壁の向こう側
「はあ…。なんというか」
「…個性的な家だね」
ラスティと一葉はジェフリーの家を見上げてそうもらした。
「言葉を選ばなくていいぜ。寝床があるだけましなんだ、ここは」
「…そうなのか」
ラスティは苦い表情をする。ジェフリーはそれを素通りして、家のドアを開けた。
「ただいま」
「兄ちゃん…あれ、そっちは…」
さきに帰っていたハリーは、一つのベッドでいっぱいになっている部屋の中に女性と二人でいた。小さな古びたテーブルには古い木の椅子が3つ。
粗末な台所は干からびた野菜がいくつか。どこかにしまってあるのか、鍋も見当たらない。
「あら、ジェフリーのお友達? ずいぶん、立派な身なりをしている子ね」
「いやそこでちょっと知り合っただけ」
「そう。初めまして、ジェフリーとハリーの母親のドナよ。今、お茶でも…」
「いや、いいよ。すぐに帰ってもらうから」
「まあ、どうして? いいじゃない、ゆっくりしていってもらいなさいよ」
母親はやさしそうなオレンジ色の髪の女性だった。この世界はずいぶんいろんな髪色をした人がいるものだと一葉は感心した。染めているのだろうか。それとも、地毛なのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えていると、母親は台所に立って戸棚の下からやかんを取り出して、かめの中に入れてある水を入れて、緑色の石の上で湯を沸かし始めた。
「あの石の上でお湯が沸かせるの?」
「当たり前だろう?」
ジェフリーは一葉の質問の意味が分からないようだ。
「魔石で精霊の力を使うんだ」
当然のようにジェフリーとラスティに言われ、ううん、と一葉はうなった。
「魔石って冒険者ギルドにもあったけど、同じもの?」
「純度は違うだろうな。家庭で使うものはぐっと魔石の純度が低いものだ。精霊の力を借りて火を使う」
「普通、ファンタジーの世界だと、お湯を沸かすのにかまどに薪を入れて火をつけたり…」
「そんな面倒なことする奴は、精霊の加護がないやつだろ。冬は暖炉に薪をつけて部屋はあっためるけどな」
「ああ…そうなの」
「ハリー、いらっしゃい」
「うん」
ドナに手招きされ、ハリーは母親のそばに歩み寄る。お湯を見ていて、と言ってドナはカップを用意する。
「いい、ハリー。おまえは外にいろ。俺が見ているから」
「でも、兄ちゃん…」
「またやけどすると危ないだろ」
「あら、そんなこと…」
「外へ行ってこい。ミッキーと遊んでろ」
ハリーは母親と兄を交互に見たが、うなずいて家を出て行った。
「…どうして?」
ドナは怪訝そうにジェフリーに問う。
「俺の客だ。俺が面倒見るのは当然だろ」
「…そうね」
ドナはうなずいて、お湯が沸いたと言って野草のお茶を入れてくれた。一葉とジェフリーとラスティは、とりあえず椅子に座ってお茶を飲んだ。
カップは古びていたが、飲めないものではない。お茶も野草を乾燥させたもので、おいしくはないが不味くもなかった。
「そろそろ買い物の時間ね。おかあさんは出かけるけど」
「ああ。いってらっしゃい」
ドナは買い物袋を持って家を出て行った。ふう、とジェフリーは息を吐く。
「普通のおかあさんじゃない」
一葉がお茶をふうふうと吹きながら飲む。
「…今日はな」
「日によって違うのか?」
「いつ、どう実行しようか考えてるんだ」
「? 何を?」
「…さあな」
「言ってくれないとわからないんだけど」
「言ったら、俺らを救ってくれるのか?」
「それは、何とも言えないなあ。できない約束をできるとは言えないのよ、私。正直だから」
一葉がそう言うと、ジェフリーは「そうは見えないけどな」と皮肉気に笑った。
「救えるとは言えないが、聞いてみないと何ができるかもわからないだろう」
ラスティにそう言われて、ジェフリーはお茶を飲み干して、乱暴にカップをソーサーに置いた。
