【人魚編】愛と哀で歪む
時々、恋の終わりの夢を見ることがある。
夢の中のタカハシはまだ人間の姿をしていて、ハナの部屋のソファーに神妙な顔で座っている。
お互いが適度な距離感を把握している、良く言えば気の置けない関係、悪く言えば既に発展のない停滞した関係。
夢の中のハナは、タカハシの言葉を待っている。
どんな言葉を期待しているのかは自分でもよくわからない。ただその言葉は期待とは程遠い、耳を塞いで聞こえない振りをしたい程、怖く悲しい言葉なのだろうと心のどこかでわかっている。
唐突な別れなどない。
別れは潮が引くように、ゆっくりと確実に、互いの心の距離を引き離していく。
タカハシの口が動く。
しかし、その言葉は聞こえない。
ハナの目からは涙が溢れた。タカハシが一度死んだ時と同じくらいの、熱く頬を焼くような涙が流れる。
ハナは首を振り、何度も問いただす。
自分がどれだけタカハシを愛していて、いかにタカハシのいない人生が無価値なのか。それなのになぜ、なぜ私たちは別れなければならないのか。
納得なんて出来るわけがない。
しかしタカハシは神妙な面持ちのまま、泣きじゃくるハナをただ見つめるだけ。
ハナがどんな言葉を並べようとも、その表情を変える事はない。
言葉を尽くすハナの心の中に、やがて薄暗い感情が芽生え始める。
その言葉はあまりにも自分勝手で、傲慢で、救いようのない醜い言葉だ。吐き出した瞬間に、タカハシは自分を軽蔑し、心の溝はより深まるだろう。
しかし、言わずにはいられない。
差し出した言葉の右手をタカハシが振り払うのなら、今度は言葉のナイフを、深く彼の胸に突き立てる他ない。
そうしなければ、自分の言葉はタカハシの心に届かないのだから。
「だって、私がタカハシさんを生き返らせたんだよ!」ハナは叫ぶ「すごく辛かったのに、タカハシさんのために頑張ったんだよ!」
タカハシは表情を変えない。
「なのになんで、私のものになってくれないの!?」
そこでハナは目が覚める。
呼吸が苦しく、喉がチリチリと傷んだ。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる事で、自分が眠りから覚めたのだと気付く。
最後の言葉、それが寝言として漏れていないか不安になり、ソファーに寝転がるカボチャ頭の人形に小声で呼びかける。
返事はない。
おそらく、まだ眠っているのだろう。
ハナは激しく打ち鳴らされる心臓を宥めるように、羽布団を口元まで上げ、何度も深呼吸をする。
視線の先の、カボチャ頭の愛しい恋人を見ながら、瞳を湿らせる涙の跡をパジャマの袖で拭った。
夢で良かったと安堵する。
でもその反面、この夢の未来に辿り着かない保証など、どこにもないと思い知らされる。
ハナの照れた愛の言葉に頬を赤らめるいつものタカハシ。
同じ言葉を叫んだところで、表情を変えずに空虚な目で自分を見つめる、そんな未来のタカハシを想像するとハナの胸は恐怖で締め付けられた。
それはハナにとって、自分の人生を放棄してもどうでもいいと思えるほどの、深い洞窟のような喪失感だった。
☆
首に巻き付いた指を引き剥がそうと、ハナは凪原姫子の親指を掴んで力を込める。
しかし、全く動かない。
万力か何かで締め上げるように、ハナの首を掴むその指の力はどんどん強くなっていく。
姫子の細い指に、半透明の青白く腫れた指が重なって見えた。
彼女を覆うこの肉塊は、姫子の魂と徐々に同化を始めているのかも知れない。似たような悲しみを持つもの同士、惹かれ合い、混ざり合い、お互いを補い合う。
現代を生きる少女と、人魚と呼ばれるようになった過去の女。二つの悲しみが溶け合っていく。
そこで違和感。
自分の首を掴む半透明の指に感じた違和感。
その違和感が、薄れていく意識の中で花火のように弾け、その衝撃でハナは目を覚ました。
姫子の指を掴んでいた手を放し、膝を曲げ、両足を内側に丸める。腹筋は3回がやっとのひ弱なハナだが、魔法による身体能力の向上が、いつもの自分では考えられない動きを可能にしてくれる。
両足の裏を姫子の胸部に当てて、思いきり足を伸ばした。手の力同士なら敵わないが、手と足の勝負なら、ひ弱なハナの脚力でも勝ち目がある。
姫子の腕が引き伸ばされ、その指がハナの首から離れた。
ハナは転がりながら距離を取ると、激しく咳き込みながら上半身を起こし、姫子を見た。
姫子の胸部を足蹴にしたことで「他者に影響を与えない」という魔法のルールを逸脱した懸念があったが、今のところ魔法による身体能力向上は解除されていないため、ギリギリのところで許容範囲に収まったと思われる。
汚れた靴底で姫子の服を汚してしまったり、ましてや姫子に怪我をさせてしまっていたなら、確実にルールを逸脱していただろう。
何の影響もなくこの危機を回避できたことはまさに奇跡だった。
『だ、大丈夫、姫子ちゃんはまだ動いていない、今のうちの呼吸を整えよう』
