【河童編】白く、斑らな雪国の冬
池の辺で悪さをしていた河童は、男にこらしめられ、町外れにある大欅の「うろ」の中へと逃げ込んだ。
『私はここで暮らします。この欅さえ切り倒さなければ、もう二度と現れません』
「うろ」の中はじっとりと湿り、腐葉土の匂いがした。カエルや虫、たまに逃げ込んでくる獣を養分としながら、河童は生きた。
長い年月が過ぎ、いつの間にか欅は切り倒されていた。
そして、河童も何処へと消えていた。
どこかにまた別の、じっとりと湿った「うろ」を見つけて住み着いたのかーー河童の行く末を知る者はいない。
☆
窓の外は雪が降っていた。
12月に入ると、雪の降る日も増えてきた。
夜通し降り続けた雪は、塊となって路肩に居座る。深夜に聞こえる地響きは、地震の前兆ではなく、夜通し除雪に追われる除雪車の音だ。その音を聞いて、喜多代定は本格的な冬の訪れを実感する。
土曜の午後。
昨晩から降り続けた雪は、小康状態のまま今も降り続いている。音楽活動仲間、類家勇の部屋の窓から、定は一向に降り止まない雪を眺めていた。
ポットのお湯で勝手に入れたコーヒーから、白い湯気が立ち上っている。雪と湯気、二つの白が交差する様を眺めながら、定は「冬」と「雪」に関する新しい曲の構想を練って、その詞をキャンパスノートにしたためていた。
視線を部屋の中へと移す。
壁にもたれて座り、ヴォーカルトレーニングの本を読んでいる凪原姫子の姿が目に映る。数週間前から、彼女も嫌々ながらこの活動に参加していた。
姫子の声が、日常に染み入っている。
声を失っていた日々や、1ヶ月前のあの出来事は、すべて秋の夜長に見た夢だったのではないかと、定は思う様になっていた。
それほどまで、彼女の声が、定にとってありふれたものに変わっていた。
「おい、見ろよ、コメント来てるぜ?」
動画サイトを覗いていた勇が、画面から目を逸らさずに手招きをしている。
『とってもステキな歌声でした! 次の曲も期待してます!』
勇の後ろに立ち、画面を覗き込んだ定は、初めて来たコメントに胸を躍らせた。
「ほたるちゃんの頃は泣かず飛ばずだったのに、ここに来て初コメントとは何となく癪だけど、まぁやったじゃん」
「何だろう、不思議な感覚だ。ちゃんと聴いてくれる人、いるんだね」
「登録者数も3桁に近付いてるし、前進はしてるっしょ」
「そうだね」
左肩に微かな息遣いを感じて、定は横目で斜め後ろを覗き見る。
そこには、目を見開いた姫子がいた。
メガネの奥の眠そうな目を大きく開き、PC画面に映るそのコメントを食い入るように見つめている。
蕾のような唇の端が小さく震える。
自分の歌が認めてもらえた喜びーーそれを必死に隠そうとする姫子の姿が、なんだか可愛らしく感じた。
「ーーそこでだ、ここで更にブーストをかけようと思う」
勇は唐突に画面を切り替える。
手書き調の細い線で描かれた、女の子のイラストが映る。
「これ、俺が描いたんだけどさ、よく描けてるっしょ?」
アイドルのような衣服を纏った、眠そうな目の女の子。それが姫子をモデルにしたイラストであると定はすぐに気付いた。
「これをさ、チャンネルアイコンに設定しようと思ってな。いつまでもその辺で撮影した風景画像じゃ味気ないべ?」
「おお! いいねいいね!」
勇は昔からイラストを描いていたので、この手の美少女の絵はお手のものだった。眠そう、どころか、完全に眠っているような目をしているもののーー顔の輪郭からパーツのバランスまで、姫子の特徴を上手くイラストに転換している。
定は満足そうに頷いて、姫子を見た。
そして、不満そうな姫子の表情を見て、瞬間的に表情を曇らせる。
「あのさ」
「ん、なんだい?」
「私の目、こんなに細くないんだけど」
「え、こんなだよー?」
「これじゃ完全に眠ってるでしょ」
「じゃあ、いつも完全に眠ってるんじゃないの?」
ニヤニヤと笑う勇と、氷柱のよう冷たい視線を向ける姫子。
定は、いい加減慣れ始めたこの2人の言い争いに溜息をついて、再び窓の外を見た。
雪は夜中まで降り続きそうだった。
☆
