第22話 ネルヌル
戦況は泥沼の様相を呈していた。
アバドンが花子に木の棒を振るうと、木の棒はただ泥の体をグニャリと通り過ぎるだけで、花子は何ら痛がるなどの反応を見せず、そうしている間にも足元の泥沼は拡張していき、今やリビングの床全体が泥沼と化していた。
常に足踏みしていないと深みにはまってしまう泥沼に。
ネルヌル。沼地の魔物。
泥沼の姿形をし、近付く者を自らの体内に沈みこませて窒息させ、死に至らしめるステージギミック型生物。
アバドンがネルヌルと花子の魂を発見できなかったのは、それら魂が地中奥深くに身を潜めつつ、虎視眈々と狩りの時を待っていたからだった。
さて、とアバドンは勝利の糸口を探りつつ考える。
花子ごとネルヌルを殺す方法はごまんとあるが、ネルヌルだけ殺して花子だけ生かす方法となると、あまり簡単ではなかった。
とりあえず探り探り立ち回ってはいるものの、泥沼に足を取られて体力の消耗が著しく、何らかの革命的なアクションを起こさねばならない局面に立っていた。
「服毒自殺を図るほど追い詰めていたのだな」
アバドンは泥沼に沈みこんでいく両足を、左右交互に引き抜きつつ呼びかける。
「さぞ辛いことがあったのだろう。可哀相にな」
と、心にもないことを言う。
現在、花子の魂は昏睡状態にある。肉体の瀕死状態とリンクして。
また、一つの肉体に複数の魂が共存している場合、その全ての魂が肉体の状態とリンクするわけではない。美波がプレハブ小屋で倒れた時、リンクして意識を失ったのは美波の魂だけで、アルミラージの魂は覚醒していた。
では、逆転させてしまえばいいと、アバドンは考えたのだ。
何かしら呼びかけて花子の魂を目覚めさせることで、ネルヌルの魂を昏睡させようと。
「………………………………」
ネルヌルは反応しない。自らは何もせず、アバドンが力尽きるのを待っている。
「プレハブ小屋に隠しカメラを仕掛けていたようだな。……まあ、案ずる気持ちも分かる。夕陽台は以前にもあのような企てをしたのだろう? 異性と強制的にまぐわろうとしたことがあったのだよな。……貴様は娘を心配する純然たる母親心から、隠しカメラなど取り付けたのだろう。涙ぐましいことよな」
ネルヌルはなおも反応しない。口内から眼窩から耳の穴から泥を垂れ流しつつ、頭皮の毛穴から泥を滲み出しつつ、そこに佇んでいる。
「娘を真似たいと思うのも母親心か」
ここでようやく、ネルヌルは一定の反応を示した。
俯きがちだった顔を僅かに上げた。
ここか、とアバドンは畳み掛けた。
「聞くところによると貴様は知的ぶるのが趣味らしいな。テレビで討論番組やニュース番組を視聴しては、そこに出演するコメンテーターの発言に茶々を入れ、『自分はこんな難しい話題にもついていけるのだ』と自らの知性を褒めそやす。そして娘にも賢い人間になるよう強制するが、——思うに娘は、貴様の想定より賢くなりすぎたのではないか?」
とうに貴様を上回ってしまったのではないのか? と吐き捨てる。
「しかもその上、娘はゴートに目覚めたときた。卓抜した知性を育み、そのうえ超人的な異能まで手にした娘に、貴様は強い嫉妬を覚えたのではないか?」
そして自ら死に瀕し、貴様はゴートになろうとしたのだろう。
労せず娘に匹敵しようとしたのだ、とアバドンは嘲る。
「そして、死に物狂いで手に入れた力が、その気色の悪い泥沼というわけか。……寓話的というかなんというか、どこまでも無様な女だな、貴様は」
「なにガわカルノヨ」
と。
花子はなおも眼窩と耳の穴から泥は垂れ流しつつも、活舌が不明瞭ながらも、口から出すものは言葉になっていた。
まず第一段階はクリアした、とアバドンは思った。
花子の魂が発話できる程度には優位になり、相対的にネルヌルの魂が劣位になったためだろう、泥沼と化していた床一面はその半分ほどが干上がって黄色い土になっており、これでいくらか戦いやすくなったと思った。
が、安心していたのも束の間、彼の右隣に広がっていた泥溜まりから、人の手の形をした泥の塊が飛び出し、アバドンの足首を掴んでいた。
アバドンは即座に足を振り上げ、泥の手の手首を棒で叩き切り、泥溜まりから飛び退くが、その行動も着地地点も予め推測していたとしか思えないことに、彼の着地地点には既に泥溜まりが回り込んでいて、そこから飛び出した泥の手がまたもアバドンの足を強く掴んだ。
全体的な泥沼の体積は減少したものの、その泥沼には目覚めた花子により知性が付加され、総合的に相手の戦力は強化されてしまった。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、評価やブックマーク、感想等お願いします!




