【人魚編】タカハシアタック
この街の空気を泳いでいた人魚は、小さな少女の歌声で泳ぎを止めた。
散らかった家具、飛び交う怒声、荒れ狂う冬の海のような荒涼とした部屋の片隅で、少女は耳を塞ぎながら優しい歌を口ずさんでいた。
少女の側には美しい表紙の絵本。人魚姫と書かれていたが、人魚は字が読めなかった。
人魚は少女しばらく眺め、そっとその隣に並んだ。
少女の歌う優しい歌は、人魚に過去の情景を思い起こさせた。今はもう遥か昔、自分がまだ人魚と呼ばれる存在ではなく、小さな島の漁村に住むただの女だった頃の記憶。優しい両親と、海の向こうに住む愛しい恋人を想い、いつも心が温かく満たされていた頃の記憶。
少女に人魚の姿は見えない。
人魚がその細くしなやかな指の先で、少女の柔らかな頬に触れる。少女は何かを感じたように歌を止めた。
呆けた顔で何もない空間を見つめる少女。
しかし、その目には何も映り込むことはない。目の前で繰り広げられる争いから目を逸らすように顔を伏せると、再び歌い始める。
人魚は少女の隣に座り、その優しくも悲しい歌声に耳を傾けた。
ずっと聴いていたいと思った。
何年でも、何十年でも――
「魔法よ、どうか私の願いを叶えて下さい」少女は震える声で呟く「どうか、お父さんとお母さんを、仲直りさせてください‥‥」
☆
その瞬間は――『痛い』よりも『熱い』だった。
左手に受けた衝撃によって、そのまま地面に叩きつけられる。転がりながら距離を取り、鋭い痛みを放ち続ける左腕に触れた。
ぬるっとした感触と、激痛。
破れた袖の奥で避けた肉が露出しているのがわかった。心臓の鼓動に合わせるように、痛みが強弱を繰り返しながらハナの左腕を襲った。
「タカハシさん! 血が‥‥血が‥‥」
ハナは動揺していた。
普段は危険や暴力とは無縁の生活をしているのだから、無理もない。自身の流血など想像したこともないのだろう。
取り乱すハナを制すように、鞄にぶら下がったタカハシは叫ぶ。
『三浦さん! 早く魔法で止血を――』
「あ、はい、あ、えっと!」
脳内麻薬的な物の影響なのか、腕の痛みは耐え難いほどのレベルではない。しかし左腕から流れ落ちる熱い血流の感覚が、ハナの現実感を狂わせていた。
『いや、まずは姫子ちゃんから距離を取った方が――』
「は、はい!」
枯れた芝生の上を辿々しく走りながら、ハナは飛翔の魔法を申請をする。走るたびに大粒の血が褐色の地面に跡を作り、それを見たタカハシは目眩を覚えた。あるはずもない胃が収縮し、軽い吐き気を催す。
姫子は果物ナイフに付着した血液を満足そうに眺めた後、ハナの血痕を辿って走り出した。
手負いの子鹿にはすぐに追い付き、弱々しくて小さな背中に向け果物ナイフを振り上げた瞬間、ハナの身体が宙に浮いた。
間一髪のところでハナの『申請』が通る。
姫子のナイフは空を切った。
『取り敢えず、少しは休める?』
「はい‥‥」
肩で息をしながらハナは頷く。
『ただ、こっちに手出し出来ないとなると、今度は定くんにターゲットを移すかもしれない』
「はい‥‥」
ハナは左の手首を強く握った。危機を脱した安堵感からか、左腕の痛みはどんどん膨れ上がり、すでに耐え難いものになりつつあった。
人間はどの程度の血液を失えば命を落とすのだろうか。徐々に忍び寄る死神の鎌が、自分の首に当てられているような気がして、ハナは寒気を覚える。
『魔法で傷を治せる?』
「治せますけど、同時に2つの魔法は使えなくて‥‥」
『地上に降りなきゃいけないって事か』
「――っつ!」
脱いだコートで傷口を覆い、右腕で圧迫して止血を試みる。映画で見た応急処置を真似してみたが、痛みが増す上、本当に意味があるのかはわからない。
足元を見下ろす。
姫子が、呆然とハナを見上げている。
目が合った。夜の闇ですら取り込みそうな程、暗く沈んだ目だった。
同意はできない。
生前の彼女がした事に同意はできないが、その悲しみには共感を覚える。
もしタカハシを再び失ってしまったら、自分はきっと同じ目をするに違いない。
頭がぼんやりする。
