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【人魚編】壊れ果てた日常

 あの人は夢想家だった。


 彼は良き父であり、良き夫であり、良き男である事を夢見ていた。膝の上に座った愛娘から頬にキスをされ、休日は妻と手を繋いで歩き、日頃の家事を労って自慢の手料理を振舞う。そして夜には妻と激しく愛し合う、そんな日々を求めていた。

 

 それは、ごくありふれた夢だったのかも知れない。ただ彼はあまりにも純粋に、それを求めすぎていた。白い絵の具に黒を落としてしまえば、それはもう純白ではない。例えそれが、たった一滴だったとしても。

 母は父の夢に、一滴の雫を落とした。

 だから父は、自分が求める『良き男』の役割だけを、母以外の女性に求めてしまった。


 そして私の家族は壊れた。


 瓦礫が散らばった家庭の中にあって、まだ幼かった私は、自分の歌を『魔法』だと信じていた。


 喧嘩が絶えなかった父と母だったが、私が歌を唄えば、決まって微笑んでくれた。

 昔話に出てくる魔法使いが、不思議な呪文を唱えて辺り一面に綺麗な花を咲かせるように、私の口から紡がれた歌という魔法は、愛しくて大切で、温かくて大きな、二輪の笑顔の花を咲かせてくれた。


 父と母は、私という存在によって、ギリギリのところで繋がっていた。

 父は私の歌を喜んで聴いてくれた。彼が若い頃にアマチュアバンドのボーカルをやっていたという経緯が、それに関係しているのかはわからない。現実思考の母が私に勉学などの生きる術を学ばせる一方、夢想家の父は夢や芸術といった人生を豊かにする術を教えてくれた。


 私は幼稚園で習った歌を両親の前で歌った。

 それは家族で楽しくピクニックに行く歌や、母と手を繋いで買い物に出かける歌、父に肩車して星空を見上げる歌。歌という言語とメロディーの複合体に自分の願いや願望をのせ、願いが叶いますようにと強く念じながら、魔法を唱えるように歌を唄った。


 歌の通りの願いが叶うことは稀だった。

 私が魔法を唱えたところで、家族でピクニックに行く未来は存在しなかったし、笑顔の絶えない家族に生まれ変わる事はなかった。

 しかし、私が歌っているその瞬間だけは、父と母は争いを止めてくれた。魔法のような未来がこれから広がっていくのかも知れないと、そんな淡い期待で心を温めることができた。


 幼かった私は、それだけで十分だった。


 あの夜の言い争いは激しかった。

 嵐の夜の、屋根を貫かんばかりの雨音や、窓を打ち壊すような風の音のように、私の心の不可侵な部分を脅かすような怒号が、狭い部屋の中に吹き荒れていた。

 喧嘩の理由はよくわからない。

 おそらくいつものように父の女性関係のことだった気がするが、理由を知ったところで何の意味もない事を、この頃の私はうっすらと理解していた。

 

 争いの種は彼らの生活圏の至る所に、それこそ紛争地帯の地雷のように、そこかしこに埋まっていた。誰が何のために設置した地雷なのか、考察する事には何の意味もない。ただそこに何もないことを祈りながら一歩ずつ足を踏み出し、そして遅かれ早かれ確実に爆発の餌食となる。

 爆発のたびに、私は自分の中の何かが死んでいくのを感じた。心の中に存在していた願いや希望といった形のない何かが、爆炎とともに跡形もなく散っていくのを、感情を殺した目で眺めていた。

 

 そしてあの夜の爆発は、私の中の致命的な何かを破壊した。

 

 父と母は互いを罵り合った。

 お互いの全てを否定し、自分の全てを相手に押し付け、言葉の吐瀉物で部屋中を汚しながら、彼らは争いを続けた。

 私は、小さな声で歌を唄っていた。

 それはその日の幼稚園で習った歌だった。大好きな人達と世界中を旅する、そんな歌だった。

 

 私は世界中を旅したいとか、そんな大それた事など願ってはいなかった。

 

 ただ、二人に争いを止めて欲しかった。

 

 争いを止め、私を見て、疲れた顔でーーしかし優しい顔で、微笑んで欲しかった。

 

 しかしそんな未来が訪れる事はなかった。


 父は私を一瞥すると、この後に及んで歌を唄い続ける私の精神状態を憂い、母の日頃の教育によって生まれた歪みなのではないかと、強く母を責め立てた。

 母はそんな父の発言に言葉を詰まらせ、震える手を固く握ると、父の頬を叩いた。その手は一度の殴打で止まる事はなく、続け様に手元の家具を掴んでは、頬を抑えてうずくまる父に向けて投げつけた。


