える。霊体視覚に集中する。
青白く輝く霊体が浮かび上がった。背中の外郭層が、風の乱れみたいにざわついている。
俺自身の不安が、相手の霊体に写っているのがわかった。
「……いけない」
霊体に――直接、手を触れた。ビリッ。
「摩法でいこう」
掌で背骨の両脇を、ゆっくりゆっくり撫で下ろす。
呼吸を合わせ――三度、五度、七度。
客の肩がびくんと震え、光が溢れ始めた。
「楽になりました……」
「よかった。今日は温かいものを」
笑顔を見送っても、胸のざわつきは消えない。
(ミナ、どこに行った)
「ユージさん」
昼下がり、リーネが湯を運んできて、そっと耳打ちした。
「ミナ、市場の外に出ていきましたにゃ。目、赤かったですにゃ」
「……教えてくれてありがとう。店を頼めるか?」
「もちろん。任せてくださいにゃ」
◇
街外れの湖へ続く小道を急ぐ。風が湿り、樹々の影が淡く揺れる。湖面に近づくにつれ、胸のざわつきが、少しずつ形を持った痛みに変わっていく。
いた。
湖畔の丸太に、ミナが座っていた。膝を抱え、尻尾を膝に巻きつけている。耳はしょんぼりと垂れて、風にかすかに揺れていた。
「ミナ」
「……来ないで」
小さな声。だが、足は止めない。ゆっくり隣に座り、同じ方向を見た。水面がきらきら光り、遠くの森が青く霞んでいる。
「朝の一言、悪かった。リーネを褒めた時、お前の顔、ちゃんと見てなかった」
「別に。ユージが誰を褒めようと、あたしには関係ない」
「関係あるよ。俺はお前に、助けられてばかりだ」
「……嘘。最近ずっと、猫の方、見てた」
声が震えた。指先が丸太を掴み、白くなる。
「猫は器用。あたしは……不器用。役立たず」
「そんなことない」
「じゃあ言ってよ。あたしに、何ができるの」
俺は息を吸った。胸の奥に刺さっていた棘が、はっきり形を取る。
「ミナ。お前の笑顔が、一番癒やしだよ。俺にとって」
ミナの耳が、ぴくりと動いた。ゆっくり、こちらを見る。目が濡れている。
「……ほんと?」
「本当だ。だから、その笑顔を取り戻す手伝いを、させてくれ」
ミナは少し躊躇ってから、こくりと頷いた。丸太に座ったまま、背を向けてくる。
「……お願い」
俺は目を閉じた。霊体視覚に集中する。
青白く輝く霊体が浮かび上がった。肩の外郭層が、細かくざわついている。中層には細い糸巻きのような絡まり。嫉妬と不安の色が、淡い藍に濁っている。
霊体に――直接、手を触れた。ビリッ。
「摩法でいこう」
掌で肩甲骨の外縁を、円を描いて撫でる。
摩擦で温め、ほぐしていく――整体の基本だ。
「ん……」
ミナの肩がびくんと震える。
耳がぴんと立ち、すぐにまた少し寝た。
呼吸がひとつ深く落ちる。
「ここ、少し冷えてる。もう少し温めるぞ」
「……うん」
肩から首、うなじへ。
次に親指で僧帽筋の縁を軽く捻る。
「揉捏も少し。力は抜いて」
「ふ、ふにゃ……」
喉の奥で小さな音が鳴る。……ゴロ、ゴロ。
顔が湖面の光を受けて、うっすら赤く染まった。
「恥ずかしい音、出てる」
「言うな……ぁ」
苦笑しつつ、首の付け根に親指を置く。
三秒押して、二秒離す――
「ぁ……ん……」
ミナの身体がとろけるように脱力する。
肩がさらに落ち、尻尾がするりとほどける。
耳がぺたんと寝る。
「気持ち、いい……」
とろんとした声。
光が溢れ始め、藍の濁りが淡く透ける。
「最後、百会で収める」
頭頂に掌をそっと置く。
湖の風が、指の隙間を抜けるように感じられた。
深く、ゆっくり、三呼吸。
「……どうだ」
「あったかい。胸のもやもや、消えていく」
