第4話 汚れた靴と少年の拳
翌朝。訓練三日目。
いつもより少し早く起きた千寿蓮也は、寮舎の外で体を動かしていた。
千寿『ふぅ……昨日の筋肉痛は、だいぶマシになったかな……たぶん』
すこしだけ腕を回す。まだ痛みはあるが、動ける。
やっと、体が「軍人の朝」に慣れはじめていた。
それでも、周囲の空気には明らかな“違和感”が漂っていた。
蓮也が双属性――火と風の両方を操る資質を持つと分かってから、明らかに周囲の見る目が変わったのだ。
遠巻きに視線を送る者。
うらやましそうに呟く者。
距離を取りはじめた者。
そして――露骨に敵意を向ける者。
クラウス『へぇ、もう早起きして自主練とは、さすが“選ばれし者”ってやつ?』
後ろから聞こえた嫌味な声に、蓮也は思わず振り返る。
千寿『……おはようございます、クラウスさん』
クラウス『よせよ、“さん”付けなんか。お前のほうが“上”らしいしな。双属性ってやつだ。王国に十万人に一人の才能だっけ? おめでとう』
千寿『いや、そんなこと――』
クラウス『でもな、“魔法が使える”だけで軍が動くと思うなよ』
その声には、冷えた怒りがにじんでいた。
千寿『……クラウスさん、なにか不満があるなら――』
クラウス『あるさ!』
突如、怒声が飛んだ。
周囲の訓練兵が一斉に振り返る。蓮也も思わず息をのんだ。
クラウス『お前みたいな“素性も知れねぇ平民”が、俺の前を歩くのが気に食わねぇんだよ! 千寿? そんな名前、聞いたこともねぇ! 名家出身でもねぇやつが、なに気取ってんだ!』
千寿『……俺は、気取ってなんか――』
クラウス『黙れ!』
足音が地面を打ち、クラウスが一気に距離を詰めてくる。
千寿(やばい、これ……)
顔が近い。目が怖い。
そして――拳が、蓮也の胸ぐらをつかんだ。
クラウス『力があるなら、試してみろよ、“双属性様”。やれるもんならな』
蓮也は拳を握った。だが、殴り返すことはできなかった。
殴れば、“同じ”になってしまう。
ここは軍の施設。感情で動いていい場所じゃない。
千寿『……やりませんよ。俺は、戦う場所を間違えたくない』
その言葉に、クラウスはしばし固まった。
そして――
クラウス『……クソが』
静かに、だが吐き捨てるように言って、手を離した。
蓮也は崩れそうな足をふんばりながら、その背を見送った。
***
朝食の時間。
その場には、重たい空気が漂っていた。
クラウスの暴言は、皆が見ていた。
だが、誰も何も言わなかった。
あの一件が、蓮也と他の兵の間に、少しだけ距離を作ってしまった。
レイ伍長『……ま、そうなるよね。才能があるってだけで人は変わるもんだ』
向かいの席で、レイ・フォルク伍長が苦笑する。
千寿『僕は……なにも変わってないんですけどね』
レイ伍長『そう思ってるのは君だけ。見る側は“特別扱い”だと感じる。嫉妬と差別は、紙一重さ』
その言葉は軽く聞こえたが、重かった。
ゲイル軍曹『だが、差別も嫉妬も、戦場では意味を持たん。生き残る力がすべてだ』
ゲイル・ミュラー軍曹が静かに言う。
その目は、蓮也のものをまっすぐに射抜いていた。
ゲイル軍曹『その力、お前は使う覚悟があるか?』
千寿『……あります。僕は、ここに来るために、全部捨ててきました』
ゲイル軍曹『そうか』
短く答えて、彼はスープをすすった。
その沈黙は、不思議と心地よかった。
***
午後の訓練は、戦闘姿勢の基本――“魔法体勢”の訓練だった。
魔法を撃つ時の姿勢、集中の仕方、詠唱の練習。
それらは、一日では到底身につかない技術だった。
バルナ曹長『魔法とは、力を出す前に“構え”で決まる。これは“剣”も“術”も同じだ。姿勢が崩れてるやつは、即座に的になる。わかったら、構えろ』
全員が構えをとる。
千寿(……いける、いける。昨日の検査みたいに……)
だが、思ったよりうまくいかなかった。
力を込めても、火も風も出ない。
あの時のような“渦巻く魔力”は、どこかへ消えていた。
千寿『くっ……集中、集中……っ!』
焦る心が、魔力を乱す。
後方からクラウスの冷笑が聞こえた気がした。
バルナ曹長『千寿、やめろ。魔力の波が暴れてる。感情を沈めろ』
千寿『……すみません』
それでも、諦めたくなかった。
この力に、意味を与えるために。
この名前に、意味を持たせるために。
千寿『俺は、できるようになりたい。誰かのために、使えるように』
その言葉は、誰にも届かなかったかもしれない。
だが、彼の心の奥には、確かな火が灯っていた