おかえり
クラークは右手をあげた。一瞬、はたかれるのかと思って一葉はぎゅっと目を閉じた。けれどその手は一葉の頭の上に置かれた。
「おかえり」
やさしい声に、一葉は目を開ける。
「よく無事で帰ってきたね」
「あ…」
一葉は視界がにじむのを感じた。絶対責められると思っていたのに。そして、ぼたぼたと涙がこぼれた。
「うっ…」
こらえきれずに、一葉はしゃくりあげて眼鏡を押し上げて顔を両手で覆った。
「うーっ…う、うう、うえっ…」
なんでこんなに涙が止まらないのか、自分でも理由がわからなかった。
「陛下、申し訳ございません。一葉はコルディアから戻ったばかりで疲れているようですので、御前を失礼させていただきたいと思います」
国王は笑って「まあ大体話は聞いたからな。よかろう」と片手をあげて許可した。
「行こう」
「ひっく、ひっ…う、うっ」
一葉はクラークに肩を抱かれて、玉座を出て行く。
ヴァレンタインが一礼して玉座の扉が閉まった。
「まさか、いきなり泣かれるとは思わなかったな」
「だ、だって…ううっ、う」
必死に涙をぬぐいながら、一葉は足元にまとわりつくいぬくんに気づいた。
「くるくる」
「あ、い、いぬくん…ただいま」
「どんなときでも私の後をついてきて、困りものだったよ」
「あはは…。ごめん。私がそう言ったからだね」
一葉は顔をぬぐって、足元のいぬくんを抱き上げる。
「…お嬢様、お顔が真っ赤ですね」
「え…」
ヴァレンタインに言われて、クラークが一葉の額を触る。
「…熱いな。熱があるみたいだ。客間で少し休ませてもらって…」
「やだ」
一葉はクラークにしがみついた。
「うちに帰る。うちに帰りたい」
「…わかった」
クラークはふっと息を吐いて一葉の濡れた頬を撫でた。
「ヴァレンタイン、一葉を送って…いや、私が送ろう。ヴァレンタイン、ブラッドに私は所用で帰ると言っておいてくれないか」
クラークにそう言われ、ヴァレンタインは微笑んで「承知いたしました」と答えた。
「い、いの…?」
「普段真面目に仕事をしているから、これくらいいいだろう」
クラークにそう言われ、一葉は戸惑いながらうなずく。いぬくんを抱いて馬車に乗ってスペンサー邸へ向かった。
馬車の中でクラークは何も言わず、一葉の肩を抱いていた。クラークによりかかりながら、一葉は落ち着かない気持ちで口を開いた。
「クラーク、あの…」
「話は後で聞くから。今は休みなさい」
「…うん」
身体がだるい今は、そう言ってもらえるのが嬉しかった。膝の上のいぬくんも心配そうに一葉に頭をすり寄せる。
「…そうだ、シアンにも、帰ってきたって、伝えなきゃ…」
「それも後にしなさい」
「うん…」
一葉は目を閉じた。馬車の揺れの中で、いつの間にか眠っていた。
次に一葉が目を覚ましたのは、誰かの話し声がしたときだった。
うっすら目を開けると、一葉のベッドの横にはシアンが座っていた。ほかには誰もいない。気のせいだったのかな。
一葉は自分がいるのが自分の部屋のベッドだとわかり、安堵した。
「…シアン?」
「あれ、目が覚めた?」
シアンはにっこり笑って一葉の額を触る。
「まだ熱があるね。知らない場所でずっと気を張っていて、疲れたんでしょ。今は何も考えないで眠るといいよ」
「うん。…でも、どうして?」
一葉はぼんやりした頭でシアンをみつめる。
「俺がここにいるのはどうしてかってこと? クラークが呼んだんだよ。医者は熱を下げるけど、司祭は痛みをとることができるからね。医者の診断は風邪だって」
「…そう、なんだ」
意外な気がした。
一葉の記憶では、クラークはシアンが苦手だった気がしたが、でもつきあいのは長いのだから、気にするほどではないのかもしれない。
「体の痛みもだいぶいいでしょ?」
「あ…うん。さっきより、だるくない」
「よかった。魔法が効いてるんだよ。でも、熱は下がってないからおとなしく寝てなきゃいけないよ。何か食べたいものはある?」
「ううん。今はいい…」
一葉はほうっと息を吐く。食欲はなかった。不意に外から雨音が聞こえた。
「雨、降ってる…?」
「さっき降り出したんだよ。今夜はずっと降っているかもね」
「そっか…」
一葉は窓のほうを見る。
カーテンが閉まっていて外の様子はわからないが、雨の音が遠くに聞こえて耳に心地よかった。もう外は暗いのだろう。小さな電気がついている部屋は薄暗い。
「喉は乾いてない? 水もあるよ」
「…少し、飲みたい」
シアンは少し体を起こした一葉に、サイドテーブルにおいてあるコップに水差しの水を汲んで飲ませてやる。飲み終わると一葉はまた横になった。
「さっき、誰かいた?」
「クラークだよ。一葉の様子を見に来たの。でも、一葉が眠ってるからすぐ出て行った」
「そう…」
「よく帰ってきたね、一葉。おかえり」
「うん。…ただいま」
シアンに微笑まれ、一葉も笑みを返す。
「じゃあ、ゆっくりおやすみ」
「…シアン」
「ん?」
シアンは一葉の顔を覗き込む。
「私が寝付くまで、ここにいて」
「いいよ」
シアンは微笑んで一葉の髪を撫でた。一葉は目を閉じる。
ああ、私、帰ってきたんだね。




