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【人魚編】社畜の魔女

 会社のPC画面を眺めながら、三浦みうらハナは業務とは全く関係のない事を考えていた。


 営業担当が顧客に提案した案件をエクセルのリストにまとめ、優先度の高い順から見積書を作成する。しかしこの労力の果てに成契となる見積は全体の何割になるのだろうか。どうせ決まらない案件なら、作るだけ無駄じゃないだろうか。

 

 なんだか色々とバカらしくなってきたハナは、本日数十回目の溜息をついた。


 伏目がちに周りを見渡す。皆が血眼になってよく分からないデータを打ち込んでいる。

 これは親より先に亡くなった子供が課せられると言われる、賽の河原の石積みと同じようなものなのかもしれない。生きたように死んでいる人達が、無駄な努力になるのがわかっていながら、ひたすらに地道な努力を積み重ねる。

 キーボードを叩く乾いた音が、小石が崩れる音と重なる。

 

 一年前、タカハシが死んでしまってからも、彼らは普段と変わらず同じような仕事を繰り返している。タカハシの放り投げた小石は賽の河原に小さな波紋を生んだものの、結局は強大な大河の流れに覆い尽くされ一瞬で消えてしまった。タカハシの抜けた穴は別の誰かが埋め、特に大きな問題もなく日々が続いている。


 やはりとういうか、当然というか、世界はタカハシが消えた事を難なく受け入れ、ほんの小さな軋みを上げたものの、なんの問題もなく廻り続けている。


 ハナは、自分がタカハシを現世に引き戻す事で、調和の取れた歯車に小さな小石を挟み込む結果になるのではないかと、たまに考える事がある。

 タカハシの家族や、友人ーー彼を愛し慕っていた人々は、彼の不在を各々の方法で受け入れ、必死に前を向いて生きていこうとしている。

 気が付けば自分ばかりが、タカハシの存在していた過去に縋りつき、現実を受け入れないまま、後ろ向きの方向で必死に足掻き続けていた。

 

 その違いはきっと、タカハシに対する思いの強さとか、そんな美しい何かで生み出された差異ではない。

 この世の摂理に反する力を、自分だけが持っていて、他の人たちは持っていない、ただそれだけの違いだ。


 タカハシを生き返らせようとしてしまったのは、きっと自分の弱さなのだと思う。


 いや、仮に絶望を覆す手立てを持っていたとしたら、それがこの世の理に反する事だとしても、自分からそれを手放せる人間などいるのだろうか。


 いないと思いたい。

 人間は誰だって弱いのだから。


 そしてハナは喜多代きたしろさだめという少年の事を思った。


 彼もまた、自分と同じ弱い人間の一人だ。

 魔女ーー魔法という『絶望を覆す手立て』の存在を知ってしまったからこそ、自分には出来る事があると思い込み、自分の都合で他の生命へと干渉しようとしている。


 それは、理屈としては間違っているのかもしれない。


 でも人間としては間違っていない。

 

 やはり、そう思いたい。


 モンスターエナジーのゼロシュガーを一口飲む。ケミカルな甘みが舌の表面を撫で、炭酸の刺激と共に食道を流れていった。


 定が干渉しようとしている女の子ーー凪原なぎはら姫子ひめこ

 その背後には、全身をぶよぶよに膨れさせた女の霊が取り憑いていると聞いた。その女は汚れた手で彼女の口を塞ぎ、その声を押さえつけていたらしい。


『敵意だと思う。あの女の子の感情を揺さぶり、声を上げさせようとする相手に対して、強い敵意を向けていた気がする』


 そうタカハシは言っていた。


 なぜそんなものが彼女に憑いているのか?


 その疑問の答えを、今手持ちの情報だけで推察するのは、たった数枚のピースだけで1000ピースの大物パズルの絵柄を言い当てるようなものだ。


 ただなんとなく想像できるのは、その霊にとって今の姫子の側が『居心地のいい空間』であり、それを変化させようとするものを拒絶している、という事だった。


 そして白くぶよぶよに膨れた身体。


 水に曝された死体ーー水死なのだろうか?


 ハナは検索画面から、この街で起きた水の事故を検索してみる。

 いくつかヒットがあり、男女と共に様々な年齢層の人達が複数亡くなっている事がわかった。ここが海沿いの街で、夏は県外からも海水浴客が来るほどの賑わいを見せているのだから、当然と言えば当然だ。

 いくつかの概要を眺めるが、関連がありそうな情報は見当たらなかった。このネットの記事が近隣の海で起きた事件や事故を全て網羅しているわけではないだろうし、ここ確認できた情報は氷山の一角なのだろう。


 その他の検索結果のリンクを上から順に眺めていくと、一つ気になる記事を見かけた。


『人魚塚伝説』


 この近隣に伝わる昔話のようだが、県外から移住したハナにとっては馴染みの薄い言葉だった。


 平たく言えば男女の悲恋物だった。この土地に住む男と、沖の島に住む女が恋仲であり、女は毎晩のように男に会いにきていた。しかしある夜、男が目印となる灯火をともさなかった事で、女は遭難し波の餌食になってしまった。翌日浜辺に打ち上げられた女の顔は悲しみで歪んでいた。


 物語自体に人魚は出てこない。しかし亡くなった女の美しさや、海に命を奪われたという背景が、語り継がれる中で次第に、海に住む美しい『人魚』と結びついていったのかもしれない。


 この物語の女性もまた、海で命を落とした女という事になる。


 もう歌はいらない、人魚に会えたからーー姫子の掲げたスマホの画面には、そんな一文が書かれていたらしい。


 もしかして本当に、伝説の人魚に?


