舞と増田 其の一 舞の卒業
高校を卒業した東海林舞は、進学せずに地元の人材派遣会社に就職した。
「派遣切り」などの言葉が示すように派遣社員への風当たりが強い昨今、本来であれば一般企業の正社員として就職するのを目指していたが、ここにきて彼女の学業上の残念な部分が出てしまい就職活動もなかなか上手くいかなかったのだ。
それでも派遣会社自体には期間雇用やアルバイトではなくれっきとした正社員として採用されていたし、面接に訪れた舞を見た担当者が即座にその採用を決めた事からも、彼女なりに頑張った結果とも言えるのだろう。
もっともあとから聞いた話では、その担当者は事前に受け取っていた履歴書の写真を見た時から舞をほぼ採用するつもりだったらしい。それは彼女の写真が実際に会ってみたいと思わせるほど美しかったからだ。
だからと言ってその担当者がスケベ根性を出したという訳では無く、単にオフィスビルの受付業務に回せる見栄えの良い女性の人材が欲しかっただけで、実際に面接に訪れた舞の姿を見た担当者は彼女の予想以上の美しさに即決していたのだ。
まるでモデルかと見紛うほどの170センチを超える長身と、凡そ高校生とは思えないほどに発達した胸と腰回りは見る者を圧倒していたし、その顔も写真で見るよりさらに美しかった。
もちろん彼女は面接会場には高校の制服を着て行ったし、顔もスッピンの状態だったが、それでも舞の美しさは他の面接者と比べても群を抜いており、担当者がその容姿だけでも採用する価値があると判断したのだ。
舞はもうずっと長いこと化粧をしていなかった。
高校二年の夏にアルバイト先の店長に告白をして以来、色々あって化粧するのをやめたのだ。茶色く染めていた髪も次第に元に戻して、今ではすっかり化粧気の無い普通の黒髪の女性になっていた。
もっとも「普通」というには彼女は些かその美しさが飛び抜けすぎてはいたのだが。
だからと言ってその容姿が規格外かと言われればそこまでではなく、彼女の友人の小林桜子に比べればまだ常識の範囲内に収まっていると言えた。
例えるなら、桜子の容姿がまるで神が造形した人知を超えた美しさであるとするならば、舞のそれはまだ人が創り出したものとも言えるもので、桜子のように凡そ常識外というほどではなかったのだ。
とは言え、普通の男なら声をかけずにはいられないほど舞の容姿が美しいのは間違いなかったのだが。
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「高校卒業おめでとう。東海林さん、君も来月から立派な社会人だね」
「ファミリーレストラン アンアン・ミラーズS町駅前店」の店長、増田和也が勤務時間が終わった舞に声をかけると、彼女は嬉しそうに表情を崩した。
高校在学中にずっと働いていたこの場所を、舞はあと十日で辞めることになっている。それは来月の一日から別の会社に正社員として就職する事が決まっているからだ。そしていま増田が声をかけたのはある目的があったからだった。
「あら店長、三年間本当にありがとうございました――って、まだ十日もあるじゃない、いやね。ふふふ」
相変わらず彼女は増田に対してタメ口をきくのだが、最早この職場ではそれについて誰も何も言わなかった。確かに最初の頃は同じウェイトレス仲間の先輩が苦言を呈したこともあったが、何度言っても治らなかったし、無理に敬語を使おうとすると話し方がおかしくなるので今では完全に放置されていたのだ。
もっとも今では、その他にもっと大きな理由があるのだが。
実は増田店長と舞が交際前提でいることは、この職場にいる全員が噂していた。
それは一方的に言い寄って来る舞をかわし切れずに増田が絆されたという話で、さすがに女子高生とは付き合えない増田は、彼女が高校を卒業するのを待っているらしいと言われていたのだ。しかし仕事は出来るが地味で冴えない増田と超絶美少女の舞の二人が付き合うなんて信じられなかったし、そもそも歳の差が二十歳もある二人が恋人同士になるなんてあり得る話ではなかったのだ。
しかしその噂があながち外れていない証拠に、二人は一度もそれを否定しなかったし、増田と舞が上司と部下の範囲を超えて親し気に会話をしている姿を複数の人間が目撃していたのだ。その様子を見る限り、彼らの噂は概ね正しいと思えるものだった。
そんなことで舞が高校を卒業すると同時に二人は交際を始めると言われていたのだった。
「それより店長、私今日卒業式だったんだから、約束通り明日から付き合ってくれるんでしょう?」
