【人魚編】凪原姫子に寄り添う者
朝起きて、母がいないと安堵する自分がいる。
私は、母が良い母親である事を知っている。女手一つで自分を育てるために、昼間は工場の事務員、夜は居酒屋でバイトをしている。夜の仕事は日を跨ぐことも多いし、昼の仕事も生産の都合では朝早くに出勤する事もある。
母は常に疲れている。コートに染み込む霧雨のように、疲れはしっとりと母の身体を蝕んでいる。そんな母を私は尊敬し、愛し、大切に思っている。それは間違いない。
ただ私と母にはたった一つの、しかし覆ることのない差異があった。
母はあの人を憎んでいる。
その一点において、私と母の間には大きく深い亀裂が横たわっている。
今となっては、母とあの人の関係性が氷解することなど、絶対にない。
死んでしまったあの人は、母の中で生涯変わらぬ憎しみの相手として固定されてしまった。その思いは黒蝶貝の中でゆっくりと形作られる黒真珠のように、母の胸の中心でずっと黒く輝き続けるのだろう。
しかし、私にとってのあの人は、愛すべき父だった。私の中の優しき父としてのあの人もまた、死によって固定され、同じように輝き続けている。
だから私と母と心の底から理解し合える日は、二度と訪れない。
枕元に置かれた古い絵本を手に取り、手垢に塗れ寄れたページをめくる。今まで何度となく眺めてきた1ページ目には、海の底で歌声を響かせる美しい人魚が描かれていた。
この街にも人魚がいる。
悲しい伝承の中で、人魚と呼ばれることになった古の女性は、荒れ狂う海の上でどのような声を響かせたのだろうか。辞世の詩なのか、憎しみの嘆きなのか、それとも愛する人の名を叫んだのか。
いずれにせよその声は、波音と風音にかき消され誰の耳にも届く事なく消え果てたのだろうか。
幼い頃の私の歌のように。
あの人が死んだ日、私は海辺で誰かを待っていた。自分の悲しみを理解し共感してくれる、そんな誰かを待っていた。
私の歌は冬のつむじ風のように、向かう先を失ってしまった。
自暴自棄に足元の砂を蹴り上げる。波打ち際に舞い上がり、風に乗って流れていくそれらの向こうに「彼女」が立っていた。
そして私は、声を失った。
☆
『定くん、定くん』
「どうしました? タカハシさん」
ブレザーのポケットから聞こえる声に、定は小声で応える。
ホームルームが始まる十数分前。いつもと変わらぬ喧騒は、定にとってありきたりな日常の一コマだった。隣の席の陽キャグループは既に放課後の予定で盛り上がっているし、前の席のぽっちゃりしたメガネ女子は少年漫画を題材にした二次創作本をこっそりと眺めてニヤけている。
『いやあ、なんか懐かしいなって思ってさ。高校ってこんなだったよな』
「え? あ、そうですか」
ポケットの中に収まるカボチャ人形がどんな高校に通っていたのだろうか。クラスメイトにはミッキーマウスやピカチュウなんかがいたのだろうか。定はそんな妄想に思いを巡らせたが、タカハシが元々は人間であったことを思い出す。
『今になって思うと、あの頃の俺はこんな女子の集団の中で、よく理性を保っていられたもんだよ』
「女子の集団って‥‥クラスメイトなんだから、そんな変な感情が沸くわけないでしょ」
この不毛な会話を周りの連中に怪しまれないよう、定は机に突っ伏した姿勢をとる。
『君もあと10年もすればわかるよ。今の自分がどれだけ幸せな空間にいるかって事にね‥‥』
「タカハシさん、それって完全にオヤジですよ」
『オヤジで何が悪いか』
「魔女さんが聞いたらなんて言いますかね?」
『‥‥すみません』
昨晩から半日ほどの会話の中で、このタカハシというカボチャ頭の人形が、思いのほか俗っぽい事がわかった。良く言えば親近感が湧く人柄だが、悪く言えばちょっと情けない部分も垣間見える。