冬の夜は足早に忍び寄る。
路肩に押し固められた雪は、雪が降る度、夜が来るたびに固く大きくなる。茶色に変色したその壁の向こう側を、車がゆっくりと、重たい雪を弾きながら走り抜けていく。
定と姫子は、勇の家からの帰路を歩いていた。
歩道には、新たに降り積もった雪が、満遍なく敷き詰められていく。視線を先へと向けると、まばらなスポットライトに照らされた雪が、生き急ぐように舞い踊っている。
あの「人魚」の件が解決してから1ヶ月。
最初は嫌々だった姫子も、土曜午後の音楽活動には定期的に参加してくれるようになっていた。それは定への贖罪の気持ちが大きかったのかもしれないが、それだけでない様々な思いが、複雑に絡み合っているような気もしている。
『家にいるよりは、気が楽だから』
ふと漏らした彼女のそんな言葉から、定は簡単には消し去れない家族間のしがらみのようなものを感じていた。
姫子の事を、自分は何も知らない。
でも定は、そのことに対しての気負いも、焦りもなかった。こうして、再び彼女の歌を聴けるだけで、それだけで今は十分満足だったから。
ほぼ無言で歩く、雪道。
不意に、少し先を歩く定のコートの袖を、姫子が掴んだ。足を止めて振り向くと、姫子は雪が積もったコートのフードを外して、少し考え込むような仕草をした。
「どうしたの?」
「ううん、その‥‥、あ、喜多代くんの頭、雪ですごいことになってる」
「え? あ、ほんとだ、めっちゃ雪が積もってる」
癖っ毛のボサボサ頭の隙間に挟まった雪を、定は無理やり両手で払い落とす。
「少しは良くなった?」
「うん。一時凌ぎではあるけど」
言った側から、定の癖っ毛の隙間に、大粒の雪が入り込んでくる」
「ありがとう」
「うん‥‥。いや、それだけじゃなくて」そう言うと、姫子は一度深く頭を下げ、再び顔を上げる「これから、少し変なこと言うけど、驚かないで」
「どうしたんだよ、いきなりそんな」
姫子の前置きに、定は身構える。
「私の左肩に、何かがいるーーと思う」
「はい?」
それは荒唐無稽な発言だったが、1ヶ月前の出来事を思えば、一笑に付する事は出来ない。定は息をのむ。
「悪い感じはしないと思う。けど、この歌を唄うと、出てくるんだ」
そう言って、姫子は小声で童謡らしき歌を唄い始めた。その歌には、どこか聞き覚えがある。
「あ」咄嗟に姫子は歌を止め、自分の左肩を見る「やっぱり、何かを感じる」
「何も、いないけど?」
「ううん、私にも見えないんだけど、なんだか感じるんだ。重たいっていうか、圧迫感があるっていうか」
姫子の声は少し震えていた。1ヶ月前まで海で死んだ女の怪異に取り憑かれていたのだから、恐怖を覚えるのは当然だ。
「そっか」とは言え、何も見えないのだから如何ともし難い。定は目を凝らして、姫子の左腕辺りを睨みるける。
そして、違和感に気付く。
「あ、あれ?」
「どうしたの?」
首を傾げる定に対し、答えを促すように姫子は顔を近づける。
定は急に接近した姫子の顔に驚き、顔を背けた。舞い落ちる雪が頬に触れたら、一瞬で蒸発してしまうかもしれない。
「いや、なんだろう、雪がさ」気を取り直して、定は言葉を整理しながら話す「降ってくる雪が、凪原さんの左肩あたりだけ、少し揺れて見えるんだよ」
空から風に流され、直線的に落ちてくる牡丹雪。それが姫子の左肩の辺りまで来ると、小さく左右に揺れる。そして肘のあたりを過ぎると、再び直線的な動きに戻り、そのまま地面の雪と結合する。
姫子も、自分の左肩あたり落下してくる雪の挙動を凝視し、再び定へと向き直る。
「ほんとだ」
「でしょ?」
とは言うものの、触れようと手を伸ばしてみても、そこには何もない。ポケットから出した指の先が、少しずつかじかむだけだ。
そこにいるのに、いない存在。
定も、姫子も、それらを視認する力はまだない。
少し考えたあと、定は姫子の左肩を見ながら言う。
「今夜、夜中0時に家を抜け出してこれるかな?」
「あ、うん、大丈夫だけど、何で?」
首を傾げる姫子に、定は頷く。
「魔女さんに、相談してみよう」




