表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/21

【人魚編】暗く静かな冬の公園

 人魚はこの街の空気を泳ぐ。


 この街で生きる人々の願いや夢、喜びや哀しみが作り出したうねる海流を漂いながら、失意の中で命を落とした女は、いつしか人魚と呼ばれる存在へと変わっていた。


 傷付いた心は、同じように傷付いた誰かの心に寄り添うことで癒されていく。

 幸せな思い出は、誰かの幸せと分け合うことでよりその強度を高めていく。


 この街と一体となりながら、かつては小さく哀しい灯火の一つでしかなかった女は、伝説の人魚へと姿を変えていった。



   ☆



 喜多代きたしろさだめは走っていた。


 冷たい空気が肺の隅々まで浸透し、肺胞を凍みさせる。ある映画で、マイナス30度の空気の中を走り続けた女性が、凍りついた肺から出血し命を落とすシーンがあった。まだ氷点下にすら達していない空気でこの有様なのだから、マイナス30度の空気がどれほどの痛みをもたらすのか、想像するだけで恐ろしい。


 背中に衝撃を受けた際に地面にスマホが転がってしまったが、それを拾っている余裕などなかった。前のめりに倒れそうになる身体をそのまま前身のベクトルに変え、定は走り出していた。


『今の姫子ひめこちゃんは、多分姫子ちゃんじゃない』


 そんな魔女の言葉がなかったら、おそらく自分は姫子の姿を借りた何かに押し倒されていたかもしれない。


 走りながら、振り返る。


 街灯の下、姫子の姿を借りた何かは両手を伸ばしながら、走り去ろうとする定を怪訝な顔で見つめていた。細い首を傾け、セルフレームいっぱいに両目を見開いたその顔は、いつもの眠そうな目の彼女とは明らかに異なる雰囲気を纏っていた。


 なんで逃げるの?

 そう訴えかけるような表情だった。


 定は追い立てられるような恐怖を感じた。暗く静かな冬の雪道に、真っ赤な彼岸花が咲いているような異質な存在。そこに留まり続ければ、自らが飲み込まれてしまうそうな雰囲気の歪み。

 止まりそうになる足を必死に動かして、定はその恐怖から逃れるために、走り続けた。


 無我夢中で走り続け、住宅街近くの開けた公園に辿り着く。

 人通りが多い場所を目指して走ってきたつもりだったが、人が闊歩する時間帯はとうの昔に過ぎ去っている。住宅街ではなく駅の方を目指すべきだったと後悔するが、これから別方向へと走り出す体力は残っていない。


 ただ、姫子の姿を借りた『何か』からは逃げ切る事が出来たようだった。意図して縦横無尽に走り続けたのだから、後を追うあいつを完全に巻いたはずだ。


 足を止め、細く長く白い息を吐き出す。


 公園の隅、暗い宇宙に浮かぶ恒星のように、闇に浮かび上がる自販機。そこに売っていたホットカルピスを買って、悴んだ両手を温めた。昔の歌の歌詞だが、熱い缶コーヒーを『100円玉で買える温もり』とはよく言ったものだ。

 ただし現代ではワンコインで買えないのが残念ではある。


 そんな軽口を頭の中で反芻しながら、乱れた自分の感情と、唐突に歪められてしまった現状を整理し、安定させる。


 ペンキの剥げかけた木製のベンチに腰掛けると、ズボン越しに冬が叫び声を上げたが、徐々に火照った体温と折り合いをつけていった。


 姫子の身に一体何が起こっているのだろうか。


 普通ではない彼女の様相を改めて思い返すと、寒さとは違った忌避すべき感情によって、定の肩が小刻みに震えた。

 おそらくーーいや確実に、あれは彼女の背後に取り憑いている『人魚』の仕業だ。侵食されたとか、精神を乗っ取られたとか、おそらくそういう事なのだろう。


 両手で握りしめたホットカルピスの蓋に額を当てて、小さく唸る。


 事態はより良くない方向へと向かっているのかもしれない。霊体のような存在が肉体の自由まで奪い始めたら、定のようなただの一般人には手の出しようがない。

 

 あの魔女なら何とかできるのだろうか。

 

 情けなくて涙が出そうだが、もはや定には何の打つ手もなかった。

 

 自分の肩ほどまでしかない小柄な女性の、困ったような笑い顔を思い出す。そもそもこれは定の個人的な戦いのはずなのに、なぜあの魔女は自分に手を貸してくれるのだろうか。

 考えた末、戸惑いながらも強く頷く彼女の姿が瞼の裏に残った。きっと単純な話だ。自分の持つ異能の『魔法』で救える人がいるのなら、手の届く範囲だけでも救ってあげたい。彼女はそんなどこにでもいる普通の『優しい人』なのだ。

