【人魚編】魔女はその怪異と対峙する
えっと、これはちょっと、マズいかも‥‥
魔女ーー三浦ハナは、怪異によって声を失った少女ーー凪原姫子と対峙していた。
☆
課長が自分のデスクに積んでいった書類の束を、さりげなく隣のお局社員のデスクに置き直し、三浦ハナは早々にこの職場という名の地獄を後にした。
日付が変わる前の退社。
観たかった映画や、読みたかった本がハナを誘惑するが、今日はやる事がある。泣く泣くその欲望を振り切ると、ハナは裏路地へと向かった。
都会の22時は宵の口だが、海辺の田舎町の22時は、疲れた老犬のようにか細い寝息をたてている。
術師ーー三浦ハナは、対象ーー本人に対し、魔力も行使を申請致します。申請内容『移動のための一時的な身体の飛翔』
夜の帷も落ち切った、車通りが皆無な市道まで来ると、ハナは小声で呟く。
ハナの魔法に古から語り継がれし詠唱は存在しない。必要なのは、対象とその目的を明確にする事だ。
ハナの操る魔法の流派は『自分自身もしくは意思のない物体に対して、他者への多大な影響を与えない目的での魔力の行使』のみを許容している。
その為、自分自身の中で使用目的が明確になっていて、その影響が流派の定める範囲内に収まっている事が発動条件となる。
おそらく思考の組み立てが上手い立派な魔女なら、こんな呟きがなくとも魔法を発動できるのだろう。しかし思考が移ろいがちな未熟者のハナは、一度言葉にして魔法の対象と目的を明確にしなければならない。
朝礼時の企業理念の唱和や、現場作業前のKYのようなものだ。
どんな言葉がよりはっきりと明確化できるかを試行錯誤した結果、皮肉にも魔法とは程遠いブラック企業の申請書フォーマットが最もそれに近い事に思い至った。
そんなプロセスを経由し、ハナはいつも通り空へと浮き上がる。
肩から下げた鞄には無言のタカハシがぶら下がっている。プラスチック性の顔からは表情は伺えないが、若干の緊張を含んだ面持ちであろう事は、ハナであれば窺い知る事ができる。
スマホアプリのナビに目的地の住所をセットし、出発を押す。
純情そうな喜多代定が、中学の時点で既に姫子の住所を調べており、それを後生大事にスマホのメモに記録していた事に対して若干の恐怖を感じつつも、『中学時代の好きな子に対しての関心としては至ってスタンダードだよ。後をつけたりしなきゃ常識の範囲内さ』というタカハシの言葉を信じて、その事実については努めて目を瞑ろうと試みる。
そんな事より、タカハシの口から『中学時代の好きな子』という言葉を聞いて、彼にもそんな相手がいたのかが気になって仕方ないハナだった。
もしいたのなら、タカハシも若い愛情の赴くままに、その子の住所を調べるだとかストーカースレスレの行為をしていたのだろうか? だとしたら、なんかモヤモヤする。
自分以外の女に執着するタカハシに対して、怒りのようなモヤモヤの感情が湧き起こってくる。
そのモヤモヤを口に出そうかどうか迷った挙句、半口を開けたまま固まっているところで『目的地に到着しました。案内を終了します』の言葉と共にスマホのナビアプリが終了した。
古いアパートだった。
ハナは近くの木陰に着地すると、姫子の部屋がある205号室のあたりを見た。2階の窓は全て明かりがついているため、姫子もまだ起きているのだろう。
今回の目的は、ハナが自身の目で姫子を見て、その背後に立つ者が何なのかと、その対処法を探る、というものだった。
姫子が寝静まったらアパートの鍵を開けて、自身を透明化して姫子の部屋まで向かい彼女の背後にいる何者かを観察する。その程度なら姫子に何の影響も与えない行為のため、魔法の範囲内に含まれるはずだ。
仮にこの透明化の最中、姫子の顔にいたずら書きでもしようものなら、他者に影響を与えたと認識され途端に透明化の魔法効果は切れる。場合によってはハナ自身の身に災いが降りかかる場合もある。
ハナの使う魔法とはそういうものだった。
ハナは辺りを見回すと、何の気なしに夜空を見上げる。
やけに大きな三日月が昇る夜だ。
夜空の白い裂け目から、天上に住まう何か形而上的な存在が自分たちを見下ろしているーーそんな不可解な恐怖を感じる月夜だった。
2階のドアが開く音がした。
ハナは咄嗟に近くの電柱の影に隠れ、そして別に隠れる必要はない事を思い出し、再びアパートに視線を移す。
華奢な黒い人影が2階の廊下を歩いている。
フラフラと、まるで糸の切れた風船が空へと舞い上がってくように、夜風に体を揺らされながら、彷徨うように歩いている。
『姫子ちゃんだ』
タカハシが言う。
ハナは身構え、階段を降りてくるその細い影に目を凝らす。
魔法を使って家に忍び込む手間が省けたと安堵する。相手に害をなす意志がないとはいえ、やはり不法侵入は犯罪である。そういう人としての一線は、極力踏み越えたくはないハナだった。
そして、次の瞬間、後悔する。
異様な何かが、姫子の身体を包み込んでいた。
タカハシが言ったように、それは白く膨れた人型の何かだった。実態を持たない肉塊が姫子の手足に纏わりつき、その中でうっすらと少女の肢体が透けている。
あれが、人魚?