「い、いや、高校生は卒業式を終えても三月中は高校に籍を置いているって言うじゃないか。だから君はまだ今月いっぱいは女子高生なんじゃないのか?」
なにやら屁理屈をこねくり回しながら増田が言い訳のような口をきくと、舞の眉がキュッと上がる。
「確かにそうかもしれないけれど…… でも私の気持ちは変わってないから。店長は私が高校を卒業しても気持ちが変わっていなければ付き合ってくれるって言ったじゃない」
「いや、あの話に嘘はないよ、本当だ。でもやっぱり大人の僕は女子高生とは付き合えないからさ。おかしな拘りに聞こえるかもしれないけど、これは僕のけじめなんだよ、決して譲れない、ね」
「そう…… わかったわ。あなたがそう言うのなら来月まで待つけれど」
実のところ増田はあの時の約束を後悔した時期もあった。
特にあの直後は本当に悩んだし、出来る事ならあの約束自体を反故にしたいとも思っていたのだ。
しかしあの時の彼女は若さゆえの気まぐれである可能性も大いにあったし、このまま彼女がずっと同じ気持ちでいる保証もなかった。それに高校卒業と同時に何処か遠くに進学するかもしれないことを考えると、とりあえずこのまま様子を見ようと思うようになったのだ。
そして舞は高校卒業と同時に人材派遣会社への就職が決まり、このファミレスでのアルバイトもあと残るところ十日で辞めることになった。それでも彼女はこのまま実家に残ると言っているし、実家からはこのファミレスも増田のアパートも歩いて行ける距離にあるので、なんら問題はなさそうだ。
彼女の心変わりも含めて少々安易に考えていた増田だったが、ここに来ていよいよ外堀も埋められた彼は、遂に来月から舞と付き合うことになりそうだった。
「ま、まぁ、その話は置いといて、えぇと、就職おめでとう。これは僕からの気持ちだよ」
色々と思うところはあったとしても、増田の前では変わらずにニコニコと笑顔を絶やさない舞に、少々緊張の面持ちで何かを手渡す。それは小さな四角い箱のようなもので、綺麗な包装紙に包まれていた。
「来月から社会人なんだから、常に時間に正確じゃないとね。――あ、いや、べつに君が時間にルーズとか言っているんじゃなくて…… 誤解したらごめん」
「うふふ、わかってるわよ。ありがとう、店長…… 開けてもいい?」
嬉しそうな笑顔を崩すことなく舞が包み紙を開けると、中には女性向けブランドの腕時計が入っていた。そのデザインは今年の流行のもので、彼が相当奮発したことが想像できた。
「店長…… こんな高価な物は頂けないわ…… なんだか申し訳なくて」
「いや、いいんだ。君にはこの三年間とても助けられたからね。このくらいの事はさせてほしいんだよ」
いつも何処か自信ありげに微笑んでいる彼女の顔に、申し訳なさそうな表情が生まれる。
増田の前では舞は素を出すことが多く、今では二人きりの時はその表情も刻々と変わるようになっていた。それは家族と親しい友人、そして増田以外には絶対に見せない姿で、それだけ舞が彼に心を開いている証拠だった。
「でも…… なんだか悪いわ。そうだ、今度初めてのお給料を貰ったら店長になにかプレゼントを買ってあげるわね」
「いや、僕はいいよ。それより、そういうことは君のご両親にするべきなんじゃないのかい? 初めての給料で両親にプレゼントをするとか、よく聞く話だろう?」
両親の話題に触れると、舞の顔が暗くなる。
急に表情を変えた彼女を眺めながら増田は舞の家庭環境に思いを巡らせた。
舞の母親は舞が小学六年生の時に離婚して以来長らくシングルマザーとして家計を支えていたのだが、昨年の夏に同じ職場の男性と再婚していた。それを機に今まで住んでいた市営団地を出て同じ町内のマンションに移って新しい父親と一緒に家族五人で暮らすようになったのだ。
彼女は決して口には出さないが、どうやらその新生活が上手くいっていないらしく、それ以来目に見えて表情が暗くなっていた。もっとも外では常に顔に仮面を被る舞の本心を見抜ける者はいなかったので、誰もその変化に気付いてはいなかったが、彼女が心を許す増田にはその微妙な変化を感じ取ることが出来たのだ。
「僕が言うのもアレだけど、家の方が上手くいっていないのかい?」
「……」
恐らく増田は自分の悩みに気付いているだろうと思いながら、なかなかその本心をさらけ出せないことに葛藤している舞が辛そうな顔のまま佇んでいると、増田が更に言葉を続けた。
「話して少し楽になるなら、僕で良ければ話を聞くよ」
「……ありがとう、店長。あのね――」