月明かりの下、魔女の鞄に吊り下げられ神秘的な雰囲気を纏っていたあの姿はどこへやら。登校中に最近の女子高生のスカートの丈について語り出した時は、どう返そうか反応に困ったものだ。
そんなくだらない会話を交わしながら、自分に兄がいたらこんな感じなんじゃないかな、などと一人っ子の定は思う。そして子供じゃあるまいしと少し恥ずかしくなった。
午前の授業が終わり、昼食を済ませる。友人達にポケットのタカハシが気付かれることはなかった。こんな可愛らしい人形を持ち歩いていることがバレたら、白い目で見られること請け合いである。
とは言え、このままポケットの中へ入れっぱなしにおく訳にもいかない。タカハシには凪原姫子を観察してもらう必要がある。
自販機にジュースを買いに行こうと言う友人の誘いをやんわり断ると、定は左のブレザーのポケットからタカハシの顔をひょっこりと出した。その視線の先には、頬杖をついて窓の外を見ている凪原がいる。
「あの子です」
『あ、あのシュッとしたメガネの子?』
「そうです」
『美人な子だね』
「ですよね。あ、いやそんなことより、どうです?」
『うーん』
「何か見えます?」
『はっきり見えないけど、彼女の背後にぼんやり霞がかった影が見えるような気もする』
それは朝の森林から立ち昇る蒸気のような、うっすらとつかみどころのない何かだった。ただし、霊であるが故に霊的な感受性が高まっているタカハシにとって、それは「同類」のように感じられた。
「やっぱり、何か憑いてるんだ」
『いや、わかんないけどね。ほら守護霊みたいな存在かもしれないし』
「もっと良く見る方法あります?」
『わかんない。観察し続けるしかないんじゃないかな』
「了解です」
突っ伏した定が、タカハシにだけわかる位置でグッドサインを見せる。
ふと、強引に椅子を引く音がして、定は顔を上げた。
姫子の前にカースト上位女子の鈴木さんが座っていた。背もたれに両肘を載せて後ろ向きに椅子に跨った彼女は、姫子の机に置かれていたシャープペンシルを掴んで、弄んでいた。
やむを得ず他人と意思の疎通を取らなければならない時の為に、姫子が常に机に置いているノートとシャープペンの片割れだ。
「凪原さん、私シャープペン忘れちゃって」鈴木さんは姫子のペンをノックし伸びてきた芯を親指の爪で折る「もし良かったら、このペン貸してくれない?」
姫子は答えない。いつも通りの眠そうな、しかし冷ややかな目で鈴木さんを見ている。
「返事がないって事は、貸してくれるって事だよね?」
鈴木さんは隣に立って薄笑いを浮かべている女子にわざとらしく尋ねる。その女子は「そーでしょ、そーでしょ」と何度も頷いた。
「ありがと、いつか返すね」
鈴木さんはそのシャープペンで姫子の机に大きなハートマークを書いて、笑った。
定は無意識に立ち上がっていた。勢いで椅子が後ろに倒れそうになり、背後の机にぶつかって大きな音を立てる。
その音に驚いた鈴木さんとその友人は、定の方をに目をやる「あ、喜多代くん、どうしたの? 大丈夫?」
「あ、ああ」
定は曖昧に頷きながら、反射的に浮かびあがろうとする社交辞令の笑みを制していた。感情とは裏腹に、事なかれを貫こうとする本能が憎かった。
そんなやり取りをしている間に、気が付けば姫子は教室の後ろのドアへと向かっていた。定はしばらく逡巡すると、彼女の後を追って廊下へ出た。
☆
校舎の隅にある購買前の通路は、昼休みの喧騒から切り離されている。文房具屋などの面白みのない物しか売っていないため、生徒が物を買いに来ることは滅多にない。
窓からの遮光が、風に揺れる木の枝によって海流のように揺れている。定は何かの映像で見た深海の様子を思い出した。
