【河童編】やっと会えたね
アパートの階段下で濁った空を眺めている。
今にも雪が降り出しそうなその空模様に、喜多代定は傘を持って来なかった事を後悔した。
まだ眠い目を擦って、周囲を伺う。怪しい人物の姿は、今のところ見あたらない。
金属製の階段が振動しながら鳴る。
視線を上げると、黒い二本の足が階段を下ってくるところだった。その付け根部分は、スカートの影になって見えない。
「あ、ごめん!」
定は目線を落とす。
申し訳ない気持ちに、少しだけ残念な気持ちが入り混じる。どっちともつかない、今日の空模様のようだ。
「え、あ……ううん」
階段を下っていた凪原姫子は、制服のスカートを片手で押さえて、ちょっと困ったように眉を顰めた。
「おはよう」同じ地面に立った姫子に並び、気を取り直して定が言う「なんか、位置が悪かったね……明日からはもうちょっと離れた位置で待つ事にするよ」
「そうだね」
「ご、ごめん」
肯定されると、また狼狽えてしまう。
「ううん、いいよ」姫子は小さく首を振った「私のために、わざわざ来てくれたんだし」
「それは、気にしないで」
むしろちょっと嬉しいしーーその言葉は声に出さずに心に仕舞う。そして定は、人もまばらな通学路を歩きながら、鋭い目で周囲を伺い始める。
☆
『やばい事になったかもしれん』昨夜急にかかってきた電話口で、類家勇は大きく溜息を吐いた『凪原サンの通ってる高校が、あいつにバレてるかもしれない』
「え、どういうこと?」
聞き返してはみるが、察しはついていた。あいつとは、あの『kappa』を名乗るファンに違いない。
『さっき、ねむこのチャンネルに高校名の書き込みがあった。T高校って』
「えぇ……」
『いや、単なる当てずっぽうかもしれんけどな。T高はこの辺りじゃ一番の進学校だし、高校名を適当にあげりゃ最初に出てきても不思議じゃない」
「そうかもしれないけど、やっぱり何かおかしいよ」
背筋に冷たいものが走る。
身に巻きついている布団の外は、暗く冷たい夜の世界だ。定は異世界に取り残されたような孤独を感じていた。
『俺が、なんとかしてみる』
「いや、でも、やっぱり警察とかに相談した方がいいよ!」
声の震えを抑えようと語気を強めると、思惑以上に強い言葉が迸り、定はそんな自分の声に驚く。
勇が警察の関与に難色を示す理由はわかっていた。学校の成績を落とさない事、面倒ごとを起こさない事を条件に、彼は両親から放任されている。
実際の罪のある無しに関わらず、不注意で面倒事に巻き込まれた事がわかれば、両親はなんの躊躇もなく勇の自由を奪い取るだろう。
それは即ち、この音楽活動の終焉を意味する。
半ば勝手に放り出し、孤独と背中合わせの自由を押し付けた上に、面倒が起きればその自由すら奪おうとする。
定はそんな勇の両親があまり好きではない。
ただ、今回は姫子の安全に関わるかもしれない。
二つの相反する『守るべきもの』に挟まれ、定は枕に顔を埋めると「ううう」と小さく唸った。
『俺に、考えがあんだよ』
「なに?」
枕から顔を上げる。吐息で温まった枕生地から顔を離すと、恐怖が再び頬を冷やす。
『例のkappaの正体を突き止めんだよ。やられる前に、こっちから奴の個人情報を丸裸にして、揺さぶりをかけてやりゃ――』
「そんな事、出来るのかよ?」
至極真っ当な定の問いに、勇は少しの沈黙の後、返す。
『親父のPCとかアカウントを使えば、あるいは……な』
吐き捨てるように放った勇の言葉、それが意味する感情を、長い付き合いの定は理解した。
確かに勇の父親が持つ権限を利用すれば、一般では把握出来ない深部まで潜る事が出来のだろう。詳しくは知らないし、知りたくもないが、勇の父親はそういった『階級』に存在する人間らしい。
しかし、それに頼る事は父親の持つ『理不尽』に平伏する事だ、そう勇は嫌悪していた。
いずれにせよ、そのジョーカーとも言うべきカードを切るか切らないかは、定が口を出すべき事ではない。勇が色々なものを天秤にかけて、判断するべき事だろう。
