予期せぬ来訪者
不意に額にひんやりした感触を覚えて、一葉は目を開けた。クラークが一葉の額を触っていた。
「起こしたかな」
クラークは手を引っ込める。
「ううん。ちょうど、起きたところ。…シアンは?」
一葉はまだだるさの残る身体をベッドの上で起こした。
「昨日帰ったよ。一葉が寝てから」
「そっか。…ありがとう、クラーク。シアンを呼んでくれて」
「少し苦しそうだったから。司祭は痛みを緩和させる魔法が使えるから呼んだだけだよ。だいぶ熱も下がったようだけど、今日は寝ていなさい」
「もう、平気だよ…」
「まだだめだ。今日は家から出ないように」
クラークに強く言われ、一葉は、はあ、とため息を吐いて「…わかった」と短く答えた。
「素直だな」
「いろいろ迷惑かけたから…」
「それは殊勝な心掛けだ。何か食べたいものはあるか?」
「えっと…」
おかゆが食べたいと一葉は思ったが、それはここの料理人は作れないだろう。
「リゾットが食べたい」と一葉は言った。
「わかった。水は?」
「…そういえば、喉乾いた」
一葉が喉を触ると、クラークは水差しからコップに水を入れて一葉に渡した。一葉はごくごくとそれを飲む。もう一杯お替りして、それも飲み干した。
「ちょっと、トイレ行ってくる…」
「では、私はリゾットをつくるよう伝えるから、すぐにベッドへ戻っていなさい」
「うん。わかった」
まだだるい体を動かして、一葉はトイレへ行った。いぬくんがじっとついてきて、また部屋へ戻ってベッドへ入った。一葉はいぬくんをベッドに入れて横になる。
「いぬくん、置いてきぼりにしちゃってごめんね」
「くるるる」
一葉はいぬくんを抱きしめる。獣臭いにおいはしないが、どことなく動物的なにおいが微かにした。それも懐かしい感覚だ。
「今度はずっと一緒だよ。たぶんね」
いぬくんが一葉に身を寄せる。ドアがノックされた。
「どうぞ」
「一葉さま、起きられたんですか?」
「メアリアン。おはよう」
一葉は眼鏡をかける。部屋へ入ってきたメアリアンは、いつもの紅茶を持ってきてくれた。一葉はベッドの上で体を起こして紅茶を飲む。
「あー…。やっぱりメアリアンの紅茶はおいしい」
一葉はほっとして大きく息を吐いた。メアリアンは部屋のカーテンを開けて、日当たりをよくしてくれた。
「向こうにはおいしい紅茶を入れてくれる人はいなかったんですか?」
「うん。自分で入れてた」
「まあ」
メアリアンが驚いて目を丸くする。
「あれ…私がどこへ行ってたか聞いてるの?」
「詳しい場所は知りませんけど、遠くへ行ってらしたとヴァレンタインさんが」
「あ…うん。そうだね、遠くに行ってた」
行きも帰りも一瞬だったため、行くのに時間はかからなかったのに、とても長い間あちらにいた気がした。
みちるはうまくやっているだろうか。シリウスも。アーウィンもメリッサさんも、どうしているだろう。
「帰ってそうそう熱を出すなんて、無理をされたんでしょう。ゆっくり休んでくださいね。ご主人様もお食事がさっぱり楽しくないみたいで、一葉さまがいないと無口でさっさと食べてさっさとお部屋へ戻られるし。ヴァレンタインさんが話しかけられても素っ気なくて」
「クラークが?」
意外だった。一葉がいなくても、彼は何も変わらないと思っていたのに。
「そうですよ。一葉さまがいないとどこか退屈そうでした。ご主人様にとって、一葉さまは大事な家族なんですよ」
「…そう、なのかな」
にっこりと微笑むメアリアンに、一葉は首を傾げた。それはどうだろう。でももしそうなら嬉しいかもしれない。一葉は素直にそう思った。
「失礼するよ」
ドアがノックされて、返事も待たずにドアが開く。リゾットをトレイに載せてクラークが運んできた。
「まあ、ご主人様! 言ってくだされば取りに伺いましたのに」
メアリアンは慌ててクラークへ駆け寄る。
「大丈夫だよ」
「ですが…」
「一葉には私がついているから、大丈夫」
メアリアンはクラークにそう言われ、一葉を見てからにっこりと微笑んだ。
「承知しました。では、失礼いたします」
そう言ってメアリアンは一葉の部屋から出て行った。
一葉は紅茶をサイドテーブルに置く。
「ありがとう」
「どういたしまして。出来立てだから熱いかな」
「うん。冷ましながら食べるよ」
一葉はベッドの上でリゾットを受け取り、まだ熱いリゾットをふうふうと冷ましながら食べる。量はいつもより少なめなようだ。少し控えめに作ってくれたのかもしれない。今はこれくらいがちょうどよかった。