「いや…いいんだ。あんたらをここに連れてきたのは、ただの俺の八つ当たりだ。もう忘れてくれていい」
「痛い!」
一葉が突然、叫んだ。そして頭をさすり始める。
「あー痛いなー。さっき誰かに殴られた頭が痛いなー。何か事情を聞かないと、治らないような気がするなー」
「おまえな…」
ジャフリーが顔をひきつらせると、突然家のドアが開いて、ミッキーが走りこんできた。
「ミッキー?」
「ジェフリー、大変だよ! ハリーが!」
「ハリーがどうしたんだ? おまえと一緒だったんじゃ」
「すぐ来て!」
「…わかった。おまえらはここにいろ」
「待ってよ」
「一緒に行こう」
「…勝手にしろ」
とどめおくことはできないと思ったのか、ジェフリーは強くは言わなかった。3人はミッキーに続いて、家を出て駆け足でハリーのもとへ向かった。
案内されたのは、井戸の近くでドナが「大変よ!」と叫んでいた。周りに人が集まって大騒ぎしている。
「母さん、どうしたんだ?」
「ハリーが井戸に落ちてしまったのよ! ああ、どうしたらいいの!」
「っ…!」
ジェフリーは歯噛みして、すぐに井戸の中を見た。子供の泣き声が聞こえる。
「ハリー! 無事か!」
「にいちゃあああん!」
返事が聞こえたことに、ジェフリーは安堵した。
「今、助ける!」
ジェフリーは井戸の桶につかまり、周りを振り返った。
「頼む! みんな、ハリーを助けてくれ!」
「お願い、みんな、ハリーを助けて!」
ドナが泣きながら叫んだ。
周りの大人たちが集まってきて、井戸の中のハリーまで届く縄梯子を近所の中年の男が持ってきてくれた。
「これを使え」
「ありがとう」
ジェフリーたちは井戸の中へ縄梯子をそろそろと下ろす。
「ハリー、つかまれ。絶対離すなよ、引っ張るからな!」
「わかったあ…」
ハリーが縄梯子につかまったのを確認すると、中年男がみんなに縄梯子を押さえてもらい、縄梯子を下りてハリーを引き上げて助け出した。
「げほ、げほっ…」
「ハリー!」
「ああ、ハリー! 無事でよかった!」
ドナはジェフリーを押しのけてハリーを抱きしめた。ハリーはびしょぬれになり、泣きじゃくっている。
「もう、どうして井戸に上ったりしたの? 落ちるってわかってるでしょう?」
「ごめんなさい…」
ハリーは俯いて小声で謝る。
「ハリー、気を付けるんだぞ」
「本当に。お母さんを心配させちゃだめよ」
「ドナだって、気が気じゃないだろうに」
周りの大人たちが口々に言う。
「みなさん、本当にありがとう。ジェフリー、お礼を言いなさい」
「…ありがとうございました」
母親にせがまれ、ジェフリーはみんなに頭を下げた。大人たちは気にするなと言ってくれたが、ジェフリーはずっと苦しそうな顔をしていた。
「ドナ、ハリーを着替えさせたらうちへおいでよ。ちょうどあったかいスープを作ったところだったしね。もちろん、ジェフリーも」
知り合いらしい恰幅のいいおばさんがドナに声をかけた。
「ありがとうございます。ハリー、一度うちへ帰りましょうね」
「うん…」
びしょぬれのハリーは、母親に抱かれて家路へ急ぐ。ジェフリーはそれを黙って見送った。
「井戸に落ちるなんてね…」
「ずいぶん不注意だな」
「そうじゃない」
ジェフリーは一葉とラスティに否定を告げる。
「ハリーは自分で井戸に落ちるような馬鹿じゃない。母さんが突き落としたんだ」
ジェフリーはミッキーを振り返る。
「そうだろ?」
「…うん」
ミッキーはこわばった表情でうなずいた。
「…母親が虐待してるってこと?」
人がまばらになったところで、一葉がぽつりと聞く。
「そんなんじゃない。そうだったら、話はもっと単純なんだ」
「どういうことだ?」
「あの人は…そういう人なんだ。いつも誰かの気を引かないと気が済まない…。自分を犠牲にせずにみんなから同情されたいんだ。父さんが死んでからずっとだ」