 お腹が空いている人がいればパンを半分差し出す。喉が渇いている人がいれば一杯の水を、そして異能の存在には異能の力でーー


 物音がした。


 枯れた草を踏み締める音。


 遠くからは国道を走るトラックのクラクション、背後からは枯葉が風で転がる音、そして正面からは渇いた音が徐々に近づいてくる。


「マジかよ‥‥」


 定の前に背の高い女が立っていた。

 髪は乱れ、眼鏡はずり落ちている。Tシャツの裾は捲れ上がり薄い腹部が露出している。


 冬空の下には似つかわしくないーーまるで落葉の隙間から茎を伸ばした一厘の白い水仙のように、凪原なぎはら姫子ひめこは立っていた。


 一台の乗用車がヘッドライトを煌々と光らせながら、住宅街へと消えていく。

 冬の夜中、こんな誰もいない公園で、向かい合う男女の存在を気に留めるような人はいない。仮に気付いたところで、単なる逢瀬だと目を逸らすだろう。


 姫子の顔は恍惚で歪んでいた。


 まるで求め続けたきらびやかな宝石に手を伸ばすように、姫子は両手を伸ばして、ゆっくりと定に歩み寄る。

 唇の端から唾液が溢れ、滴る糸が街灯の明かりを受けて微かに煌めく。それを拭うこともせぬまま、姫子は定に向けた両手の指先を小刻みに振るわせた。


 頬が上気し、目尻がだらしなく垂れ下がっている。いつもの半開きの瞼の奥で、瞳孔の開いた眼球が濡れている。


 それは明らかに、定の知る姫子ではなかった。


「お、お前が、人魚なのか?」震える声で定は尋ねる「何で凪原さんをこんな目に合わせるんだ‥‥?」


 姫子は答えない。

 唇を舌先で湿らすと、大きく開いた。その中は夜の闇を凝縮し詰め込んだように暗く、軟体動物のような舌が艶かしく蠢いている。 

 

 そして、定の顔に食らいつくように、その闇の塊を定の唇へと向かわせた。


 反射的に姫子を突き飛ばす。


 バランスを崩し後ずさった姫子は、再びゆっくりと顔を上げた。ずり落ちたメガネの後ろの、熟れすぎて腐った果実の様だったその表情はーー霜にさらされた柿のように、冷たく凍りついていた。


「あ」


 短い悲鳴を発する定。そんな定の真上に、姫子の右手が振り上げられる。

 ベンチから立ちあがろうとする定は、その手に月明かりに輝く物を見た。

 安っぽい果物ナイフ。

 ただ、勢いよく振り下ろされれば、定の体の自由を奪い、心までも失わせる事が可能な、薄い金属の板。


 身をかわそうと上体を捻る。


 左足がベンチにあたり躓く。


 視線を上げる。


 ナイフが右目に迫る。


 ――しかし、姫子の身体は大きく跳ね上がり、枯れた芝生の上を転がった。


「え‥‥」


 目を見開き固まっていた定は、目の前の小さな影に気付いた。黒いスーツと、子供みたいな真っ黒の髪が、夜の闇に溶けている。


「魔女さん‥‥」


「定くん! 早く離れて!」


 姫子に体当たりした魔女ーー三浦みうらハナは、地面に転がる姫子を睨みつけながら、ゆっくりと立ち上がった。



   ☆



 勢いで姫子に体当たりをかました事を、ハナは後悔していた。

 あの状態で彼女の凶行を止めるにはああする他なかったが、彼女を突き飛ばしてしまった事で明らかに『他者に影響を与えてしまった』。

 立ち上がりつつも、身体の感覚から自分にかけた身体能力向上の魔法が解けている事を把握する。

 申請内容の違反。

 却下された申請書はシュレッダーにかけられた。


 どうしよう。


 中腰のまま、拳を握って顔の前に持ってくる。テレビで見た格闘家の真似っこをしてみたものの、このポーズになんの意味があるのかわからない。


 再び同じ『身体能力向上』魔法を申請して、承認されるのだろうか。

 仮に承認されたとして、他者に影響を与えない制限の中で、身体能力向上だけでこの場を切り抜けるなんて器用な真似が、自分に出来るのだろうか。

 いやそもそも、他者に影響を与えない事を『自分に課して』魔法を発動させているのに、その遵守に自分自身で疑念がある状態では、魔法を発動させる事は出来ないはずだ。


 顔の前に置いた2本の細い腕が震える。


 でも、何もしなければ、きっと定の命が奪われる。彼が理不尽に命を失えば、きっと彼の周りの誰かも心を壊すだろう。タカハシを失った時の自分のように、そに誰かはこの世界に生きる意味を失ってしまうかもしれない。

 

 そして、哀しみは連鎖していく。


 自分には魔法があった、希望があった、だから今こうして生きていられる。でももし、その希望さえなかったら、今自分は息をしているのだろうか――

 

 もう誰にも、そんな思いはさせたくない。

 

「定くん、早く逃げて」


「いや、でも、魔女さんも一緒に」


「私はここで足止めするから! 2人で逃げたって、直ぐに追いつかれる!」


 言って、なんだこの死亡フラグ、とハナは笑いが込み上げてきた。極限の緊張感で締め上げられて、頭のネジがバカになったのかもしれない。


 立ち上がった姫子は、服にこびりついた芝生を払うこともせず、真っ直ぐににハナを見る。


 左右に首を振ると、外れかけていたメガネが地面に転がった。その後ろに隠れた刀剣のように鋭い眼は、紛れもなくハナに向けられている。


 ハナは息を呑む。


 姫子が歯を食いしばると、下顎が小刻みに震えた。霊体を見ることが出来るハナの目には、姫子を包むブヨブヨの怪物が、骨格を歪めんばかりに顔を引き攣らせている様が映る。

 

 激しい怒りの表情だ。


『三浦さん、ターゲットがこっちに変わったっぽい‥‥』


 ポケットに入れたタカハシが言う。


『多分だけど、三浦さんの事を、生前の彼氏の浮気相手と勘違いしてるんじゃないか‥‥?』


「そんな、誤解なのに‥‥」


『説得に応じるような状態じゃない』


「わ、わかってますよ」


『とりあえず、魔法をーー』


 その瞬間、姫子はハナの直ぐそばにいた。

 さっき対峙した時の愚鈍な動きはおそらく本調子ではなかった。姫子との融合が進むにつれて、身のこなしが機敏になっている。この速さなら、定が全力で逃げたところで確実に捕まるだろう。


 ナイフが振り下ろされた。


 ハナの左肩から腕にかけて、激しい血飛沫が舞う。 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