「おいしい」
「よかった。伝えておくよ」
クラークはベッドのそばに部屋にある椅子をもってきて座った。一葉がリゾットを食べるのをじっと見ている。
「…じっと見られてると、落ち着かない」
一葉は体温が上昇するのを感じた。これはきっと風邪のせいだと自分に言い聞かせる。
「これは失礼。では、窓の外でも眺めていようか。それとも本でも読んだほうがいいかな?」
「別にいいけど…。クラーク、お仕事行かなくていいの? もう出かける時間過ぎてるみたいだけど」
リゾットを食べながら、一葉は時計を指さす。ここにあるのは振り子時計だ。時間も1日は24時間、半日は12時間だ。これはどこの世界でも変わらないらしい。
「遅れると言ってあるから大丈夫。私は一葉から話を聞かないと、仕事に行けない身でね」
「あ、そうか。ごめん。すぐ食べる」
「ゆっくりでいいよ。病人に焦らせるのはよくないからね」
一葉が食べている間、クラークは家で食事がとても静かだったことを話した。ラスティも一葉がいないのが物足りなく思っているようだと一葉に聞かせる。
「私がいないから、外に出かける口実がないとか言ってたよ」
リゾットを食べ終えて、一葉はサイドテーブルにトレイを置く。
「これが薬。3日分あるから飲んでおくといい」
サイドテーブルに会った粉薬を一葉は飲んだ。錠剤になっていない薬を飲むのは久しぶりな気がした。水を飲んで、一葉はふう、と息を吐く。
「メアリアンにお茶のお替りを持ってきてもらおうか」
「あ…うん」
クラークが呼び鈴を鳴らすと、すぐにメアリアンが来て紅茶のお替りを持ってきてくれた。
「おいしい。やっぱりメアリアンの紅茶が一番」
「光栄です」
メアリアンは微笑んで、一葉の食べ終えたリゾットを持って部屋を出て行った。クラークも紅茶を飲んで「おいしいな」と微笑んだ。
「それじゃ、コルディアに行ってた間の話をするよ」
「疲れたら、無理しないで眠っていいから」
「大丈夫。ちょっと長くなるかもしれないけど。あのね…」
一葉はコルディアに行ったのはカインの力ではなく、青の賢者の力で一瞬で移動できたということにして話をした。ジョーカーはいつでも使えると思われないほうがいい。
コルディアについてから、侍女という名の側室候補としてなんとか城へもぐりこんだこと、みちるはシリウスを超獣に見立てて居場所を確保したこと、一葉はアーウィンの侍女として働いたこと、召喚士として魔物を狩りに行ったときに襲われたこと、そしてオスカーがマーティンをそそのかして国王を殺そうとしたジャックたちと通じていたことを話した。
「…そうか。やはり、あの少年はオスカーとつながっていたか」
ぬるくなった紅茶を飲み干してクラークはカップを
「やはり…っていうことは、知ってたの?」
「知っていたというか…。まあ、こちらもいろいろ調べているからね」
クラークは意味深に微笑んだ。
「そっか。せっかくコルディアに行ってもあんまり役に立たなかったね」
「そんなことはないよ。確証はなかったから。あの少年はおそらく、レスタントの人間ともつながっているだろう。それもそう身分の低くない人間と。一葉も気をつけなさい。絶対に一人で行動しないように」
「うん。でも、いぬくんもいるし」
一葉はベッドの中で丸くなっているいぬくんを撫でる
「超獣がいてもだ。何があるかわからないから」
「うん。…気を付ける」
一葉は神妙な面持ちでうなずいた。オスカーに殺されると思ったあの恐怖はまだ消えていなかった。
「じゃあ、後はゆっくり休みなさい。おとなしくしているんだよ」
「うん。わかった」
一葉が横になると、クラークが一葉の頭を撫でる。そして一葉の頬に手をあてた。
「冷たくて気持ちいい」
一葉はくすくす笑った。
「そうか。まだ熱があるのかもしれないな」
クラークも微笑む。一葉は目を閉じてクラークの手に自分の手を重ねた。
「ここにいるのが一番安心する」
「それは何より」
「………」
「………!」
そこへ、誰かの叫ぶような声が聞こえてきた。何を言っているのはかはよくわからないが、女性の声のようだった。
「…誰か来たの?」
「さあ…。誰だろうな。ここへは来ないと思うが…」
クラークはドアのほうを振り返る。そこで、いきなりドアが開いた。
「…こんなところにいたのね」