シリウス
「父上にお話しされたのですか?」
「そう。だからジョンはついて来ないことになった」
セオドールが得意げに言う。一葉はそりゃあ国王陛下から言われれば逆らえないよな…と思ったが、黙っておいた。権力はさらに上の者に使わせれば効果的だ。
それでもジョンはグリフォンの小屋までついてきて、心配だ、自分がいなければ、と言ってきた。しかしブラッドが危険な目には遭わせないと確約させられ、なんとかジョンをその場にとどめておくことができた。ラスティがブライアンに何か持ってこさせてそれを道具袋に入れていた。
「いきなりセオドール様も来られると聞いて、驚きましたよ」
ブラッドはセオドールとグリフォンに乗りながら言う。一葉はニールに乗せてもらい、ラスティは一人で乗っている。空の旅は風が涼しいがやはり快適だ。今日も登山用に靴や服を着替えての出発だ。
「5匹しかいないグリフォンに3匹も乗れるのは、許可がいりますからね」
ニールが一葉を前にしてブラッドに答える。
「迷惑をかけたなら、すまない」
「まったくだよ」
一葉が唇を尖らせる。
「おまえが言うな」一葉をラスティがにらみつける。「兄上、寒くはございませんか?」
「大丈夫だよ。防寒用のベストも着ているし。ラスティは心配しすぎだよ」
「あんたが弱いからでしょ」
一言余計なことを言う一葉をラスティはにらんだが、一葉はそっぽを向いていぬくんを撫でた。
アストリー山で狼のいる洞窟の近くへグリフォンをつなぐ。
「兄上、ここからすぐです」
「そう…。よかった」
「まさかもう疲れたなんて言うんじゃないでしょうね? グリフォンにちょっと乗ったくらいで」
一葉が呆れたように言うと、「そんなことはないよ」とセオドールが困ったように笑った。
「兄上は身体が弱いんだから、疲れやすくて当然だ。もっと気遣え」
「だったら来なきゃいいのに」
一葉は聞こえないように顔をそらしてぼそりとつぶやいた。
「何か言ったか?」
ラスティがじろりと一葉をにらむ。
「別に。さあ行こうかいぬくん」
「くるる」一葉が先頭に立って歩き出したので、ニールがすぐに続く。ブラッドはラスティとセオドールを先に行かせて、後から洞窟の中へ入った。狼が暴風で吹き飛ばしたままになっている洞窟は、あちこちに岩や瓦礫が落ちている。皆それを避けながら奥へ進んだ。
「洞窟と言っても、暗いんだと思ったらそうでもないんだね」
「昨日は暗かったんだよ」
「あの狼がものすごい風を起こしたせいで、通路と入り口が広がったんです」
「そうだ、あの杖も回収したほうがいいだろうな」
「杖って?」
<…また、おまえたちか>
生あたたかい息とともに、直接頭に語り掛ける声が響いた。セオドールはぎょっとして足を止める。
「な、何?」
「あれが話題のでかい狼よ」
「ひっ…」
セオドールは金の瞳を光らせる巨大な狼を目にして、後ずさった。
ブラッドが後ろに立って「大丈夫ですか?」とセオドールを支える。
「へ、平気だよ」セオドールは足を一歩前に踏み出した。
「確かに巨大な獣ですね…」ニールも狼の大きさに戸惑っているようだ。
<何をしに来た? 我をいよいよ殺しに来たか?>
挑発的な狼の物言いに、「そんなことはしない」とラスティは安心させるようにやさしく答える。
<まあそうだろうな。あの女も我を封印するだけで精一杯だった>
「あの女とは?」
物怖じしないで尋ねるラスティと獣を、セオドールは不安げにみつめる。
<…おまえに語ることはない>
「こんなところに一人でいるんだ。しゃべる相手もいなくて退屈だろう? いいじゃないか」
ラスティがそう言うと、狼は深い息を吐いた。
<我の力をもってすれば、おまえたちなど簡単にひねりつぶせるのだぞ>
「そっちがすごいのは昨日でわかったけど、こっちにはいぬくんがいるんだからね!」
一葉は足元のいぬくんを狼に見せつけるように持ち上げた。
「超獣って言わないとわからないだろうが」
「ああ、そうそう。超獣」
ラスティに言われて一葉はうなずいた。
<超獣…>再び狼は深い息を吐く。<我をここへ封じたのは、超獣を連れた異世界の女だ>
「マジで?」一葉は目を丸くした。
「ということは、三百年前にも超獣使いが来ていたのか?」
ラスティがさらに尋ねた。
