第2話 千寿蓮也、初めての朝
その朝、千寿蓮也は死んでいた。
――いや、正確には、死にかけていた。
千寿『……っふ……ぅ……ぐぉあ……。これ、朝……? これが、朝……なのか……?』
目覚めた瞬間から、地獄だった。
寝具の硬さ、冷たさ、室内の騒音、臭い、空気、そして――全身に襲いかかる筋肉痛。
千寿『体がっ……ッ、動かねぇ……!』
蓮也はうめき声を漏らしながら、布団の中でもがいた。
だが、動かそうとするたびに肩や太腿、腰や首が悲鳴を上げる。
昨日の座学だけで、なぜこんなに疲れているのか?
――答え:座学ではなく、立ちっぱなしの「礼式訓練」が原因だった。
訓練初日の名物とも言える「式典立ち姿維持訓練」により、蓮也の肉体は初日から限界を迎えていたのだ。
だが、ここは王国軍訓練大隊。悲鳴を上げようが、泣き叫ぼうが、朝は必ずやってくる。
バルナ曹長『――起床だ、クズども!! 一秒でも遅れたら命はねぇぞ!!!』
その声が響いた瞬間、寮舎の中が爆発したかのように動き始めた。
布団が弾け飛び、床が震え、兵たちが文字通り「跳ね起きる」。
まるで軍用目覚まし装置だ。人間製。
千寿(ちょ、ちょっと待て……筋肉……つった……!)
必死に体を引きずりながら、蓮也も何とか起き上がる。
クラウス『ふん……まるで畜舎だな。人間に扱う環境じゃねぇ』
朝から嫌味な声が耳に刺さる。
隣のベッドで、すでに制服を着ていたのは――クラウス・シュトレング。一級貴族の坊ちゃんである。
クラウス『なぁ、平民。お前らって、いつもこんな環境で生きてんの? 気の毒にな』
千寿『……気にしないでくれ。貴族様にはわからないと思うし』
クラウス『言うじゃねぇか、“千寿”。その姓、どっから拾ってきたんだ? 昨日も言ったが、どうにも気に入らねぇんだよ、その響き』
千寿『だから……院長にもらった名前だって』
クラウス『ふん。だったら早く潰れねぇとな。俺の気分が悪くなる』
お互い、バチバチに火花を散らしながら制服を着る。
ちなみに蓮也は、ボタンを逆にかけてやり直すという失態を演じた。
***
朝食は、冷えた黒パンと干し肉、そしてスープ。
千寿(……不味くはない。いや、不味いけど、もっとひどいのを知ってる)
孤児院で育った蓮也にとって、味へのこだわりは贅沢というやつだ。
一方、周囲の貴族組の顔には明らかな不満が浮かんでいた。
クラウス『ああ……うちの料理長が泣いてるな、これは』
レイ伍長『泣いてるのは君の胃袋の方だろ。慣れろ』
にこやかにフォロー(?)するレイ・フォルク伍長。第三班の副班長補佐で、貴族組の扱いも慣れたものらしい。
そんなレイを見て、蓮也はこっそり安堵する。
千寿(レイ伍長、話しやすそう……唯一の味方かもしれない)
だがその時。
ゲイル軍曹『貴様ら、手を止めるな。食事時間は残り三分。喋っている暇があるなら噛め』
その場の空気が凍った。
第三班副班長、ゲイル・ミュラー軍曹。無表情、無感情、無慈悲。
噂によれば、前線で数十人を指揮して生還した“無言の鬼”と呼ばれた男らしい。
クラウス『……チッ、あんな下っ端に指図されるとか、我慢の限界だ』
小さく吐き捨てながらも、クラウスは黙ってスープをすすった。
***
午前中の訓練は基礎体力測定だった。
腕立て、腹筋、背筋、持久走――どれも、蓮也にとっては初めての“まともな運動”だった。
千寿『ひ、ひぃっ……っ、ぐ、ぐわあああああああっ!? 腕がっ、腕がもげる……っ!!』
周囲の兵士たちが黙々とこなす中、蓮也だけが悲鳴を上げて地面と格闘していた。
バルナ曹長『千寿、声が出るようになったな。元気そうでなによりだ』
バルナ・シュトレイフ曹長は腕を組み、にやりと笑った。
千寿『ち、違います……曹長殿……! 元気じゃないです……腕がっ、命が……命が……!』
クラウス『ほらな、言ったろ? “雑兵”はこうなる。すぐに潰れる』
ゲイル軍曹『クラウス二等兵。口よりも、腕を動かせ』
クラウス『……ッ、了解、軍曹殿』
歯を食いしばって答えるクラウス。その顔には、明らかな屈辱の色が浮かんでいた。
千寿(……あの人、負けず嫌いなんだな)
蓮也は、見上げるようにクラウスを見て、ほんの少しだけ同情を覚えた。
***
訓練が終わり、寮舎に戻る。
布団に倒れ込む蓮也の体は、もはや“ひとのかたち”を保つのがギリギリだった。
千寿『あ……無理……これ、起きたら全身粉々になってるやつだ……』
隣のベッドでは、クラウスが黙って寝返りを打っていた。
今日一日、喧嘩をしながらも、どこか蓮也に構ってくる彼の姿は、まるで“王子様になり損ねた反抗期”そのものだった。
千寿(……ま、いいや。どうせ明日も死ぬんだ。今日ぐらい、眠らせてくれ)
そう思いながら、蓮也は静かに目を閉じた。
初日の朝。千寿蓮也は生き延びた。
そして明日もまた、戦場のような訓練が始まる。