 ーーまさかね。


 脳の表面で冷静な自分が否定しているにも関わらず、この脳の中心部ではこの荒唐無稽な仮説に妙な魅力を感じている、そんな自分をハナは自覚し戸惑った。


 いずれにせよ、怪異の類は乱れた心にまとわり付く、濁った水に浮く藻のような物だ。姫子自身に何かしらの問題があり、必死に足掻いた結果、その身体にに濃緑に繁茂した藻が絡みついてしまったのだろう。


 再びモンスターエナジーを飲む。


 乗りかかった船ではあるし放っておくわけにもいかない。ただし、自分やタカハシの身を危険に晒してまで、深入りする義理も当然ない。

 ましてタカハシの話では、凪原姫子は自身の境遇を受け入れている様子すらある。

 本人を含め、皆が現状を素直に受け入れ、前を向いて歩いていく事がやはり正しいのかもしれない。タカハシが死んだ事を、そのまま受け入れていった人達と同じように。


 でも、だからこそ、ハナはそれに抗いたかった。


 姫子をあるべき姿に戻そうとする定の戦いは、タカハシの死に抗おうとする自身の戦いと同じだ。


 気付けばハナは、定の中にもう一人の自分を見出していた。


 納得の行く結末へと導きたい。

 定にとっても、そして自分自身にとっても。


三浦みうらくん?」


「‥‥」


「三浦くん!?」


「は、はい! すみません課長!」


 妄想に耽っていたハナは反射的に謝罪の言葉を叫ぶ。課長の声が聞こえたらとりあえず謝っておく事が大事だとタカハシから教わっている。

 その教えは血となり肉となり、この会社で生きていく上での本能として、ハナの心に深く刻み込まれていた。


「はあ? 何謝ってるんだ? 寝ぼけてるんならコーヒーでも買ってきたらどうだ?」


「あ、大丈夫です‥‥。モンスターがまだ2本ありますので」


 目を合わせずペコペコと何度も頷く。


「はあ‥‥まあいいや」


 溜息を吐いた課長はハナのデスクに書類を置く。


「これ、山下のやつが作り途中で営業に出ちまいやがった。悪いけど三浦くんの方で完成させといてくれない?」


「は、はあ、わかりました、大丈夫です」


 自分の仕事だって終わっていないのに、全然大丈夫ではない。ただ誰かがやらなくちゃいけない仕事なら、今回は運が悪かったと思って諦めるしかない。


「まったく、山下は責任感がねーんだよ。こんな時、高橋がいればはなぁ‥‥」


「え?」


 課長の口から意外な名前が漏れたのを、ハナは聞き逃さなかった。


「いやな、高橋がいたら、しっかり仕事を終わらせてくれてたんだろうと思ってな。あいつはミスが多かったが、自分の仕事への責任感は人並みにあったから」


 基本的には部下を蔑む言葉しか口にしない課長の、初めて他人を認める一言。

 最初ハナは課長の言った言葉の意味が理解できず、惚けた顔で課長を見ていた。

 

「おい、何見てんだよ。もっと仕事回してもらいたいか?」


「いえ、そんな事はないです」


「ならさっさと仕事しろ」


「あの、私も、そう思います」


「は?」


 課長の中でも、まだタカハシは生き続けている。その事実がハナの心の奥底に染み入った時、自然と笑みが浮かんだ。


「私も、タカハシさんなら信じられるってーーそう思います」


 ハナは大きく頷いた。



   ☆  



 事態は停滞している。


 あれからタカハシと凪原姫子の観察を続けているが、数日経った今でも何一つ手掛かりとなるようなものは見つけられていない。


 このまま事態は何も進展せず、尻すぼみに終わるのではないか? 深夜のコンビニで魔女ーー三浦ハナと待ち合わせた喜多代きたしろさだめは、焦りにも似た胸の内をハナに吐露した。


『最初の日に見た、あの背後にいたアレは、あれ以降全然現れていない』定のポケットに入ったタカハシが言う『もう少し様子を見てみようと思うけど‥‥』


「いえ、揺さぶりをかけましょう」定が首を振る「このままただ見てるだけじゃ埒が開かない。もっと俺が接触を試みれば、またあいつが現れるかもしれない」


『それは危険だって言ってるだろ』タカハシが反論する『もし君に何かあったら、俺には君を守る術はないんだよ?』


「でも、このままじゃ、何も進まないですよ」


 定は溜息を吐く。定の感情とは裏腹に、ゆっくりと舞い上がったそれは、じんわりと宵闇に同化していった。


 腕を組んで話を聞いていたハナが顔を上げる。


「私が、行ってみるよ」冷えて乾燥した唇が、言葉を弱々しいものに変える。それを温めるように下唇を噛むと、自分に言い聞かせるように繰り返す「私が、直接その子に会ってみるよ。確認したい仮説もあるし、私だったらいざという時、自分の身くらいなら守れると思う」


「なら俺もーー」


 そう口走る定を、ハナは制した。


「私の魔法は私にしか効果がないから、何かあった時に、定君を守ることは出来ないんだよ。言い方が良くないかもだけど、足手纏いだと思うーー」


 そして、ハナは強く頷く。


 これは自分とタカハシが、世の理に対して仕掛けた戦いの、代理戦争なんだ。


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