「しかし、なんで文献には残っていないんだ?」
ブラッドはニールを振り返る。
「確かに不思議ですね。千年前の記録は残ってるのに…」
<…三百年。我が封じられてから、それほどの時が経ったか…>狼は目を細めた。<それではもうあの女も生きてはいまいな>
一葉はふと疑問を口にする。
「三百年も生きてるなんて、すごくない? 寿命が何年あるの?」
「あのな、封印されるとその時点で時間が止まるんだ。その状態のまま生きているから、空腹で死ぬこともない。だからこの狼は生きているんだ」
「へえー。そうなんだ」一葉は感心して何度もうなずいた。「封印てそういうことなのね」
「空腹で思い出した。もう三百年も何も食べていないんだろう。これを持ってきた。ブラッド」
「はい」
ブラッドは腰に付けた道具袋から何か包みを取り出した。包みから出てきたのは肉の塊だった。結構な大きさで、1キロはありそうだ。
「これ、ベーコン?」
「なんでこんなものを…」
一葉とセオドールがのぞき込んだ。
「あいつの前へ」
「はい」
ブラッドは狼の前へベーコンを置いた。
<…なんだ、これは>
「獣だから、肉は好きだと思っていたんだが…。もう何年も食べていないんだろう? 食べないか?」
狼はラスティが置いたベーコンの塊の肉の匂いをかいだ。そしてじっとそれをみつめる。
<…毒など入っていないだろうな>
「そんなものを入れる必要がないだろう。おまえはどうせここから動けないんだ」ラスティはベーコンの塊をちぎって口に入れる。「ほら。うまいぞ」
狼は黙ってベーコンの塊に舌を伸ばし、舐めてから口に入れて噛んだ。ごくりと飲み込んでから、鼻息を吹いた。
<…久方ぶりの食事だ>
「そうか。それはよかった。よければ、もっと持ってくるぞ」ラスティは微笑んだ。
<…食べ物で我を懐柔しようというのか>
「気に入らなかったか?」
<単純だ。単純だが…。悪くない>
ラスティが聞くと、狼は目を細めて笑ったように見えた。
「あ、そうだ。昨日の杖ってどこにあるんだろ」
「くるるる」
一葉が地面を眺めると、いぬくんが場所を示すように石や土の塊の下にあった杖の上に飛んで行って鳴いた。
「ああ、ここね。さすがいぬくん」
一葉は上になった瓦礫を除けて、大きな杖を取り出した。
<…それで何をする気だ?>狼は警戒したような声で聞く。
「またあんたにこれをぶっさそうなんて気はないから。持って来いって言われただけ」
「では、俺が持ちましょう」
ニールがそう言ってくれたので、一葉は自分の身長よりもある杖を渡すと、ニールはそれを落としそうになった。
「うわ、お、重い…」
「え?」一葉は驚いて必死で持ち上げようとするニールから、杖を取った。
「そうかなあ?」重さはあるが、地面につきそうになるほど重くはない。
<それは魔素を持つものの魔力を吸う杖だからだ。異世界から来た超獣使いには魔素がないから、ただの杖にすぎない>
「へえ~。そういうことなんだ」狼の説明に一葉は杖を振りまわす。「だから私には簡単に杖を取れたんだね」
「少しは話してくれないか。何故、おまえはここに封印されているんだ?」
狼は黙り込んで目を閉じた。そして両足に顎を乗せて黙り込む。
「だんまりか」
「なんでそんなに言いたくないの? まあ三百年も一人で封印されてたんだから、嫌な思い出には違いないんだろうけど…」
<…我は人間に騙されたのだ。愚かな過去を思い出したくない>
ラスティと一葉は顔を見合わせる。
「では…そうだな。おまえの名はなんという?」
<…我の名、だと?>
狼は再び目を開けた。
「そうだ。俺はラスティだ。ジョージ・ラスティという」
「私は一葉。で、こっちがラスティの兄貴のセオドール」
一葉に言われてセオドールは小さくうなずいた。さらに一葉は続ける。「こっちのでかいのがブラッドで、隣がニールね」
ブラッドとニールはとりあえず「そうだ」と肯定する。
「俺たちが名乗ったから、おまえも教えてくれないか?」
しばらくの沈黙の後、狼は静かに<…シリウス>と答えた。
一葉は、そういえばラスティに会ったとき、先に名乗れとか言った気がするなあ…とぼんやりと思い出していた。
「へえ、いい名前だな。おまえの光る目みたいだ」
「言われてみれば、そうだね。黒い狼の金色の目が空の星みたい」
