【人魚編】魔女とあんまん
連日の夜更かしで頭の中に霞がかかっていた。
それは普段からあまり熱心に聞いていない数学の授業であれば尚更だ。そこに先週から稼働を開始したヒーターの温風が加わることで、嫌が応にも定を夢の世界へと引きずり込もうとするかのようだ。
夢と言えば、昨晩のあの「魔女」との出会いも、今思い出すと夢の中の出来事の様だった。
真夜中の空を飛翔する姿はファンタジーに登場する魔女そのものだったが、地上に降り立った彼女は小柄で弱々しい風呂上がりのチワワみたいな女性だった。
☆
あんまんを食べ終えると、彼女は溜まった疲れを絞り出すような長い溜息を吐いた。白い息が夜の闇を漂い、今目の前に立っている女性に現実感を与える。生活を感じるよれたコートの襟と、乱れた前髪。絵空事ではない、魔女はーー魔法は存在している。その事実に、定の胸は高鳴る。
しかし当の魔女はというと、面倒臭さと申し訳なさが入り混じったような視線を定に向け、もう一度さっきの言葉を繰り返す。
「私の魔法は、そんなに便利なものじゃないよ」
魔女は言葉を選ぶよう途切れ途切れに説明を始めた。
彼女の使う魔法の効果範囲は、ごくごく狭い範囲に限られるとの事だった。対象が「自己か非自己か」で、その「目的」が何であるかが発動の鍵になっていると魔女は言う。彼女の操る流派の魔法は「自分自身」を対象にしていて、尚且つ「他者へ干渉しない目的」のものでなければならないらしい。
「えっと、意味がわからないんですが」
抽象的過ぎて飲み込めない。味のないビスケットのように、頭の中の潤いを奪うだけ奪った挙句、脳幹のところに突っ掛かる。
「私が自分で楽をするために、自分自身が空を飛ぶ事は出来るけど、他の誰かを飛ばしたりとか、誰かを出し抜く目的で自分が飛んだりとか、そういうのは出来ないようになってるの」
「はあ」
「要するに、そう簡単に誰かを助けられるような魔法じゃない、って事なの」
魔女はカバンについているカボチャ頭のマスコットのキーホルダーを撫でた。その行為に何の意味があるのか定にはわからなかったが、何か強い思いのこもった行為のように感じた。そう感じるほど、魔女の表情からは慈愛と後悔と喜びと悲しみ、様々な感情が溢れているような気がした。
「あなたの魔法では、凪原を助けることは出来ない。そういうことですか?」
「うん、そう思う」
「何か方法はないですか? 俺、何だってします。お金ならバイトして払いますし、手元にも夏のバイト代が少しはありますから」
「お金の問題じゃないんだけどなぁ」
「俺には、他にどうする事もできないんです。あなたがダメなら、他の魔法使いの仲間を紹介してもらうとか……」
「いるのかな、私以外の魔女って、日本に。おばあちゃんの代には都道府県に2,3人はいたみたいだけど、今もいるのか全然わかんない」
「そっすか」
「ほんとにごめんね」
魔女は本当に申し訳なさそうに、小さな頭を深々と下げた。
向かい合って立つこの魔女が、とても小さい事に今更ながらに気いた。顔を上げた魔女の背は、平均身長である定の肩程までしかない。
魔法で空を飛ぶ魔女を初めて見た時、そこに人知を超えた強大な力と可能性を感じた。
しかし実際のところ、魔法は自分よりも小さなこの女性が日々の生活を円滑にこなしていくための、ちょっとした裏技のような技術でしかない。
この魔女は自分の身の程をわきまえて、その範囲の中で生きているだけの、ただの疲れた女性なのだろう。そんな彼女にこれ以上の負担や責任を負わせるのは、酷なような気がした。
納得は出来たが、何も事態は進展していない。そんなもどかしさを感じながら、定は魔女と別れた。
☆
気が付けば数学の授業は終わっていた。まったくと言っていいほど授業を聞いていなかったから、先生に指されなかった事は僥倖と言えるだろう。
昼飯の総菜パンを買いに立ち上がると、横目で斜め後ろの窓際の席を見る。そこでは普段通り眠そうな顔の凪原姫子が、机に広げたままの教科書を眺めていた。
そんな彼女の机に女子が座る。
姫子の前の席の女子と仲がいい、クラスのカースト上位の女子だ。夏休み明けは派手な茶髪で登校し、教育指導の先生に注意されてしぶしぶ黒く染め直していた事を覚えている。
女子は横目で凪原を見ると、唇の端だけで小さく笑った。
姫子はうつむいたまま何も言わない。いや、言えないのだ。