 置き時計のガラスが割れ、椅子が戸棚を凹ませた。雷鳴のような轟音が鳴り響き、落雷が空を分つように、父と母の決別を決定的なものにした。


 私の歌は、魔法はーー嵐の合間の不気味に重苦しい空気を微かに震わせただけだった。私の願いは、最も届いてほしい人達に、届く事はなかった。

 そんな言葉に、この声に、この歌に、何の意味があるのだろうか。


 父は家を出て、二度と帰っては来なかった。


 そして高校2年生の冬、私はあの人が死んだ事を知った。



   ☆



 凪原なぎはら姫子ひめこは自室のベッドに寝そべって、古い絵本をパラパラと捲った。何度も繰り返し読んだそれは、ページの隅が手垢で黒ずんでいた。綺麗な挿絵で彩られた人魚姫の童話。絵が気に入っているという理由で、こんな物を今だに手元に置いている自分の未練がましさが嫌になる。


 魔法なんて存在しないって事を、姫子は痛いほど思い知らされている。


 次の資源回収の日にでも捨ててしまおう。絵本を放り投げると、積み重なった本古の山にあたり土砂崩れを起こした。姫子は無表情で、その崩落の跡地を眺める。

 

 父が死んだと聞かされたあの日、海辺で佇む靄のような存在と出会った。

 黒に溶け込む、夜の水面のようなその姿は、明らかにこの世のものではなかった。しかし悲しみとも失望ともつかない感情に支配された姫子の心に、恐怖という感情が湧き起こる隙間はなかった。

 もしくは、剥き出しの魂が霊という存在なのだとしたら、そいつの剥き出しの負の感情が、姫子の感情と共鳴したからかも知れない。

 姫子は無言でその存在に並びんだ。そして寄せては返す海を眺める。その存在もまた、同じように海を眺めていた。何かを訴えるように。


 海は何も答えない。


 姫子はこの存在が、失意の後に命を落とした『人魚塚伝説』の女性なのではないかと考えるようになっていた。


 哀れだと思った。

 そして、自分と同じだと思った。


 数分間の邂逅だったが、姫子は自分の心が、この夜の海のように静まり返っている事に気付く。先ほどまでの、自分を内側から破壊してしまいそうな感情は、潮が引くように水平線へと消えていった。


 そして、心の平穏と引き換えに、姫子は声を失った。願いと代償にその声を奪われた「人魚姫」の童話と同じように。


 声の喪失に戸惑いはあった。

 ただ誰にも届かない声など何の意味もないーー幼い頃からそう強く思い込んでいた姫子にとって、その悲劇とも取れる喪失でさえ、不要な希望との訣別として受け入れられた。

 そう、私の歌は、もう魔法なんかじゃない。


 ただあの日ーー


 ふと一人のクラスメイトの言葉を思い出す。


 姫子の歌を「魔法だ」と言った、クラスメイトの男子。


 何のつながりもないただのクラスメイトに心を見透かされたような気がして、姫子は恥ずかしさと、情けなさと、しかし心の奥底に火種のような小さな喜びが灯った事を覚えている。


 不思議な感情だった。


 その時の感情が蘇り、胸の奥底から湧き上がり、喉元を超え、口から溢れ出しそうになる。

 しかしその感情もまた、誰かに押さえつけられるように押し留められ、再び胸の奥へと戻っていった。


 姫子の心は凪いでいる。

 まるで雨の日の海のような、灰色のまま。


 しばらくスマホを眺めていると、玄関の開く音が聞こえた。時刻は21時、いつもより早い母の帰宅だった。

 姫子が自室のドアを開けると、ふらふらと千鳥足の母がダイニングに向かい、コップの水を胃に流し込んでいた。今日は夜の仕事はないが、昼の仕事の面々と親睦のための飲み会があると言っていたのを思い出す。姫子は、糸が切れたように食卓テーブルに座り込んだ母の前に、もう1杯水を置いた。

 母は酒が強いわけではない。

 ただ職場での円滑な人間関係を維持するためには、時に道化となり酒を流し込む事も必要だと心得ている。

 そんな母を見かねて、自分もアルバイトで家計の助けになりたいと願い出た事もあったが、それを母は強く拒否した。

 父との別れを決断したのは自分なのだから、娘に今以上の苦労を強いるわけにはいかない。それは母の信念であり矜持だった。


 しかし、人間はそんなに強くはない。

 どれだけしっかりと縫製された布地であっても、一箇所の綻びから解れていく事だってある。

 今日の母からは、そんな糸の切れ端が見えるような気がして、姫子は出来るだけ優しく母の背中を摩った。


「あんた、クラスメイトに何かされてるんだってね‥‥?」


 コップの水を半分飲み、俯いたままの母は、絞り出すような声で言った。


「パートの佐藤さんの子供が、あんたと同じ学年なんだって。あんた、声が出なくなってから、学校でーーいじめられてるの?」


 いじめ、という言葉を出すのに、一瞬母が戸惑った事がわかった。言葉にしてしまう事で、その概念が固定化されてしまうような気がしたからだろう。

 私の声の喪失は、精神医学的には過度のストレスによるものだと結論づけられている。そしてそのストレスの原因は、皆まで言うことは無いが、母としてはおおよそ察しがついているに違いない。


