大学一年の五月の出来事 其の五 恥ずかしくなった彼女
「お邪魔しまぁーす」
現在午前0時30分、健斗と桜子が待ち合わせをしていた電車の駅から歩いて約10分のところにある健斗が住むアパートだ。
そこは築四十年は経っているだろうと思われる古くて汚い一人暮らし用の八畳一間のアパートで、家賃が安いのと電車の駅、大学から近い以外に勧める点は無いと不動産屋をして言わしめた物件で、事前に話を聞いていたとはいえその独特の佇まいにはさすがの桜子も思わず言葉が少なくなっていた。
それでも途中で改築をしたらしく、狭いながらも風呂とシャワーは付いているしもちろんトイレも共同などではなかったが、やはりその古さはどうしようもなくかろうじて「使える」程度でしかない。
予想以上の建物の状態に言葉が少なくなった桜子が彼の部屋の中に入ると、さらに言葉が出なくなる。
「……健斗、これは――」
一言で言うと健斗はあまり身の回りに頓着しない性格だ。
生まれてからこれまでずっと実家住まいだった彼だが、シングルマザーのために日中働きに出ている母親に代わって掃除や洗濯をすることも多かった。もちろん家には同居する祖母もいたのだが、健斗が小学生になるころには精神的な病にかかって部屋に引きこもることが多くなっていたし、彼が中学生の時には既に認知症で家事などを任せられる状態ではなかったのだ。
だから健斗は自分にできる範囲で家の手伝いはしていたし、それが当たり前のようになっていた。
しかし人間というのは現金なもので、一人暮らしになって家事をしなくても困るのが自分以外にいなくなると、すっかり何もしなくなってしまったのだ。
もっとも彼の名誉を守るために言及すると、日夜大学と部活とバイトで忙しい健斗がこの部屋に帰って来るのは殆ど夜に寝るためだけと言っても過言ではなく、実際に家事をする時間は皆無と言っても差し支えなかった。
だから脱いだシャツやパンツが洗濯機にそのまま放り込まれたままになっていたり、床に敷かれた布団が朝起きた時のままになっていたり、流し台――とてもキッチンとは言えない――にいつ使ったのかわからない食器がそのままになっていても仕方ないと言えば仕方ないのかも知れない。
もっとも彼に自由になる時間があったとしても、どこまで部屋の中を綺麗にすることに時間を割くかと言われれば些か疑問の残るところではあったのだが。
そんな訳で、健斗の部屋に入った瞬間に桜子が思わず絶句した理由は、ここで詳しく述べずとも十分に想像できるところではあったのだ。
「えぇと…… まぁ、その、い、忙しくてつい部屋の片づけが出来なくて……ははは――」
「……ま、まぁ、健斗が忙しいのはあたしも知っているから…… でもこれは……」
本当は桜子が来る前に部屋の中を綺麗に掃除しておこうと思っていたのだが、連休中は地獄のしごきとも噂される新入生歓迎稽古――通称「新歓稽古」――でヘロヘロになった挙句に夜は夜でアルバイトに行っていたのだ。そして部屋に帰って来ると既に午前零時を回っていればさすがにそれから部屋の掃除、片づけをしようという気力が湧かないのも致し方ないのも十分に理解できるものだった。
「ご、ごめん、決してお前が来たら手伝ってもらって一緒にやろうなんて…… 実は思ってたけど」
「ふぅ…… ぷっ、あはははは。まぁ、しょうがないよね。毎日こんな時間に帰ってきているんだから、多少部屋が散らかっていても目を瞑ってあげるよ。でもね…… せめて脱いだパンツぐらいは洗濯機に入れようよ」
「そ、そうだなっ」
口ではそう言った桜子ではあったが、健斗が微妙に眠たそうにしているのと、こんな時間から部屋の片づけなど出来ないので、とりあえず座る場所の確保と布団を真っすぐに引き延ばす作業だけをすることにした。
それから買ってきた食材を冷蔵庫に入れたり、二人分の食器や雑貨を準備しながらその間に健斗に風呂に入ってくるように促した。最初は自分も手伝うからと遠慮していたのだが、健斗が風呂に入ってくれないと自分も入れないからと無理やり説得すると渋々彼は風呂場へと消えていく。
風呂と言っても健斗がここに越してきてから一度も浴槽に湯を張ったことがなかった。
そもそも風呂を洗うのが面倒くさかったのと、湯を張るのに時間がかかることなどが大きな理由だったが、何にせよこんな夜中に帰ってきてゆっくりと風呂に浸かっている時間が勿体なくて、その時間があるなら睡眠に使いたいというのが正直なところだったのだ。
部屋の片づけは明日ゆっくりするとして、夕食も既に済ませていた二人はあとはもう寝るだけなのだが、そこに考えが至った桜子は急に恥ずかしくなって顔を真っ赤にしながらソワソワしてしまう。そして綺麗にしわを伸ばした布団と一つしかない枕を眺めながら一人で悶絶していた。
確かに彼女はこれまで男性経験もなければその辺の知識も疎いと言ってもいい。
しかし友達などとはそういった話をする時もあるし、彼女自身も決してその話題に興味が無いわけでもない。むしろ友達が彼氏と旅行に行ったとか遂に初体験したなどと話しているのを聞きながら些か羨ましく思っていたのも事実だった。
しかし彼女が高校三年生の秋にPTSDの後遺症がほぼ完治したと言われるまでは怖くてそんなことは出来なかったし、健斗も桜子のことを第一に考えると、決して己の欲望を押し付けようとはしなかった。だから今までもそういったチャンスが無かったわけではないのだが、そこに至るまでの勇気がなかったのが正直なところだ。