ハナは伝承から浮かび上がる容姿には程遠い、その怪物然とした怪異を薄目で見る。
そんなハナの視線と、姫子の虚な視線が交差する。それは明らかにハナの存在を意識し、屍肉に歩み寄る餓鬼のような足取りでこちらへと向かってくる。両足を引き摺るようにしながら、ゆっくり、ゆっくりと。
その余りにもグロテスクな様相に、ハナは無意識で口元を抑えていた。
「これは、ちょっと、マズイよ‥‥」
『学校で見た時と、明らかに形状が違う。何かあったのか?』
背後に立ち両手で姫子の口元を覆っている、タカハシはそう表現していた。しかし今こちらに近づいてくるそれは、姫子と同化しているように見受けられた。
少女の顔が、崩れ果てた肉塊の中に埋まっている。足を一歩ずつ進めるたびに、乱れた黒髪が揺れる。
事態がより深刻化しているのは明らかだった。
『三浦さん、俺は、一旦出直したほうがいいと思う』
「う、うん‥‥」
ハナは頷く。だが、ここで彼女を見逃したら、彼女はどうなるのだろうか。このまま姿を消し、次に会う時まで無事にいてくれるとは思えない。
「でも、もしこのまま見逃したら、姫子ちゃんに何も起こらないという保証はないよ」
『でも、三浦さんに危害が及ぶかもしれない』
「そうかもしれないけど、ほっとけない‥‥!」
『三浦さん』
タカハシは自分の意思で動かせないこの人形の身体を恨んだ。
もし自分に肉体があれば、囮になってでもハナを逃す気概はある。一度死んだ身体なのだ。生への執着など路上に投げ捨てられたコンビニの袋よりも軽い。でも、今の自分は動く事ができない。だから慎重にもなるし、臆病にもなる。臆病になる以外に、すぐそばで声を振るわせる恋人を守る術がないのだから。
しかしハナが、一度決めたことを簡単に覆す人間ではない事も、タカハシは深く理解していた。
タカハシを蘇らせる術を見つけた時もそうだ。
この小さな身体のどこに、そこまで大きな意志が収まっているのか、タカハシはいつも不思議に思う。
術師ーー三浦ハナは、対象ーー本人に対し、魔力も行使を申請致します。申請内容『危険回避のため10分間の身体能力の向上、ただし相手への危害を及ぼす行為は含まれない』
早口でハナはそう申請する。
乱れる呼吸を落ち着けるために、ハナは深呼吸をする。
ハナは今まで喧嘩などした事はない。誰かに危害を加えようと思った事はないし、誰かから危害を加えられるような恨みを買っとこともない。
しかし、今こちらに向かってくる存在は、そんな今までのハナの生きてきた世界の常識から逸している。
殴られるかもしれない。
殺されるかもしれない。
ハナは身体の芯がすっと冷え切っていくのを感じた。身体能力を向上させている筈なのに、脚が重くて動かせる気がしない。
姫子を包み込んだそれが、ハナの前で立ち止まる。
「凪原、姫子ちゃんだよねーー」ハナは言う「私は三浦ハナ。あなたを助けにきたよ」
それは無表情でハナを見ていた。
いや、表情を判別出来るような顔ではない。姫子の顔を覆い隠した肉塊は、頬と瞼が大きく膨れ上がり、唇はだらしなく開かれていた。
その肉塊の中で、姫子は心を失ったような茫然とした表情をしていた。
その刹那、ハナの肩に衝撃が走る。
身体能力を向上させた身体が、瞬間的に飛び退き衝撃を受け流す。
しかし続け様に伸びてきた左手が、ハナの首を掴んだ。
ハナはその手を引き剥がそうとするが、剥がれない。
突然の暴力に怯えた目で、ハナはそいつを見る。
顔の中心にある肉塊の裂け目が、呪詛の言葉を呟くように、小さく動いた。
しかしそこからは、やはり何の声も聞こえなかった。