「なんで、私に相談してくれなかったの?」そう問いかけた母は、諦めた表情で力無く笑う「ーーそうよね、言えないもんね、声が出ないんだから」


 姫子は無意識に首を振った。

 そして視線だけで、何か母に気持ちを伝えられるものを探した。


「ごめんね、私のせいよね、あなたの声が出なくなっちゃったのは」激しい酔いは心のブレーキを破壊する。普段は押し留められていた感情が、母の口から溢れ出す「私が、あんたから父親を取り上げちゃったから‥‥」


 姫子は母の表情を覗き込もうとする。

 母はそれを避けるように、両掌に顔を埋める。


 声が出掛かっている。

 今、母に言わなければいけない言葉があると、姫子の心が叫んでいる。しかし、その声は喉元まで出かかって、やはり押し留められる。


「でも、私だって頑張ってるじゃないーー」


 彼女を母として装飾する布地がアルコールでふやけて、ほつれが綻びを生み、裂けていく。


「私だって、母親として、必死に頑張っているじゃない。なんで、あいつがいないとダメなの? あんなクソ野郎が死んだ事が、そんなに悲しいの!?」


 裂け目から、今まで必死に押し込めていた感情が溢れ出していた。

 姫子が目の前にいない父を思い溜め息を吐くたびに、母の心には血の塊のような赤黒い感情が、少しずつ少しずつ沈殿していたのだ。

 自分の決断への罪悪感と、自分一人では娘の心の溝を埋められない無力感、そしてそこまでして娘の心に棲みつき居座ろうとする憎い男への憎悪。それを覆い隠しながら、彼女は生きてきたのだろう。


 そしてあの男は、娘の中では「父」であるまま、死という現象を持って永遠に保管されてしまった。


 もう自分一人では、二度と娘の喪失感を埋める事は出来ない。


「ねえ、何か言ってよーー」その声は懇願に近かった「黙ってないで何か言ってよ!」


 違う!


 姫子の心は叫んでいた。

 溢れだす母の感情を押し留めようと、両手で強く母を抱き締めながら、姫子は心の中で何度も母の名前を叫んだ。

 

 私は、あなたが私の為に身を粉にして働いている事も知っているし、深く愛してくれている事も知っている。

 私はあなたの事を愛している。

 ただ、私にとって、あの人もたった一人の父親なのだ。たとえあなたにとっては憎しみの対象だとしても、私にとっては愛すべき父親だったのだ。

 

 この感情はきっと両立できる。

 心の片隅にほんの少しだけ、あの人の居場所を作ってあげるだけ、それだけだ。


 姫子は自分の思いを言葉にして母に伝えようとした。しかし言葉が口から放たれる事はない。海岸に打ち上げられた一尾の魚のように、ただ口を動かしながら、姫子は嘔吐するように言葉を搾り出そうとした。


 声を失ってから、これほどまでに心が掻き乱され、言葉を吐き出したくなる事など今までなかった。


 内側から押し出そうとする圧力と、外側から押し込めようとする圧力によって、姫子の身体は軋みをあげ、激しく震えた。


 姫子は人差し指を喉に押し込む。

 詰まっている何かを掻き出そうとするかのように。


 姫子の背後に何かがいた。

 それが姫子の感情を抑え込み、その身体を支配しようとしている。それに気づいた姫子は、我武者羅にその力に抗おうとした。


 意識がどんどん薄れていく。


 意識の崖っぷちに右手だけでぶら下がった姫子は、その指先を踏みつける存在を感じ、その痛みに顔を歪めた。


 手が離される。

 姫子は暗闇へと堕ちていく。



   ☆



 気がつくと、目の前に母が倒れていた。


 その頬は赤く腫れ上がり、意識を失っている。


 そして自分の拳に残る痛み。


 姫子は察した。


 察して、絶望した。


 自分は狂っている。


 母と二人で築き上げた大事な居場所ですら、自らの手で壊してしまった。


 姫子は、魔法を望んだ。


 昔のように魔法の歌を唄えば、全てがいい方向に向かうような気がした。


 でも声は出ない。


 やはり魔法など存在しないのだ。


 ふらふらと家を出る。


 うすら笑いを浮かべたるような月が綺麗だった。


 そしてその月の下に、一人の女が立っていた。


凪原なぎはら姫子ひめこちゃんだよねーー」その女は言う「私は三浦みうらハナ。あなたを助けにきたよ」


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 白い絵の具に黒を落としてしまでば、 無言でその存在に並びんだ。 願いと代償にその声を→「の」では? めっちゃいいとこなので、気になります。。^^;
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