購買でシャープペンを買った姫子と鉢合わせた。偶然ではなく、こっそり彼女の後をつけていたのだから必然ではある。何の気なしに後をつけてしまった後ろめたさはあるが、タカハシに姫子を観察してもらうという大義名分で自分を納得させていた。
本当は、何かしら慰めの言葉をかけたかった。自分という味方がいると、気付いて欲しかったのだ。
姫子は定を一瞥すると、その横を通り過ぎた。
きっと彼女にとって定は、視界の端に映り込むだけの、顔のないモブでしかない。
「あの!」定は去っていく背中に反射的に声を掛けた「凪原さん、大丈夫?」
姫子は立ち止まると、半身の状態で振り返った。当然ながら言葉はない。訝しげな目で定を見ている。
「あ、俺、クラスメイトの喜多代定です」
以前、名前と存在を忘れられていた事を思い出し、定はわざとらしく頭を下げた。
心なしか、姫子の表情が和らいだ気がした。
さり気なくポケットのタカハシを触る。ポケットから半分顔を出したタカハシは、姫子を観察出来ているだろうか。
沈黙が訪れる。
声を掛けたはいいが、その場を繋ぐ話題があるわけではない。そもそも声を失ってしまった姫子とのコミュニケーションは、慣れない定にとっては足の指でキャッチボールをするようなものだ。
まごつく定に「用もないのに呼び止めたの?」と言わんばかりの猜疑の視線を向ける姫子。
定は焦っていた。
「声、大丈夫?」
尋ねてすぐ、いきなりセンシティブな話題に踏み込んでしまった事を後悔する。しかし、吹き出しの横のバツ印で発言を消せる訳もなく、不用意に吐いた発言の責任は取らねばならない。
姫子は一瞬俯くと、半身だった身体を定に向き合わせた。そして「大丈夫」と言うかのように、小さく頷く。
明らかな拒絶ではない反応に定は救われた。
「早く声が戻るといいよね。俺、凪原さんの声好きだからさ」
安堵で緩んだ口元が、単なる顔見知りのクラスメイトらしからぬ歯の浮くような感想を垂れ流してしまう。姫子の眠そうな目が一瞬開かれた事で、定はその事実に気付く。
「あ、いや、これはそういう意味じゃなくて、そう、中学の時に一度だけ凪原さんの歌を聞いた事があるんだけど、その時の歌声がすごい素敵でさ」
そして一度息を吸い込み、最後の一言を紡ぐ。
「まるで魔法みたいだって思ったんだ」
もはや語るに落ちる状態だった。何の関心も持たれていないような一クラスメイトの男に、いきなり声が好きだとか、昔聞いた歌声が素敵だったとか、魔法だとか、そんなセリフを吐かれたら一般の女子はどう思うのだろうか。
女心のわからない定には判断のしようがないが、姫子の困ったような表情を見ると、それが全面的に好意で受け取られているとは考え難い。
しかし、姫子はポケットからスマホを取り出し、文字を打つ。
定の前にかざされたスマホには『ありがとう』とだけ書かれていた。
それを見て、定は自分の行い全てが肯定された様な気がした。
自分勝手な考えで、姫子の声を取り戻そうと奮闘しているが、彼女自身がそれを望んでいるかはわからない。余計なお世話だとか、距離感をわきまえない行為だとか、全てを拒否される不安が常に心のどこかにあった。
しかし自分の行動の根源である「凪原さんの歌声が好き」という感情を、当の姫子が肯定してくれた事で、自分のしている事はやはり間違いではなかったのだと、そう思う事ができた。
定は有頂天になっていた。
人と人は分かり合えるんだとか、想いは全てを凌駕するだとか、そんな呑気な感情が胸の奥底から湧き上がった。
「あのさ、俺、今趣味で曲を作ってるんだ。もし凪原さんの声が治ったら、良かったらでいいんだけど、俺の歌を歌って欲しくて‥‥」
『さだめくん』