健斗がシャワーから戻ってくると、部屋の中では桜子が布団の横に緊張の面持ちで正座をして座っていた。
その姿がなんとも可愛らしくて健斗が思わず小さく笑い声を上げると、彼女は頬を膨らませて拗ねたような表情を作る。この後を思って自分が緊張しているというのに、それを見て笑うとは何事かとその顔は語っていた。
「お先にシャワーありがとう。狭くて悪いけど、桜子もシャワーどうぞ」
目に見えて緊張している桜子に気を遣いながら優しく健斗が語り掛けると、彼女はコクリと無言で首を縦に振って替えの下着とパジャマを持って風呂場へとそそくさと消えていく。
部屋の中に一人残された健斗は、部屋の中央に敷かれた布団と一つしかない枕を様々な思いとともに見つめていると、風呂場から軽快なシャワーの音が聞こえてくる。
その音を聞きながらこの後の二人の姿を想像した健斗は、そのあまりのあられもない姿に思わず悶絶しながら布団の上に寝転がってしまった。
遂にこの瞬間がやってきたのだ。
この時を自分はどれだけ待ったのかはもう思い出せないほどだが、少なくとも自分が中学三年生の時には桜子の姿を悶々と想像していたことは憶えているので、少なくとも三年ではきかないだろう。
途中で彼女の病気が発覚した時には本当に絶望したし、やり場のない気持ちを発散させるのにも相当苦労したものだったが、遂にこの後彼女と夢のような時間を過ごせることを考えると、その長かった時間も今となっては笑い話になるのだろうか。
今日の事は彼女の母親も公認しているし、この部屋には誰も邪魔しに来る者はいない。だから何も心苦しくもなければ誰の邪魔も心配しなくていいのだ。
こんなに大らかな気持ちで彼女との初めてが経験できるなんてこんなに幸せなことはない。
それにしても本当に大丈夫なのだろうか。
自分は上手くできるのだろうか。
彼女だって初めてなのだからここは自分がしっかりとリードしなければいけないだろうし、彼女の不安も優しく解いてあげなければいけない。だからこの日のために自分は寝る暇を惜しんでエッチなDVDで研究してきたのだ。いや、実際はそれだけが目的ではなかったが。
確か最初は優しくキスをして、それから――
あぁ、いかん、少しイメージトレーニングをするべきだな。本番では失敗できないし、それで頼りない男だと思われるのもちょっと恥ずかしいしな。
よし、目をつぶってイメトレだ。
確かそれからDVDでは……
手をこうして――
指で――
えぇと――
ぐぅ――
「お、お待たせしました……」
顔を真っ赤に染めながら恥ずかしそうにシャワーから戻ってきた桜子がふと布団の上を見ると、そこにはゴロリと体を横にした健斗の姿があった。
こちら側から顔は見えないが、その規則正しく聞こえてくる呼吸音とゆっくり上下する肩を見ていると彼が既に眠ってしまっているのは間違いなく、背後の人の気配に全く気付かないところからもその眠りは深いように見える。おそらくそれは間違いないだろうと思いながら確認のために顔を覗き込むと、予想通り健斗は眠ってしまっていた。
ちょっと悪戯心が芽生えた桜子が彼のわき腹や頬などを指で突いてみても全く反応が無いどころが、軽くいびきまでかき始める始末だ。そんな健斗の姿を見つめていると、桜子は少々憮然とした表情を顔に浮かべてしまう。
何日も前からずっと覚悟をしてきて、さっきもシャワーを浴びながら自分で自分を勇気づけていたのにこれは一体どういう為体なのかと思ってしまう。あれだけ一世一代の覚悟を決めて、あんなに恥ずかしい思いをして避妊具まで用意して、思い切って母親に報告してまでやって来て、結局はこれなのかと。
「むぅー、健斗ぉ、そんなのないよぉ…… もぉ――」
しかしそこでふと桜子は思った。
この一週間、彼はずっと忙しかったのだ。
毎朝六時過ぎに家を出て、再び帰って来るのは午前零時過ぎなのだ。それからシャワーを浴びて自分と電話をして午前一時過ぎに眠って、また朝の六時に起きる。そして日曜日も時々引っ越しのアルバイトに行っている。
もしそれが自分だったら、こんな生活を毎日続けていれば疲れてしまうだろうし、愚痴の一つも言いたくなるだろう。しかし彼の文句や愚痴を一度も聞いたことも無ければ、今回だって快く迎え入れてくれたのだ。
そもそも彼が疲れているのを知りながら、滅多に無い一日休める貴重な日を目掛けて会いに来たのは自分なのだし、もとよりそれは自分でもわかっていたことではないのか。
そこまで思い至った桜子は、急に自分が恥ずかしくなる。
確かに健斗も会いたいと言ってくれていた。しかし今回それを無理やり実現させたのは自分だし、彼の都合も考えずにまるで強行軍ともいえるスケジュールを組んだのも自分なのだ。
健斗はそれを喜んでくれているように見えた。しかし本当は彼がどう思っているかはわからないし、むしろ逆のことを思っているかもしれない。普段無口で弱音も愚痴も吐かない健斗が本当はどう思っているのかは本人が話すつもりがない限り誰にもわからないだろう。
「ごめんなさい、健斗……」
桜子は布団の上で熟睡する健斗の横顔を見つめながら、まだ乾き切っていない彼の髪をタオルで優しく拭き始める。そして時々手を止めてはジッと彼の顔を眺めていた。
そして最後にそっとその頬にキスをすると、彼の背に抱きつくように体を横たえて眠るのだった。