女子は反応を示さない姫子に対し優越の笑みを隠すことなく浮かべると、前の席の女子と今日の放課後の予定について話し始める。
姫子が言葉を発しなくなってから、たびたび見る光景だった。
姫子の失語は、精神的なストレスから来るものであると皆が認識していた。姫子自身が家庭の事を話すタイプではないため、そのストレスの原因を誰も推し量ろうとはしなかったが、担任がたまに彼女を労わるような素振りを見せるに、教師と親の間では何かしらの情報の共有がされているのかもしれない。
しかしそんなものは、大人同士の取り決めだ。
クラスの中には、いつも無表情なくせにたまにぐうの音も出ないほどの正論をぶつけてくる姫子に対して、反感を持ているものも少なからずいた。言葉という戦う武器を失った姫子に対して、ここぞとばかりに今までの恨みをぶつけ始める者も多かった。
そんな小さないざこざが姫子の周りで勃発するようになり、それは徐々にエスカレートしているようにも感じられた。単純な言葉での攻撃に、いつものような反論が飛んでこない事を確認すると、攻撃は徐々に物理的なものへと変わっているような気がした。
そんな姫子を黙って見続けている現状は、定の貧弱な心を錆びた鎖でぎりぎりと締め上げる。
自分が声を上げて攻撃を阻止する手も考えた。しかし起きてしまったこの潮流を押し止める力など、スクールカーストで下位に近い自分には無理なのだと冷静に分析している。いや、それは言い訳だ。結局のところ攻撃の矛先が自分に向くことを恐れる、情けない自分の本心が行動を制止しているだけだ。
己の保身を優先してしまう自身への嫌悪を紛らわすように、定は姫子を助ける手段を考え、未知の存在である魔女へと接触し、彼女に断られても尚、何か他の手はないのかと考え続けている。
「喜多代、鈴木さんのパンツ覗こうとしてんの?」
購買へ同行しようとやって来た友人が、定の視線の先を見てニヤリと笑う。姫子の机に座る女子の短いスカートから太ももが覗いていた。
「鈴木さんはやめた方がいいぞ。この前も茶髪にしてきて問題になってたじゃん。あれは俺たちみたいな陰キャとは違い生物だって。パンツ見たら大学生の彼氏さんに殺されるぜ」
「ちげーよ」
定は呆れて姫子の席から目を反らす。
再び姫子の席に目をやると、彼女はどこかへ消えていた。この寒空の下、教室以外のどこで昼を食べるのだろうか。そんな事を気にしながらも、結局彼女の事を何も知らない自分がもどかしくてしょうがなかった。
☆
『また、あの少年が居たりして』
夜風を受けながら、カバンにぶら下がったカボチャ頭のタカハシが言う。
『同じルートで帰るのは、しばらく止めといた方がいいんじゃないの?』
「えー、嫌ですよ。私、あのコンビニでコーヒーを買って帰るのが一日の中で一番幸せな時間なんですから」
『……悲しいな』
「ほんとにです」
今日は日付が変わる前に会社を出ることが出来た。布団にくるまりながらスマホで動画を見る時間だって捻出できるかもしれない。そんな心の余裕が、魔女――三浦ハナに少しばかりの感傷を呼び起こさせる。
それは自分が規則に従わず「他人」を対象に魔法を発動させてしまった過去。その結果不完全な状態で蘇ってしまったタカハシの事。『誰かを助けられる魔法じゃない』その言葉は、自分自身が身をもって経験し、今も胸につかえている事実だ。
魔法の定義は曖昧だ。
自分と他人、誰のための魔法なのか、そんなのは結局のところ発動者である自分の認識によって定められている。だから自分の一部と感じていたタカハシの心はこの世に定着させる出来たものの、自身の体と隔たりのある彼の体については、蘇らせる事は出来なかった。
やり方によっては、あの少年と、言葉を失った少女の力になることが出来たのかもしれない。
しかし、タカハシの時と同じ轍を踏むのは、絶対に嫌だった。
いつものコンビニに着地する。
いつものようにコーヒーを買い、いつもの店員の気の抜けた声を聞きながら、コンビニのドアをくぐる。
そこに昨日と同じように少年が立っていた。
「やっぱり、何かしないといけないと思うんです」少年は言う「俺は何もわからないし、何もできないかもしれない。でも、このままじゃ心が破裂しそうだから……力尽きるまで足掻かなきゃダメな気がするんです」
唖然とするハナに少年は頭を下げる。
「俺に、魔法を教えてください」