ポケットの中のタカハシが何か言った様な気がしたが、定は聞こえていないふりをした。
「実は、凪原さんの歌声をイメージした曲があって、それで、えっとーー」
『定くん、話を聞け!』
語気を強めて、しかし凪原には届かないような小声で、タカハシが叫んでいた。
定は言葉を止める。
目線は姫子に向けたまま、タカハシの次の言葉を待つ。
『やばい、早くここを離れたほうがいい‥‥』
定には意味がわからなかった。タカハシには何かが見えているのだろうか。霊的な何かが。
『説明は後でするから、早くここから離れよう。多分、俺たちじゃ手に負えない‥‥』
定の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
自分には何も見えない。しかし恐怖で震えるタカハシの言葉は、定にすらその恐怖を伝播させるほど、真に迫るものがあった。
姫子は笑ってた。首を左右に振りながら、水面に映る三日月のように笑っていた。
ーーもう歌はいらない
ーー人魚に会えたから
掲げられたスマホの画面が、そう告げていた。
定は一歩、退く。見えない何かから漏れ出てくる、この異様な空気感に耐えられなかった。
「ごめん、用事を思い出した」
そう早口で呟くと、定は踵を返した。
振り返る途中で足がもつれて転びそうになりながら、早足でその場を立ち去る。
姫子は追っては来なかった。背中を突き刺すような視線を感じながら、定は最初の角を曲がった。
☆
『あれは、人‥‥みたいだった』
購買からは別棟の屋上に向かう階段に座って、定はタカハシに説明を求めた。タカハシは自身が見たものを定に語る。
『白くて、何だかブヨブヨだった。髪が長くて、顔を覆っていた。でもあれは、多分女の人だ』
「幽霊なの?」
『ああ、おそらくそうだ。悪霊とか、そういうやつなのかもしれない。意思の疎通が取れる感じは、全然なかったけど』
「でも、さっきはボヤッとしか見えなかったって」
『ああ、そうだ。教室にいた時は、何だか薄らぼんやりした何かだった。でも、定くんとの会話の途中で、急に姿を現した』
タカハシは一瞬黙る。そして、件の場面を思い出したのか、一度深く長い息を吐いた。
『たしか、定くんが彼女の声について話し始めてから、彼女の背後から、あいつが現れたんだ。靄が集まって固まっていくみたいに、徐々に体が形作られて、それでーー』
タカハシはもう一度息を吐く。まだ高校生の定を気遣うように、そして自分自身の考えを絡め取る様に、ゆっくりと言葉を選ぶ。
『そいつが背後から、彼女の口を、両手で塞いでた』
膨れて薄汚れた手が、凪原の唇を覆っている。
それは誰も触れることの出来ない艶やかな花弁に、濁り切った泥水を浴びせかけるような行為だった。定の頭の中に鮮烈なイメージが広がり、軽い目眩を引き起こす。
『多分、俺の存在には気付いていないと思う。ただ、明らかな敵意をこちらに向けていた。それは、定くんに向けてだと思う』
「俺に?」
『アレが、彼女の声をーー言葉を押し留めているんだ。気持ちが昂って、溢れ出しそうな声を、無理やり押さえつけている感じだった』
実際にその場を見ていたタカハシと、それを伝聞しただけの定では、同じ情報を共有出来ているかはわからない。
ただし、タカハシの言った『気持ちの昂り』が定の言葉で呼び起こされたのなら、それがこの事態の解決の鍵になるかもしれないし、同時に事態を悪化させる引き金にもなり得るーーそう定は理解した。
人魚塚の伝説、知ってる?
放課後の教室で聞いた、凪原の言葉を思い出していた。あの日が落ち掛けた教室もまた、深海のような静謐さを持ち合わせていた。
あの時既に二人は、薄暗い深海の奥底へと沈み込んでしまったのかもしれない。




