第36話 最後の禁術(下)
黒い瘴気が消え、空間が金に染まる。
オーリアの身体を覆っていた黒い靄が、ゆっくりとほどけていく。
心火はもう黒くない。
淡い白炎と紅炎が混じり合い、静かに揺れていた。
「……ラグナ……?」
オーリアの声は、千年ぶりに涙の色を取り戻していた。
魂の姿になったラグナが、震える手で彼女に触れる。
「オーリア……戻ってきたのだな……」
「あなたの声が……やっと聞こえた……」
ふたつの魂が、そっと触れ合う。
金と紅の光が滲み、世界が温かくなる。
この瞬間だけは、瘴気も憎しみも何もない。ただの再会。
――その光景を見つめながら、俺の身体に異変が起きた。
胸の奥が、焼けつくように痛い。
呼吸が浅くなり、視界が揺れる。
(…………来たか)
手の甲を見る。
ルナリアの刻印に、細いひびが入っていた。
ゆっくり。
音もなく。
まるで凍ったガラスが溶けていくみたいに。
その時、またあの無機質な声が響いた。
『施術完了。魂共鳴、正常終了』
『施術者の霊力枯渇を確認』
『女神ルナリアの加護――機能停止』
最後の言葉だけが、やけに冷たく、淡々としていた。
「……やっぱ、そうなるか」
俺は笑ってみせた。
ラグナとオーリアがこちらに気づく。
「癒やし手……その手……!」
ラグナが息を呑む。
俺の手の甲の刻印は、白く乾き、剥がれ落ちていく光の粉へと変わっていた。
加護が……消えている。
ルナリアはもう、返事をくれない。
録音の警告だけが残り、それすらもう終わった。
「大丈夫だ。……もともと、借り物だったしな」
膝が震える。
体内の霊力はほとんど残っていない。
魂を削る痛みに、歯を食いしばった。
「ユージ!」
その声に我に返る。
オーリアの心の風景はかき消え、俺は現実の中にいた。
ミナが駆け寄り、俺を支える。
リーネもセレスも顔を青くしている。
「無茶しすぎです! もう限界なのでは?」
「体力もほとんど無いみたいにゃ……顔色も酷いにゃあ!!」
「……平気だ。ほら、まだ――」
笑おうとしたが、声が掠れた。
揺れる視界の中、巨大なラグナが、蹲っている骨となったオーリアに寄り添っている姿が目に入る。
ラグナが俺に向き直り、深く目を閉じた。
「癒やし手。お前は……我が伴侶を救った」
ラグナが巨大な爪で、そっと俺の右肩へ触れた。
熱が流れ込む。
金色の魂が、ラグナを通して俺の身体へ移ってくる。
「これは……?」
「我ら竜の炎……欠片だ」
「お前は加護を失った。ならば――新たな火を宿せ」
胸の奥が温かい。
不思議と、痛みは薄れていった。
巨大な竜の骨が静かに崩れ落ちる。
「ありがとう……人の子よ……
あなたは……わたしを……救ってくれた」
声が聞こえる。
これはオーリアの声だ。
「いや、俺はただ、癒やしただけだ」
「……あなたに竜の加護を」
言葉と共にオーリアの亡骸が光に溶け、羽のように舞い上がる。
金の粒となり、天へと昇っていく。
ラグナが、静かに見送った。
「……さらばた、オーリア。
いつかまた、空で会おう」
光は数秒揺れ、そして消えた。
その直後――
遠くで、岩がきしむ音がした。
ピシ……ッ。
天井のどこかで、細く鋭い音が一つ。
ほんの一瞬の亀裂。
小さな砂粒が、ひとつだけ落ちてきた。
ミナが震える声で呟く。
「……ねぇ……今の……」
俺は天井を見上げた。
「この迷宮が主を失い……崩壊を始めている」
ラグナも緋色の瞳を細める。
「すぐには崩れぬ……だが、遅くもない。
この地の理が……少しずつ沈んでいく」
