第2話 目覚めの時
アバドン改め野田解人は、病院の個室で目覚めた。
病床に仰向けのまま目を開け、そこに張り付いた細長い蛍光灯を認めると同時に、「ああ俺は本当に転生したのだな」と思った。
上体を起こし、鏡はないかとキョロキョロ病室を見回すと、ガラス窓に反射した自らの姿を確認することが出来た。
窓の外は真っ暗で、そこにボンヤリと幽霊が浮かび上がるような形で、……そこに佇んでいたのは、全身に包帯が巻かれたミイラ男だった。
野田は体に繋がれた諸々の管を外し、ベッドから降りて窓の前に立ち、病衣を脱いで包帯を外し、ありのままの状態を検分した。
瘦せ細った全身に縫合済みの傷跡が迸っている。長い前髪を両手で押し上げると、顔面の右上から左下にかけて痛々しい一本線が入っていた。
瀕死に至る交通事故の後遺症である。しかしこの程度の怪我はアバドンにとって日常茶飯事であり、従って彼が自分の体を見て最初に思ったのは、
「この貧弱な肉体でどう世界を救えというのだ」
だった。
そして溜め息しつつ床に這いつくばり、腕立て伏せを始めた。
無論、病み上がりですらない容体の中でするものだから、筋肉の収縮に伴って激痛を覚えていたが、そんなものは問題の俎上にすら上がらなかった。
「君ほど目覚ましい戦士は中々いないよ。起き抜けの一発目にすることが筋トレとはね」
野田が顔を上げると、いつの間にか褐色肌の神がベッドに腰掛けていた。
野田は顔を上げたまま腕立て伏せしつつ、神と対話する。
「お前とは死ぬまで会わないと思っていたのだが」
「そういうわけにもいかない。君には共有すべき事項がいくつか残っているからね」
野田は何か返事しようとしたが、そうする前に気配を感じ、その方を振り向いた。
病室の隅に漂う、テニスボールサイズの紫色の玉。
さしもの野田も腕立て伏せを中断し、立ち上がって腕組み、そのオーブを睨みつけた。
「アレは魔物の魂だな」
「ご明察。唾棄すべき悪の手先、その霊魂だ」
「なぜ肉体がない? どこか別の場所にあるのか?」
「彼らの肉体はね、どこにも存在しないんだ」
神はオーブに歩み寄る。
「君たちの世界から飛び出した魔物は、この世界に至るまでの間に摩擦され、肉体を失いつつ魂だけになって流れ着いた。魔物の魂はこうやって当てもなく漂い、適当な人間に憑りつく」
「そして?」
「死に至らしめる」
神がオーブを手で払うと、オーブはフワフワと野田の方に飛んでいく。
野田は飛んで来たオーブを、蚊でも殺すように両手で左右から叩き、そうするとオーブは破裂して跡形もなくなった。
「魔物は人間を敵視する。そういう生態の生物だからだね。……そして、魔物を視認し、あまつさえ攻撃できるのは、魔物の世界の住人だけだ」
「宙に漂っているだけの魂の潰し方は分かったが、人間に憑りついた魔物はどう殺せばいい? 人間ごと殺せと言うのなら承服しかねるが」
「やり方はこちらから提示しない。そこまでの助言はやり過ぎというものになるからね」
「やり過ぎ?」
「そもそも本来、神が人間に助力するというのは望ましくないんだよ。助言も含めてね」
神は頭を振ってから答える。
「早い話、私はその気になればこの世界中の魔物を一瞬で駆逐することが可能だけど、それはしてはならないんだ。言うなれば私は巨人のような存在なのでね。強い力を持つが繊細なことは出来ない。みんなのためをと思って歩き回っている間に、そのみんなを踏み潰していくような、勝手の悪い存在なんだよ」
「つまり細かい仕事は人間に任せた方がいいと」
「矮小とは言わないよ? 適材適所という話だ」
「心得た。で、伝えるべき事項とやらは以上か?」
後はちょっとした打ち合わせだね、と神。
これからの野田は、記憶喪失者という体で暮らしていくこと。性格から住む世界から何から何まで異なるアバドンが野田を演じることは不可能だろうという、合理的な判断だった。
そして必要最低限の一般常識を口伝し、神は去った。
隙を見ては筋トレに励もうとする野田と、安静にしろと抑え込む看護師の攻防は一ヶ月に渡り、
野田が復学したのは事故から一ヶ月経った、2020年の11月初旬だった。
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