ラスティと一葉は顔を見合わせる。ジェフリーの言うことは二人には理解しにくかった。
「それなら、ジェフリーたちはお母さんと離れて暮らすのは? 児童養護施設みたいなところはないの?」
「あるにはあるが…」
「俺とハリーが一緒にいられる施設があるならいいけどな」
ジェフリーが自嘲気味に笑った。
「あ…そうか。別々に預けられる場合もあるわけ」
「…辛いな」
ラスティがそう言うと、「同情なんかいらねえよ」とジェフリーはそっぽを向いた。
「もう、おまえらは帰れ。ミッキー、ハリーを見てやってくれ。俺、こいつらを送っていくから」
「わかった」
ミッキーは足早にジェフリーの家へ向かった。
ラスティと一葉は促されるまま、ジェフリーについて歩き出す。しばらく無言で歩いていたが、沈黙が重苦しくて、一葉が思い切って口を開いた。
「ここが貧民街ってことは、いつも私たちがいたシアンたちがいるところは?」
「あれは平民のいるところだ。城があるだろう。あそこの周りから貴族たちの住む界隈、貴族街、平民街、貧民街と離れて行くんだ。壁に仕切られているのがその境界だ」
「そうだったんだ。じゃあ、城から離れるほど貧しくなるわけね」
確かにここは教会があった街並みとはずいぶんさびれた家が多い。
造りも質素で、中の様子も見える家もある。店らしきものもあるが、品ぞろえも店主もまばらでいまいちに見える。壁がその意味であることも一葉は知らなかった。
「そういうことだな。富裕層である貴族街の壁へ入るのは、許可がいるんだ。出るのは勝手だが」
「ふむふむ…。で、階層が違うと行き来もしづらいと」
そういえば一葉がいつも壁の向こうのクラークの屋敷へ戻るときは、必ず誰かと一緒なのであまり気にしたことがなかった。出るときは素通りだし、メアリアンもブラッドも壁の入り口にいる兵士と顔見知りらしく、会釈するだけで通してくれている。
「そうだな。貧民層が平民街へ行くことはできるが、そこから上の貴族街の領域へは身分を証明しないと入れない」
「そういうの、どうやってわかるの? 平民とか」
「貴族街へ入るには身分証を見せる必要がある」
「これだな」
ジェフリーがしているネックレスに指輪が下げられている。その指輪の緑の石を押すと、ジェフリーの顔と身分を現す情報がパソコンの液晶画面のように浮かび上がって出てきた。
といっても、一葉にはさっぱり読めなかったが。
「へえ…こんなものがあるんだ。便利だねえ」うんうんとうなずいてから、一葉ははっとして「私、それない!」と言い出した。
「ああ…そういえばそうだな。今度父上に言って、作ってもらうか」
「ラスティも持ってるの?」
「国民は持つことを義務化されている。これがないと、いろいろ不便なんだ。役所や街中の行き来もな」
「マイナンバーカードみたいなもんか…」
「まいなんばあ?」
「こっちの話。あ、あそこから教会に戻れる?」
開けた道路に出て、明るい街並みが見えた。高い壁が貧民街と平民街を分けているのが一葉にもわかった。ただ、貴族街と違って特に兵士が立って見張っているということもなかった。
「じゃあな。気を付けて帰れよ」
「ありがとう」
一葉がそう言うと、ラスティは変な顔をして、ジェフリーは笑った。
「誘拐した奴に礼を言うなよ」
「ああ、それもそうだねえ」
「おまえは本当に間抜けだな」
「ほっといてよ」
「ジェフリー」
むくれる一葉を放っておいて、ラスティはジェフリーを見上げる。「おまえが言ったことは、忘れない」
「そりゃどうも。ついでに俺たちのことをなんとかしてくれるとありがたいけどな」
「…善処する」
ジェフリーは片手をあげて貧民街へ戻って行った。ラスティと一葉はそれを見送ってから、地理もよくわからないので道行く人に教会へ戻る道を聞いて、歩き出した。
街の中はとくに変わった様子は見られない。王子一人を探すのに、まだ兵士を総動員しているわけではないようだった。