『お前は明日から、登下校時も凪原サンに付き添ってやれ。怪しい人物がいないか、危険な目に遭わねーか、目を光らせとくんだ。俺は……何がなんでも、あのキモオタの尻尾を掴んでやんよ』
決意の籠った勇の言葉に、定は頷く。
☆
とは言え、それから一週間は何のトラブルもなく過ぎていった。
登校時は校門そばまで一緒に歩き、そこから微妙に歩幅を狭めて距離を取る。一緒に登校している事を知られ、変な噂が立たないようにするためだ。首だけで振り返り不器用な笑顔を見せる姫子に、腰のあたりで小さく手を振りかえす。
長い足の先の黒いブーツが、朝日で溶けかけた雪に控えめな足跡をつけていく。その足跡を辿るように姫子の後を歩き、数メートル離れて昇降口を抜けた。
クラス内での姫子は相変わらず無口だ。
声が治ったとはいえ、他人からの接触を拒む氷の彫刻のような雰囲気は生来のものだ。
でも以前のような不安感はない。斜め後ろ、席を3つ分離れたところに座った定は、頬杖をついて彼女の横顔を見る。その画角の中に彼女を独り占めできることが、定は喜ばしくさえあった。
放課後、彼女は図書室に向かう。
友人と生産性のない会話を繰り広げていた定だったが、適当な理由をつけて一人だけ教室を抜ける。図書館で彼女と待ち合わせると、タイミングをずらして退室し、校門を過ぎたあたりで落ち合う。
「今日も、何も起きなかったね」
すれ違う人を訝しみながらも、姫子が呟く。
高校が特定された可能性がある事は、姫子にもやんわりと伝えている。不要な恐怖を与える可能性があるからと、最初は伝えるべきかはかなり迷ったが、一緒の登下校を申し出る現場をうまく説明できる理由が見当たらなかった。
2日目の登校時にその旨を伝えると、姫子は不愉快そうに眉根を寄せると「ふーん、そうなんだ」と心底つまらなそうに吐き捨てた。
不安と恐怖で表情を歪ませるものと思っていたが、ニュアンスが異なる反応に定は戸惑った。
1ヶ月前の人魚の一件が、姫子の中にある危機意識を麻痺させてしまっているのだろうか。
「定くんが、守ってくれるんだ?」
興味なさそうにそう尋ねるので、定は「そのつもりだけど」と頷いた。
「ふーん」
やっぱり素っ気ない反応だったが、心なしか唇の端が綻んだような気がした。
毎日ほぼ無言で、同じ道を歩く。
今日は曇り、昨日は雪、その前は少しだけ空に晴れ間が見えていた。同じ道ではあるが、一度として同じ景色はない。
「この土日は、出来るだけ家から出ないようにしよう。勇も、今週末は活動はしないで、kappaの身辺調査に時間を費やすって言ってた」
「本当にわかるの?」
「本気モードに切り替わった勇は、いつも期待に応えてくれる……気がする」
「それは、頼もしいね」
大きく溜息をついて、全く頼りにしてない素振りで言う。
「とにかく、来週いっぱいまでやってみて、ダメならチャンネルを削除するしかないと思う。警察にも、相談した方がいいかも」
「私は、単なる趣味の悪いイタズラだと思う」
「それだけなら、いいけど……」
言葉を濁す。定は怪異に取り憑かれ暴れ狂う姫子を見ているわけで、いわゆる『正常化バイアス』なるものはとっくの昔に無効化されている。
この世は、何が起こっても不思議ではない。
最悪も最高も、同等の可能性で起き得る。
そんな話をしていると、いつも通り姫子のアパートの前に着いた。階段を登る彼女の背中を眺めながら『今日も部屋に誘われなかったな』などと不謹慎な感情が湧き起こる。
もしコーヒー一杯のお誘いがあれば最高なのに――そう思うも、もしその最高が起こってしまえば、反動で最悪の事態だって当然起こり得るような気がする。
定はそんな世の中のままならなさに、深く溜息を吐いた。
☆
土日はゲームとマンガと、作りかけの曲を完成させて終わった。何の変哲もない、引きこもり気味な男子高校生のありきたりな休日だった。
勇からの連絡はまだない。
特に進展がなければ連絡はしないと言っていたため、こちらからあえて連絡して、成果を急かすような真似はしたくなかった。
特にする事もなかったので、布団に潜り込みスマホで動画配信サイトを眺める。
そう言えば、そろそろか。