ミナが振り向いた。目尻に残った涙が、きらりと光る。
「ユージ」
「うん」
「……ごめん。あたし、拗ねちゃった」
「拗ねていい。嫉妬も、怒りも、ちゃんと大事だ。言ってくれれば、俺は聴く」
「……っ」
ミナの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ユージ……あたし……」
「泣いていいよ」
ミナは一瞬迷ってから、勢いよく抱きついてきた。
「うぅ……ユージ、ずるい……」
小さく震える肩。
「……ありがと。あたし、もっと頑張る。ユージの一番の看板娘、あたしだから」
「頼もしい相棒だ。そうだ、空いてる部屋があるから引っ越してくるか?」
背中をぽん、と叩く。
「う、うん! 嬉しいっ!」
ミナの尻尾が、ぶんぶんと元気を取り戻した。
◇
夕暮れ、店に戻ると、リーネが笑顔で迎えた。
「お帰りなさいですにゃ。予約、二件入ってますにゃ。お二人の分の温かい茶も入ってますにゃ」
「助かった。ありがとう、リーネ」
礼をいうと、リーネはにゃあと鳴いて微笑んだ。
「どういたしましてですにゃ。……ミナ」
「なに」
「その、さっきはごめんですにゃ。言い方、少しキツかったですにゃ」
「……ううん。あたしも悪かった」
ミナが、少し俯く。
「リーネ、留守番ありがと」
「どういたしましてですにゃ。ミナさん、頑張り屋さんですにゃ」
「……猫のくせに、優しいんだから」
「犬さんも、素直で可愛いですにゃ♡」
二人は、ほんの少しだけ照れて、視線を交わした。
耳が同時に、ちょこんと動く。
「よし。三人で、やろう」
「「はい!」」
ベルが鳴った。
夜のとばりが降りるまで、笑顔と「ありがとう」が続いた。
片付けを終え、看板を裏返す。外に出ると、星が早くも瞬き始めていた。
ミナが隣で小さく伸びをする。リーネが肩にショールをかけてくれる。
「……いい夜だ」
「いい夜ですにゃ……でもそういえばミナが妙にご機嫌ですにゃ? 何かありましたにゃ?」
「え、えーっと……」
何故か言いよどむミナを見て俺は代わりに説明することにした。
「空いてる部屋が幾つかあるだろう? そこをミナに貸すことにしたんだよ」
「えーーーっ! わんころばっかりずるいですにゃーーー!」
「なんだとー!」
「リーネも、リーネもお部屋貸して欲しいですにゃあ! お家賃払いますにゃああ!」
「うん、部屋は空いてるから問題ないよ?」
「やったぁーーーー! ですにゃ!」
「えー、まぁでも良いか。賑やかなのもいいよね」
ミナがなんだか無理矢理に自分を納得させている。
――胸のざわつきは、もうない。
代わりにあるのは、温かい疲れと、明日への小さな期待。
ミナが、俺の袖をそっと掴んだ。
リーネが、反対側から微笑む。
二人がいる。
この場所がある。
笑い合える明日が、また来ると信じていた――この世界で、生きていくために。
【次回予告】
「ユージさん、ギルドからお手紙が届いてますにゃ!」
「なにそれ? また怪しい依頼とかじゃないよね!?」
噂が街を越え、ユージ堂に新たな風が吹く。
治癒ギルド――正式登録の誘い。
「この街に、俺の居場所があるなら……」
――次回
第10話「この世界で、生きていく」
おじさん、癒やしの手で“第二の人生”をつかむ。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
よろしければブックマークと評価【☆☆☆☆☆】の方、何卒よろしくお願いします。
作者が物語を続けていく上でのモチベーションがとてもあがります!




