第1話 お客ゼロの整体院
雨が、窓を叩いていた。
「おい、ちょっと! 全然効いてないんだけど!」
午後八時。
目の前の客――スーツ姿の三十代男性が、ベッドから勢いよく起き上がった。
「肩こりって言ったよね? なのになんで背中ばっか押すわけ?」
「あ……いえ、そこに凝りの原因が……」
「はあ? 俺が凝ってるのは肩なんだけど? ちゃんと触って確かめてる?」
俺、桐谷悠司は、何も言い返せなかった。
四十二歳、独身。
整体師歴は十五年になるが――客の満足度は、いつも低い。
「もういいよ。金払わないからね」
男性は苛立った様子で店を出て行った。
バタンッ
ドアが乱暴に閉まる。
「………はあ」
俺は施術用のベッドに座り込んだ。
またか。
また、だ。
「才能……ないのかな、俺」
呟いて、自分の手のひらを見つめる。
午後十時。
商店街のシャッターは、ほとんど降りている。
俺は、受付カウンターに肘をついて——ぼんやりと、外を眺めていた。
整体院『心身堂』の、唯一の従業員。
オーナーであり、施術者であり、掃除係でもある。
「……今日は、ひとりだけだったな」
呟いて、手帳を開く。
今月の売上ページには、寂しい数字が並んでいる。
「家賃、払えるかな……」
ため息が、自然と漏れた。
整体師になって、十五年。
なのに、客はいつも——不満そうな顔をする。
「全然効いてない」
「ツボの位置、間違ってるんじゃない?」
そんな言葉を、何度聞いただろう。
学べることは全て学んだはずなのに。
「……才能、ないのかな」
ため息をついたその時。
――カランッ
ドアベルが鳴った。
「え……?」
時計を見ると、午後十時を回っている。
閉店の札を掛けたはずなのに。
振り返ると、そこには——女性が立っていた。 いや、女性と呼ぶには、あまりにも——
「………………綺麗、すぎる」
銀色の髪が腰まで流れ、瞳は深い紫。
肌は透けるように白く、纏う白いドレスは月光のように輝いている。
まるで、絵画の中から抜け出してきたような——
「あの、お客様……?」
俺は思わず敬語になった。
彼女は俺を見つめて、静かに頷いた。
「……私を、癒やしてください」
声は、鈴のように澄んでいた。
「え、えっと……どちらが、お疲れで……?」
「全身です」
彼女は真っ直ぐに答えた。
「特に――魂が、疲れています」
「た、魂……?」
変な言い方だな、と思ったが——深夜に来る客に、細かいことを聞くのも野暮だ。
「わかりました。とりあえず、こちらへ」
俺は施術用のベッドを指した。
彼女は素直に腰を下ろす。
そして、俯いたまま――
「……あなたには、視えているでしょう?」
「え?」
「私の、本当の姿が」
ドクン
心臓が跳ねた。
彼女を、改めて視る。
すると――
「……っ!?」
視えた。
彼女の半透明の輪郭——いや、それは輪郭なんかじゃない。
銀色に輝く、巨大な魂の形。
それが、彼女の全身を包んでいる。
普通の人間の何倍も、何十倍も——大きく、眩く、美しい。
だが、その中心——胸のあたりに、深い亀裂があった。
まるで、ガラスが割れたような——
「これ……一体……」
「あなたが見ているそれは、魂の形。長い時を生きてきた、私の魂の形です」
彼女は静かに語り始めた。
「多くの願いを受け、多くの祈りに応えてきました」
「……祈りを」
「でも、私自身の魂は――誰も癒やしてくれなかった」
彼女は俯いた。
「あなたは、視えている。ならば――触れることもできるはずです」
「触れる……?」
「その力は、"霊体視"。肉体ではなく、魂の形を視る力」
彼女は俺を見つめた。
「あなたが今まで触れていたのは、人々の魂です。だから、肉体の癒やしを求める人々には――」
「……っ」
頭が、真っ白になった。
そうか。
そういうことか。
俺が視えていたのは——霊体。
俺が触れていたのは——魂。
だから、肉体のツボを求める客には、何も伝わらなかった。
「俺は……才能がなかったんじゃ、ない……?」
「ええ」
彼女は頷いた。
「あなたは――魂を癒やす、稀有な才能を持っている」
「……やってみます」
俺は深呼吸した。
「失礼します」
手を、彼女の背中――いや、霊体の中心に当てた。
ビリッ
電流のような感覚が走る。
「……っ」
彼女の身体が震えた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ。初めてです……こんなに、温かいのは」
俺は目を閉じて、意識を集中させた。
今まで無意識にやっていたことを——意識的にやる。
霊体の傷に、優しく指を這わせる。
ゆっくりと、エネルギーの流れを整えていく。
「………んっ」
彼女の口から、小さな声が漏れた。
頬が、ほんのり赤く染まる。
「あ……ああ……」
霊体が、輝き始めた。
傷が、少しずつ——修復されていく。
「これ……は……っ」
彼女の瞳が、潤んでいた。
「初めて……です。こんなに……魂が、温かくなるなんて……」
俺は無言で、施術を続ける。
背中、肩、首筋——霊体の流れに沿って、指を動かす。
「ああっ……ん!」
彼女の身体が、ビクンと跳ねた。思わず手を止める、と。
「す、すみません……! でも、止めないで……ください……っ」
その声は、懇願するように甘かった。
どれくらい時間が経っただろう。
彼女の霊体から、眩い光が溢れ出した。
「あ……ああああっ!」
彼女は両手でベッドの縁を掴み、身体を震わせた。
まるで、魂そのものが歓喜しているかのように――
「……っ」
これは――一体!?
「あなたの手は……神すら癒す」
彼女が、振り返った。
瞳が、潤んでいる。
「俺は……ただの整体師です」
「いいえ」
彼女は微笑んだ。
「これは――魂を癒す手」
その瞬間――
彼女の顔が、急に赤く染まった。
「あ……いけない……」
「え?」
「均衡が……崩れて……」
光が、急激に膨れ上がる。
「ちょっ、待って――!」
光が、部屋中を満たす。
俺は目を細めた。
そして――
ゴオオオオッ
突然、暴風のようなエネルギーが吹き荒れた。
その夜、俺の人生が――
ずれ始めた。
<第1話 終>
【次回予告】
夜の整体院に現れた、謎の女性。
その正体は――この世界を見守る“女神様”だった。
疲れ切った神の魂を癒やした瞬間、
おじさんの指先は未知の輝きを放つ。
次回――
第2話『女神様ご来店』
“おじさん整体師”、異世界へ。