シリウスはぴくりと耳を動かしたが、それ以上何も言わなかった。シリウスとは確か星の昴のことではなかっただろうか。
「もう行こうよ。彼は何も話す気はないみたいじゃないか」
しびれを切らしたらしいセオドールがラスティの肩をたたいた。
「あんた、結局何しに来たのよ」
一葉がセオドールを見て、ため息を吐く。
「何しにって…」
「ラスティは、こいつとお友達になりたいって来てんでしょ。この前のジェフリーの件といいさあ。あんたは興味があってきたんじゃないの? さっきから何も言わないし聞きもしない。なんなの、一体」
セオドールは口を結んで黙り込んだ。
「兄上は予想以上に大きいシリウスを見て驚かれたんだ。だから帰りたくなっても仕方ないだろう」
「あんたに通訳頼んでないんだけど」
一葉はラスティを顔をひきつらせて見た。
「うるさい。兄上、ご気分が悪くなられたなら、先に外へどうぞ。俺はもう少しここにいますから」
「…そうする」
「では、俺も行きます。ニール、ラスティ殿下を頼む」
「了解です」
ブラッドはセオドールに先立って歩き出した。一葉はそれを見て肩をすくめる。
「まったく、あんたはお兄ちゃんに甘いわね。おおらかと言えばそれまでなんだろうけど」
「兄を弟がたてるのは当然のことだ。それに兄上はここまで一緒に来てくれたんだから、俺はそれだけで満足だ」
<兄弟か。…おまえはどこかの貴族の出か?>
ラスティの話し方で気づいたのか、シリウスが聞くと「そうだ」とラスティは答えた。
「貴族どころか、こいつはこの国の第二王子様よ」なぜか一葉がふんぞり返って答えた。「で、さっき出てったのが皇太子さま」
<王子…>シリウスは喉の奥で笑ったようだった。<我をここへ封印せよと言ったのももう何世代も前の王子だったな>
「え? そうなの?」一葉は目をぱちくりさせた。
「何故だ?」
<さてな…>シリウスは金の瞳を光らせる。<我が邪魔だったのだろう。何度も我を殺しに兵士を派遣してきたぞ。そのたびに蹴散らしてやったがな>
「…それは」ラスティはぎゅっと握りこぶしをつくった。「すまなかったな。だが、何か理由があったんだろう?」
<理由を作るのは人間の性分だ。理由がなければ我を殺そうとはできないからな>
シリウスが笑っているのがわかった。それは自嘲しているような笑いに聞こえた。
<人間はいつもそうだ。人間とは自分と違うものを排除し、人間同士でも自分と違うものを排除しようとする。他者との違いを認めることができんのだ。まったく理解しがたい生き物よ>
「…排除されるのはつらいな。確かに、おまえの言うとおりだ」
<ほう。おまえにわかるのか?>
「俺は王の子だが、母親は平民の出だ。貴族の中ではそれによって言いがかりや差別するものもいる。だからわからなくはない」
シリウスはしばらく、黙り込んだ。そして、大きく息を吐いた。
「…疲れたか? 長く話したから」
<いや…>シリウスは目を細めた。<おまえは面白い>
「そうか。俺もおまえと話すのは面白いぞ」
ラスティがそう言うと、シリウスは喉の奥でまた笑った。
<三百年前の超獣使いも、我を面白いと言った。…その女が我を封印したのだがな>
「その超獣使いは、なんだか知らないけど資料が残ってないんだよね。シリウス、彼女のこと知らない?」
<封印された後のことなど、我が知るはずもなかろう>
シリウスの答えに「そりゃそうだ」と一葉は一人でうなずいた。
「おまえ、本当はこの洞窟全部壊せるほどの魔法が使えるんだろう。なのに、それをせずにここにとどまっている。何故だ?」ラスティは洞窟の周りを指した。
<…この鎖がある限り、我はここから移動できぬ。それだけだ>
「そうなのか? 俺は、おまえがこの山の生き物を驚かせないようにそうしているのだと思った。違うか?」
<買いかぶりすぎだ>
シリウスはそれ以上話す気はない、というように地面に置いた両足の上に顎を乗せた。
「…明日、はだめだな。明後日、また来る。そのときはおまえが封印された理由を話してくれると嬉しい」
ラスティの言葉に、シリウスは無言だった。「行こう」とラスティは一葉とニールを促して、洞窟を出て行った。一葉は長い杖をずるずると引きずりながら持ってきた。いぬくんがその周りをうろうろする。