その1 悲劇のマーリン
その6までは短編と同じです。
「お嬢様、起きてください」
「う~ん、後5分……」
「約束ですよ。破れば死…」
「っく、起きるー。ほい、起きた。セーフね」
遮光カーテンを開ける家令が、何でもないように掛けてくる声。
私の朝は非情だ。
だってずっと低血圧だし。
朝は苦手なのに。
ーーーーーーーーーー
没落した家に、借金取りが押し掛けてきたあの日。
妾の娘だった私だけを残し、男爵家の人々は逃げてしまっていた。
残っていたのは、使用人だけ。
男爵家の人達は、持てるだけのお金を持って去ってしまい、開けっぱなしの金庫には埃しか残っていなかった。
母が死んで引き取られた私マーリンは、ここに来てから使用人として働く日々。
当然のように、奥さまや子息息女さまに暴言や暴力を振るわれました。
「汚らわしい」
「あんたが悪い」
「売女の娘」
殴る、蹴る、物を投げる、何度か子息さまに襲われそうにもなりました。仮にも異母兄妹なのに。
でもそれも私が誘ったと言われ、また詰られます。
この家はどうなっているのでしょうか?
それはさておき、どうやら私は本格的に捨てられたようです。
借金取りが迫る中、残されれば碌でもないことになるに決まっています。
それを解っていて置かれたのでしょう。
娼館に売られるか、奴隷に落とされるか。
どちらにしても、尊厳のない日々しか見えません。
そもそも母が妾にされたのも、貴族の旦那さまが無理矢理にです。
暮らしだって、母が食堂で仕事をして私を育ててくれました。
何の恩恵も受けてはいないのに、ここに連れて来られて虐められていたのです。
体を売られる前の尊厳のあるうちに、死んだ方がましと言われる方もいるでしょう。
私もそう思うのですが、覚悟もなくいきなりは無理でした。
そんな物騒な人が押し掛ける中、一人異質な人が入って来ました。
黒いタキシードを着た、モノクルを掛けた初老の男性です。
白髪混じりのグレーヘアーを後ろに撫で付け、長い髪を首の辺りで一本に縛っています。背丈は170cm前後で、優雅な動きでこちらに向かってきました。
家の物を物色する人達にぶつかることもなく、逆にその男性を避けるように道が開いています。
赤い目をしたその男性は、私の前に立ち、目を真っ直ぐに見てこう言いました。
「お前は、このままで良いのか? 他人に人生を好きにさせるのか?」
私は悔しくて、嫌だ、嫌だ、嫌だ、でもどうしようもないと、俯いて呟きます。
「どうにかしたいのか?」
「できるなら」
「どんな犠牲を払っても?」
「犠牲? 私にこれ以上の犠牲なんてあるの?」
「済まない、愚問だな」
「……」
「誰かの命や尊厳を奪っても?」
「そうよ、私は惨めに生きたくない!」
俯いた私は顔を上げ、その男性の目を見て叫んだ。
「私は幸せに生きたいわ!」
その男性は、体をぶるりと震わせて恍惚の表情を覗かせた。
「良いですね。背水の陣のせいか。じゃあ、私と契約しましょう。お前を助けてあげましょう。その契約は………」
「その条件を呑むわ。私を助けて」
「潔い判断。嫌いじゃないですよ」
次の瞬間、男性は跪いて私に手の甲に口づけを落とした。
「貴女が約束を違えるまで、私は貴女を守りましょう」
そう言うと、懐から金貨の詰まった大袋を出して借金取りに声を掛けた。
「債権者の皆様、たいへんお待たせしました。金子の工面が着きましたので、こちらにお並びください。御足労頂き誠に済みません。つきましては、金貨10枚多くお渡しいたしますので、お許しください」
男性は食堂から机と、執務室から借用書を持参した。
待っている人が飽きないように、椅子とテーブルをセットし、何処から出したか解らないサンドイッチを大量に並べ、氷入りの果実水をコップに注いでいく。
そして次々に、借用書を処理していくのだ。
食べ物があるせいか、文句もなく作業が進んでいく。
最後の一人になった時、その借金取りは私を見て、ニヤリとイヤらしい顔をした。
「ここの旦那から、お前の雇用を頼まれてたんだけどな。どうやら無駄になったようだ」
私はゾクリと背中が震えた。
けれど私と契約した男性が私の前に出て、庇ってくれた。
「金子をお貸し頂き、誠にありがとうございました。お帰りお気をつけて」
「けっ、こんな所もう来ねえよ。すかしやがって」
悪態を吐いて去っていく借金取り。
震える私に声を掛けて労ってくれた男性の、服の裾を私は握りしめていた。それを男性は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
頷く私は微笑んでしまった。
借金取りが帰った後は、使用人の対応だ。
「残念ながら、本日で全員解雇となります」
先程の状態を見て、みんな納得している。
「そして本日までの給与と退職金をお渡しします。紹介状はアスク子爵様にお願い致しました。次の職場でも頑張ってください。後はできれば、今日のことはなるべく内緒でお願いしますね。アスク子爵にもご迷惑になりますので」
その言葉に全員が頷く。
無一文で出される覚悟だったのに、こんなに丁重に扱われるのだ。
余計なこと等、誰も言うまい。
その後、使用人の台帳を見ながら金子を渡していく。
みんな頭を下げてここを後にした。
私の事情を知って、優しくしてくれる人ばかりだったので、路頭に迷わせずに安心できた。
きっとこの男性がいなければ滅茶苦茶になっていて、そこまで考えることもできなかったと思う。
「この人がいるから大丈夫だと思うけど、元気でやるんだよ。体に気をつけてね」
「はい。お世話になりました。皆さんもお元気で」
別れは辛いけど、とても穏やかに挨拶もできた。
使用人が去り、その男性と二人きりになった。
「お疲れ様でした、お嬢様。失礼ですがお名前をお聞きしても良いですか?」
そこではじめて、自己紹介していないことに気づいた。
「ああ、はい。私はマーリン・オレットです。貴方のお名前は?」
男性は少し思考し、
「そうですねぇ、バージルで。バージル・ガーリックパダーです」
取って付けたような名前だった。
でも名前なんてどうでも良いのだ。
「契約は貴女が私に嘘を言わないことだけ。簡単ですよね」
「解ってます」
表情なく述べる男性に、強く頷く私。
「それが違えた時は即死し、私の使い魔になって100年は成仏させませんからね」
「解りました」
食い気味で答えると、体育会系ですねえと薄く笑われてしまう。
とほほな気分だった。
そうして私は、優秀な家令を手に入れた。
この男爵家の当主も家族も全員いなくなったので、バージルが手続きして私が臨時当主となっていた。
私を見てイヤらしい顔をした借金取りは、暴漢にあって怪我をしたらしい。化け物がやったと、錯乱していたと言う。
男爵家の人々は、何処に行ったか解らない。
今の落ち着いた状態を見れば乗り込んできそうだけど、よっぽど遠くに逃げたのかもしれない。
バージルは偽善と嘘が嫌いらしい。
暇潰しに、穢れていない魂の観察日記をつけてみるそうだ。
そんな訳で、今日も朝を狙ってくるバージル。
二度寝で使い魔になるのは避けたいが、これは私の選択だから仕方ないと納得できるだろう。
「お嬢様、後1分20秒」
「待って、起きるっ!」