『ねむこチャンネル』への『kappa』のコメントは、日曜深夜に書き込まれると勇は言っていた。
学校名まで言い当てられた今、これ以上のコメントはないものと思いたい。思いたいが、嫌な予感がすり傷から滲み出る血液のように、定の感情を赤い水滴で汚した。
祈るような気持ちで『ねむこチャンネル』を開く。
「マジかよ……」
そう呟いて、先の言葉を失う。
布団の中に産み落とされたその声は、暗い洞窟で唱えられた呪詛のように、暗く重く響いた。
『N県J市X町1−23くすのきハイツ204号だね。早く会いたいな』
定は震える指で画面をコピーし、地図アプリにペーストする。示された場所は、やはり姫子の住むアパートだった。
☆
歯磨きを終えた姫子は、ベッドに腰掛けて読みかけの本を広げた。
古本屋で買ってきた流行作家の恋愛小説。以前の自分なら見向きもしなかったジャンルの小説なのに、どういう訳か食指が動き、ついつい買ってしまった。
読み進めてみると、なんとなく心に染み入るような温かさを感じた。世の女性たちは、普段からこんな感情を抱えて生活しているのだろうか。
『俺が、お前を守るから……』
次々と降り掛かる不幸に主人公が諦めそうになるたびに、恋人はそう言って彼女を抱きしめる。
他人に守られるなんてごめんだね、と以前の自分なら鼻で笑っていたセリフに違いない。そう、誰かに寄り掛かる安心感を知らなかった、以前の自分ならばーー
スマホが鳴る。
表示された名前に、自分の心が見透かされたような気がして、意味もなく赤面してしまう。
「どうしたの喜多代くん、こんな夜中に」
電話の向こうの声は、焦った様子で、えっと、あの、と繰り返す。言葉を探しているのだろうか。
「ねえ、どうしたの?」
高揚していた気分も醒めてしまった。姫子は文庫本を枕に置いて、電話口の声に耳をすませる。
『あの、落ち着いて聞いてほしい』
「うん」
『あのkappaってやつに、そのアパートの住所が知られてる……』
「は?」
『チャンネルにそこの住所が書き込まれてたんだ』
最初、言葉の意味が理解できなかった。ゆっくりと言葉が溶けていくにつれ、姫子は視界が真っ赤に染まり、脳の奥がちりちりと火の粉を上げるような感覚を覚えた。
『ごめん、大丈夫?』
「う、うん」
『うちの人はいる?』
「お母さんが、隣の部屋で寝てる……」
『鍵を閉めて、絶対に家を出ないで』
「わかってるよ」
『とりあえず、俺、今からそっちにいくから』
「そんな、大丈夫だよ」
『アパートの周りをちょっと見回りするだけだから』
「でも!」強い言葉で断ろうとするも、先ほどまで読んでいた小説の一文が脳裏を掠める「――わかった、ありがとう、気を付けてね……」
『ああ。家の近くまで行ったら連絡するよ』
そう言って通話が切れた。
姫子はスマホを枕元に置いて、長い溜息を吐くと、部屋の明かりを落としてカーテンの隙間から窓の外を見た。
この家があいつに知られている……?
改めて思考を巡らせると、恐怖と窓を抜けた冷気によって背筋が冷たく震える。
外はまた雪が降り始めていた。
大粒の雪が舞い落ちる景色は、この街ではなんら珍しいものではない。誰かの溜息が空気を白く濁らせるように、降り頻る雪は灯のまばらな夜の路地を霞ませている。
街灯のスポットライトが、雪の粒を浮かび上がらせる。
その中に『何か』がいた。
200m程先の街灯の下に、人形の黒い影が佇んでいた。
黒い影と雪によって、その姿は中肉中背のシルエットとしてしか視認できない。唯一わかるのは、その頭頂部が街灯の光を小さく反射させているという事。
「河童……」
姫子は震える声で呟く。
吐息が窓ガラスを曇らせた。
河童は姫子の居る部屋の方をじっと眺めている。
目が合った、気がした。
姫子は勢いよくカーテンを閉め、窓を背にして頭を抱える。
この事を定に伝えようと思ったが、指が震えて画面をうまく操作できない。何度か操作を試みるが、諦めてスマホをポケットにしまう。
そして再び、カーテンの隙間から先ほどの街灯を見た。
そこには誰もいなかった。
ただ雪だけが、変わらずに空気を霞ませていた。