冷静を装ってタカハシが言う。内心では激しく動揺しているのが、ハナにはわかる。
「う、ん‥‥」
胸に手を当てて、深く息を吸い込もうとする。緊張状態だった横隔膜を無理やりに上下させると、自分が呼吸によって命を長らえている事を、否が応でも意識させられる。
『呼吸が落ち着いたら、急いで逃げよう。足の速さなら、今の三浦さんの方が確実に早い。きっと姫子ちゃんは追いつけないから』
「え、あ、うん‥そうですね‥」
ハナはゆっくりと立ち上がり、姫子を見た。
彼女は先ほどの場所から動かず、呆然とした様子でハナの方を見ている。
その目からは何の感情も読み取れないため、次にどのような行動に出るか想像もつかない。再び歩み寄り首を締めてくるかも知れないし、ハナが姫子に背を向けて走り出した瞬間、山で遭遇した熊のように全力で追いかけてくる可能性もある。もしかしたらそのまま踵を返し、家へと戻っていくのかもしれない。
田舎町の深夜の市道。
アパート前の砂利の通路に佇む姫子と、そこから10メートルほど離れた細い路地に立つハナ。
緊張で唾が飲み込めない。
口の中で粘つく塊になって、喉の入り口で引っかかっている気がする。
背後から吹いてくる風は、海の匂いを含んでいる。
数多の死骸と、数多の命を内包する、仄暗い液体から漂う匂いは、嗅ぎ慣れているはずなのにどこか不気味な臭いにも感じられた。
やがて姫子はおもちゃに興味を無くした子供のようにハナから目を離すと、ゆっくりとした足取りでどこかへ向かって歩き出す。
臨戦体制から緊張が解けた瞬間、ハナの足は強風に晒されたススキのように激しく揺れ始めた。立っている事すら難しく、その場にへたり込む。
「待ってーー」
その小さ囁き声は、冬の風に流され消えた。
押し込めていた恐怖が全身を支配し、本能が現状からの逃亡を強く望んでいた。
ハナは人に暴力を振るわれた経験はない。ましてや異質な怪物に首を絞められた事などあるはずがない。ハナの口腔から突き刺さった恐怖の杭は、胴体を貫通し彼女の身体を地面に打ち付けていた。
やがて姫子は彷徨うように、どこかへと消えていった。
『大丈夫?』出来るだけ優しく、ゆっくりと、恐怖の刃で皮膜を剥ぎ取られたハナの心にそっと触れるように、タカハシは問いかける。
「大丈夫、もう平気、です」
ハナはゆっくりと立ち上がる。
冬だと言うのに、インナーの背中が汗でじっとりと濡れていた。
『やっぱり、これ以上関わらない方がいいよ』
「で、でも」
『ネットで検索すれば、こういうの怪異の専門家がいるかも知れない。定君にはそういう人に相談してもらおうよ』もちろん、そういった輩には依頼主を騙して金を巻き上げる事が目的の無能力者もいる。しかしタカハシはこれ以上、ハナを危険な目に合わせたくはなかった『三浦さんは確かに霊が見えるし、魔法も使えるけど、こんな争いが平気で出来る人じゃないだろ?』
「は、はいーー」
そう頷いた時、ハナは先ほど首を絞められた時に気付いた違和感を思い出した。
あの手は、どこかがおかしかった。
人魚塚伝説として語り継がれる、海で命を落とした女性。その怨念が彼女に取り憑いているのだと、ハナ達や、おそらく姫子本人もそう思っている。
しかしそうであれば、あの手には違和感がある。
何かが、おかしい。
ハナは自分の手を見た。
何の装飾もない、小さな子供のような手。いつかタカハシとペアリングするのが夢だったが、それはおそらくまだ先になるだろう。
「指輪だ‥‥」
『指輪?』
「そう、指輪ですよ。あいつの指にはうっすらと、指輪が見えていました。霊体となっても再現されているのなら、多分ものすごく思い入れが強い指輪」ハナは何度も頷く「それに、人魚塚伝説の時代には、指輪をするなんて習慣はなかったはずですよ」
『えっと、つまり、あいつはーー』
「人魚塚伝説の女性なんかじゃない」鞄にぶら下がったタカハシを目の前に持ち上げて、ハナは頷きながら言う。
ハナは以前調べた近隣の水難事故の情報を思い出していた。確か一人だけ、若い女性がいたはずだった。その女性は確か、別れ話のもつれから交際相手の男性を刺殺し、その直後に自らも海へと身を投じた。
「交際相手を、殺害ーー」
ハナは考える。
もし海から身を投げた彼女が、死んだ直後の魂のままでこの世を彷徨っているとしたら、それは交際相手を殺害した精神状態を引き継いでいると言えるだろう。
頭の中は、愛する人に対する歪んだ愛情で一杯のはずだ。
だとしたら、そんな彼女が向かう可能性がある場所は、殺してしまった元交際相手のもとか、あるいはーー
精神が融合しつつある姫子が、慕情を寄せる相手のところ?
「もしかしたら、定君が、危ないかも知れない」
『え、なんで?』
「もし定君のところに姫子ちゃんが現れたら‥‥それは定君にとって最高なーーでも同時に最悪の事態だ」
『どう言う事?』
戸惑うタカハシを再び鞄にぶら下げると、ハナは走り出した。