予兆。
静かで、確実な――終わりの気配。
俺は深く息を吸った。
「……じゃあ、急ごうか。
この場所が本気で落ちる前にな」
ミナが拳を握り、リーネとセレスも頷いた。
ラグナは真剣な眼差しで、進むべき方向を見据えた。
こうして――
癒やしの代償と、崩壊の前触れを抱えたまま。
俺たちは闇の奥へと足を踏み出した。
◇
天井から落ちてきた砂粒は、本当に小さかった。
ただ一粒。
けれど、その一粒が――この迷宮の運命をすべて物語っていた。
ラグナが、ゆっくりと竜の姿へと戻っていく。
小さかった身体が伸び、紅い翼が再び広がる。
魂の輝きがまだ薄く残ったまま、その瞳は深く、静かだった。
「……オーリアの魂は安らいだ。
だが、封印陣の理が揺らいでおる。
この地は、いずれ沈む」
「それ、どれくらい先なの?」
ミナが尻尾を震わせながら尋ねる。
「すぐではない。
いくつかの継ぎ目はまだ持つ。
だが……長くは保たぬ」
ピシ……ッ。
また、小さな音が響いた。
たったそれだけで、みんなが身を固くした。
セレスが注意深く辺りを見渡す。
「ここの地脈……まるで、息をするのをやめたみたいです……
大元の瘴気は晴れたはずなのに……」
「瘴気で形を保っていた場所が、瘴気を失って……空洞になってるのだ」
ラグナの言葉に、リーネが納得したように頷いた。
「だから、ズレが出てるのにゃ……」
「つまり……逃げ道が閉じる前に、出るしかないってことか」
俺は苦笑して肩を回した。
(……腕が重い。霊力、ほとんど残ってねぇな)
胸の奥に宿った紅の炎が、かすかに震える。
オーリアから受け取った竜の欠片。
それだけが俺の中の光だ。
「ユージ、歩けるの? 本当に大丈夫なの?」
ミナが腕を掴んでくる。
揺れる瞳が心配を隠せていない。
「ああ。死にはしないよ。……たぶんな」
「たぶんじゃ困るんだけど!」
ミナが涙ぐむ。
でも、その泣き顔がなんだかちょっと嬉しくて、俺は笑ってしまった。
そんな俺たちを見て、ラグナが静かに翼を広げる。
「癒やし手よ、その仲間達よ。
我が背に乗れ。
この迷宮が本格的に沈む前に、出口まで運ぶ」
「ラグナ……だがお前も――」
俺が言いかけると、ラグナは首を横に振った。
「オーリアに宿った記憶の炎が、我を支えておる。
今なら、まだ飛べる」
その声には、迷いがなかった。
俺たちは、互いに顔を見合わせる。
ミナがにっ、と笑う。
リーネが拳を握る。
セレスが息を整える。
「……行こう」
俺は一歩、ラグナに近づいた。
「出口まで駆け抜けるぞ。
ここが本当に泣き出す前にな」
ラグナが大きく息を吐いた。
紅の霊火が翼の下に走る。
「では――行くぞ、癒やし手!」
俺たちは竜の背に乗り、
震え続ける最深部をあとにした。
その直後――
洞窟の奥から、小さな地鳴りが響く。
まだ崩れはしない。
だが、確かに――始まりの音だった。
〈第36話 完〉
【次回予告】
迷宮が、うねる。
地脈が軋み、時折噴き上がる熱風。
ラグナの背で駆ける脱出行の中――
悠司の手の竜の炎が、初めて脈打つ。
──第37話「崩壊と飛翔」
おじさん、竜の背に立つ!
◇◇◇
作者からのお願い。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
よろしければブックマークと応援、そしてレビュー【☆☆☆】の方、何卒よろしくお願いします。これから物語を続けていく上でのモチベーションに繋がります。
コメントも頂けると、深く礼をします!




