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第1話 入隊の日、扉は開かれた

霧雨が降っていた。


 王都に春の兆しが訪れようかという季節だというのに、空は灰色で、冷たい水滴が頬を打つ。だが、軍都として名高い王国中央市の住民はそんな雨ごときで足を止めることはない。さすがは「中央市」。人々の足取りは素早く、無駄がない。


 そんな冷たい朝の片隅で、ひときわ挙動不審な少年が、門の前で立ち尽くしていた。


 千寿『……よし。行くぞ、千寿蓮也。男だろ。ここで引き返すなんてありえない。ない……ないけど……あーこわ』


 ――千寿蓮也。十六歳。

 王国南方の孤児院で育った平民。特技:家事全般。苦手:大きい声と怖い人。

 そんな彼が今立っているのは、神聖セントレア王国軍の正門。いや、正しくは“訓練大隊”と呼ばれる、新兵養成所の入り口だった。


 彼の手には一通の召集書。


「神聖セントレア王国軍・訓練大隊第六中隊第三小隊に配属。指定日時に入営せよ」


 それが、蓮也にとっての「新しい人生」のスタートラインだった。


 千寿『……ほんとに、これでよかったのかな』


 誰に聞くでもない問い。答えてくれる人などいない。いや、いたとしても今はここにはいない。


 蓮也は深く息を吸い――一歩、足を踏み出した。


***


 訓練大隊の構内は、整然としていた。


 建物は質実剛健。石造りと鉄の組み合わせがこれでもかと無骨で、見ているだけで胃が痛くなるような構造美だ。


 その中で、ようやくたどり着いた第三小隊の受付に、蓮也はぴしっと背筋を伸ばして名乗りを上げた。


 千寿『千寿蓮也、入隊のため参りました!』


 受付官『……はい確認。第三小隊第三班所属、千寿二等兵。集合時間を三十三分過ぎております。理由は?』


 千寿『えっ、あっ、えーと……迷いました!』


 受付官『……了解。とりあえず急ぎなさい。第三班はすでに集合中。班長はバルナ・シュトレイフ曹長。寮舎は後で案内されます。走れ』


 千寿『はいっ!ありがとうございますっ!』


 返事だけは威勢がいい。それだけは昔からの取り柄である。


 駆け出しながら、蓮也は脳裏に浮かんだ一人の老紳士を思い出していた。


――「お前には、“名”がある。忘れるな。名前は意味を持たせるものじゃない。“意味を与える”ものだ」


 あれは孤児院の院長が、初めて“千寿”という名前をくれた日の言葉だった。


 蓮也には、名字がなかった。誰の子かも知らないまま、拾われて、育てられた。


 だからこそ、“千寿”は、蓮也にとって最初の“誇れるもの”だったのだ。


***


 第三班の集合場は、すでに空気が張り詰めていた。


 十五人の新兵たちが、ピクリとも動かず直立不動。軍人としての第一歩、それは「立ち姿」にすべてが現れるというが、蓮也にとってはこの時点でもう試練だった。


 千寿(ど、どうする!? 後ろからこっそり混ざってもバレない……わけないよな!?)


 悩んでいる暇はない。蓮也は腹をくくり、列の端に滑り込んだ。


 前には三人の上官がいた。


 中央の男――


 バルナ・シュトレイフ曹長。

 がっしりとした体格、鋭い目つき、そして微妙にくたびれた軍服。いかにも現場叩き上げのベテランという雰囲気が漂っている。


 その横には、鉄のように無表情な男――


 ゲイル・ミュラー軍曹。

 感情を削ぎ落としたような瞳が、まっすぐに新兵たちを見据えていた。


 そして、軽く茶髪をかき上げて笑う若者――


 レイ・フォルク伍長。

 この三人が、第三班の教育係というわけだ。


 バルナ曹長『揃ったな。……俺がこの班の班長、バルナ・シュトレイフ曹長だ。まず覚えろ』


 声が、空気を切り裂くように響く。


 バルナ曹長『これから貴様らは、十五人一組で“班”として行動する。連帯責任、相互扶助、上下関係。すべて、ここから叩き込む』


 ゲイル軍曹『一歩でも列から外れれば、それが班の恥になる。覚えておけ』


 レイ伍長『まあ、最初はみんなド素人だ。だが、泥をかぶって走り抜けば、必ず変われるさ』


 蓮也の心の中に、ほんの少しだけ勇気が灯った。


 が――


 バルナ曹長『特に、お前だ。……千寿、だったな』


 千寿『ひゃっ!? ……は、はいっ! 千寿蓮也、二等兵ですっ!』


 バルナ曹長『“千寿”とは、また珍しい姓だな。由緒ある名か?』


 千寿『……わかりません。ただ、院長からいただいた名です』


 バルナ曹長はじっと蓮也を見つめた後、ふっと鼻で笑った。


 バルナ曹長『まあいい。貴様ら全員、今日から“名”ではなく“行動”で評価される。どんな名を持っていようが、ここでは意味がない。わかったな?』


 一同『はい、曹長!』


 叫ぶように返事をしたその瞬間、蓮也の胸の奥で何かが“始まった”。


***


 ――そしてその夜。


 初日の訓練は、軍の基礎制度や命令系統の座学だった。

 だが、蓮也にとって一番きつかったのは……


 クラウス『よぉ、千寿とか言ったか? ずいぶん高貴な響きじゃねぇか?』


 クラウス・シュトレング。

 一級貴族の次男坊。明らかに“何かを舐めている顔”で蓮也に絡んでくる。


 千寿『……何かご用ですか?』


 クラウス『いやいや。そんな珍名、どこから拾ってきたのかって思ってな。平民のくせに、やたら高尚じゃねぇか』


 千寿『…………』


 耐える。今は、耐える。

 クラウスの視線は、試すようで、見下すようだった。


 クラウス『ま、いずれ“雑兵”は雑兵なりに淘汰されるってこった』


 言いたいだけ言って去っていくクラウス。


 蓮也は静かに呟いた。


 千寿『“意味を与える”。……そういう名前だ』


 自分の中で、燃え始めたものがある。

 それを名前と呼ぶのか、意地と呼ぶのかは、まだわからない。


 ――だが、歩き出した以上、止まるつもりはなかった

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