血を失いすぎたのかもしれない。
『三浦さん、俺に考えがある』焦って空回りしそうな感情を抑えながら、タカハシは言う『まず、止血が最優先だ。姫子ちゃんから離れたところに着地して、傷を治そう』
「でも、それじゃあ、定くんが――」
『そこでだ、こんな感じで相手の気を引く事はできない?』表情のないプラスチックの顔だから、出来るだけ柔らかい声で微笑みを表現する。
肩で息をするハナの鞄でゆれながら、タカハシは身を焼くほどのもどかしさに震えていた。
本来であれば自分の身を挺してでも守りたい最愛の恋人が、傷つく姿を見ている事しか出来ない苦しみ。脳の奥がチラチラと赤熱する様な感情の暴走を、形而上的な奥歯を噛み締めて堪える。
自分が動けないのなら、せめて最愛の人の矢となり、盾となりたかった。
タカハシの語った案に、ハナは表情を曇らせる。
『――出来る?』
「出来るかもしれないですけど、それじゃタカハシさんが‥‥」
『危険だと思ったら三浦さんの判断で戻してもらって構わない。俺だって、三浦さんの役に立ちたいんだ』
ハナは答えない。表情のないタカハシの顔に滲み出た、その言葉の真意を読み取ろうとしていた。
『前に、三浦さんが発注をミスっちゃった時の事覚えてる?』タカハシは生前の記憶を辿る『あの時、業務に携わってなかった俺まで課長に呼び出されて、どーでもいい事までめちゃくちゃ怒られたよね』
「あ、うん」
唐突な話題の転換に、ハナは首を傾げる。
『あの時、俺は嬉しかったんだよ。他の誰でもない、俺が三浦さんの矢面に立って、課長のパワハラから守る役割を得られた事が』タカハシは笑った。心では笑ったつもりだ『こんな俺だけど、せめて大切な人くらいは守りたい。自分が守られるよりも、守りたいんだ、三浦さんを。だから、お願い』
長い沈黙の後、ハナは頷いた。
「‥‥うん」
『よし、じゃあやってみようか。名付けて、タカハシアタック』
「ははっ、名前、適当ですね」
思わずハナは吹き出す。
『気楽にいこう』恐怖心を無理やり隠して、タカハシは軽口を叩いた。
☆
魔女は遠く離れた遊具の方へと降りていった。
それでいいんだ、と喜多代定は思う。魔女の左腕が裂け、血が飛び散った様を見て、定は自分が巻き込んでしまった禍根の深さを痛感した。
そもそもなぜ自分は、こんな抜き差しならない事態に陥っているのだろうか。ただもう一度、凪原さんの歌を聴きたかっただけなんだけどなーーそして、定は溜息を漏らす。
些細な願いの代償があまりにも大きく、定はこの事態の収支に対して半ば諦めの感情を抱いていた。せめてこれ以上誰も傷付かず、再びいつもの日常が戻ってきてくれれば、もうそれでいい。
魔女さん、上手く逃げて下さい。
そう、願う。
風が吹き、落ち葉が舞った。
枯れ果てた小さな願いのように、乾いた音を響かせながら舞い上がる落ち葉の向こうで、目を見開いた姫子が定を見つめている。
定はつま先で茶色い地面を叩く。
少しばかりだが、疲れは癒えた。このまま走り出し、先程のように彼女を煙に巻いて、家に閉じこもって震えて眠ろう。
自分ごときが、手を出すべきではなかった。
関わるべきではなかった。
望むべきではなかった。
定は姫子に背を向けてーー
『たすけて』
声にならない、姫子の叫びを聞いた気がして、定は振り返った。
姫子が笑う。
偽りの笑みを浮かべている。
その横顔に何かが衝突し、彼女はよろめいた。
☆
自分の魂をハナが『自己』と判断できるなら、自分も彼女の魔法の範囲内なのではないか。
霊体である自分の身体であれば、姫子の身体を包むあの怪異の肉体にも、物理的に干渉出来るのではないか。
そして姫子には影響を与えない「怪異のみへの干渉」であれば、ハナの魔法のルールである「他者へ影響を与えない」の範疇にギリギリ収まるのではないか。
そんなタカハシの予想は的中し、姫子の身体を傷付けることなく――大きな干渉を与える事なく、怪異のみに打撃を加える事が出来た。
宙に浮かぶカボチャ人形。
それを操るのは、離れた場所から姫子を見据える社畜の魔女。




