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大学一年の五月の出来事 其の四 弱くなった姫と強くなった騎士

「そう、約束。これだけは守ってちょうだい。しっかり避妊に気を配ること。いいわね? 失敗して傷付くのは女の子の方なんだから。わかるわね?」



 まるで反応を確かめるかのように自分を見つめる母親の言葉を、桜子は自分の中で噛み締める。

 その言葉は自分が恋人のアパートに行った結果に何が起こるのかを母親も承知していて、それに対して理解を示してくれているのがわかるものだった。そして具体的に「避妊」という言葉で彼との関係を許したのだ。

 

 その態度からは自分に対する信頼が痛いほど感じられたし、そこまで考えてくれた上での言葉であるのなら、それを裏切るようなことは出来ないだろうとも思った。もっとも桜子としても避妊の方法は友達の話や雑誌、ネットでの知識しかなく、しかもそれが絶対というものではないことも十分に理解している。

 それでも今はこう答えるしかないのだろう。


「うん、わかった。しっかり気を付けるよ…… お母さん、ありがとう」


「そうね、しつこいようだけれど、十分に気を配って。決してその場の雰囲気に流されないようにね」


 さっきまでと打って変わってまるで何かのアドバイスをするように話す楓子の姿は、母親というよりも同じ女性の年の離れた先輩のように見えてなんとも頼もしく思えた。確かに彼女は自分の母親ではあるが、それ以前に女としては十分に経験を積んだ先輩なのだ。そう思うと彼女の言葉の一つひとつをしっかり噛み締めようと思えるのだった。



 


 その少し後、午前0時三十分。

 再び桜子は健斗と携帯の無料通話で話していた。


「もしもし、お疲れ様。今日も疲れたでしょう?」


「いや、全然大丈夫。お前の方こそ大丈夫なのか?」


 またしてもその「大丈夫か」の言葉には複数の意味が込められていたのだが、いまこの時のその言葉の意味は一つしかなかった。それは「桜子が泊りに来ることを楓子が許したのか」ということだ。

 その言葉の意味を正確に理解した桜子の電話口の声が妙に小さくなる。


「う、うん…… 実はその話なんだけどね……」


「あ、あぁ……」


 急に小さく元気のなくなった彼女の声を聞くと、健斗はガックリと肩を落としてしまう。桜子に姿が見えないのをいいことに本当に残念そうに肩を落としたその姿は、もし他に人がいたなら思わず心配になってしまいそうなほどの落胆ぶりだった。もっとも完全に健斗の早とちりでしかないのだが。



「さっき晩御飯の時にお母さんに話してみたんだけど」


「あぁ、すまなかったな。おばさん怒っていただろう? 今度会ったら俺からも謝っておくからさ」


「えっ?」 


「あっ?」


 なにやら妙な雰囲気をお互いに感じながら、それでも話は続く。


「――あのね、お母さんが駄目だって……」


「そ、そうか…… そうだよな。可愛い娘が男の家に一人で遊びに行くなんて、俺が親だったとしても――」


 改めて結果を彼女の口から聞いた健斗は、既に落ちていた肩を更に落とす。それこそ地面に着くのではないかと思えるほどにその肩は落ちていて、実際に彼は布団の上にごろりとそのまま寝転んでしまっていた。

 しかしその時、急にテンションの変わった可愛らしい声が携帯から響く。


「なんちゃって、うそぴょーん!! お母さんがいいって言ってくれたんだよ。いやぁ、良かったねぇ!!」


「えっ……? マジで……?」


「ほんとほんと。マジなの。うわぁーい、マジなのぉ!!」


 電話の向こうの声がさらにテンションが上がっているのを聞きながら一瞬遅れて健斗の理解も及んでくると、彼も布団に寝ころんだまま大きな声を出す。


「やったぁ!! 桜子、久しぶりにお前に会えるんだな、嬉しいよ!!」


「あたしもすっごい嬉しいんだぁ。でもね、条件としてお母さんと約束したことが一つあって――あっ!!」

 

「えっ!? 条件って……何かあるのか? 難しいことか?」


 本当は話すつもりはなかったが、思わず母親との約束の件まで口走ってしまった桜子はその説明をどうしようかと考える。しかし敢えてそれ以上その話題には触れないことにした。なにせその約束の内容が「避妊」なのだ、いまこの場でそんなことは彼女には言えなかった。


「な、なんでもないよ、こっちの話…… まぁ、そのうち教えるけどね」


「お、俺にも関係ある話なのか? それなら教えてもらわないと」


「まぁ、健斗の協力が必要と言えば確かにその通りなんだけど―― ううん、やっぱりそんな事言えないよ。そ、そっちに行った時に話すね」


 それからしばらくの間、二人は久しぶりに会える喜びを胸に溢れさせながら当日の待ち合わせや予定などを打ち合わせる。そしてその胸の高鳴りを抑えるのに苦労しながら眠りについたのだった。





 待ちに待った土曜日の夕方になった。

 健斗のアルバイトが終わるのが午前0時だし、桜子の住むS町から健斗の住む町までは特急列車で三時間はかかる距離にあるので、到着時間を考慮して比較的余裕を持った午後7時台の便に乗ることにした。早く着いて余った時間は駅前のスーパーで色々と買い物をすることにして、そのまま駅前で待ち合わせる。


 楓子との約束を果たすために事前にドラッグストアで男性用避妊具を購入したのだが、それだけを単品で買うのが恥ずかしかった桜子は、歯ブラシやティッシュなどに混ぜてレジに持っていく。するとそこには馴染みの男性店員が待っていた。


 「こんにちは」と互いに挨拶をしながら受け取った商品をレジに通していく途中で、店員の動きが一瞬止まる。それまで何処か気まずそうにしながら視線を外してレジの画面を見つめていた桜子がふと正面に目を向けると、そこには手に取った男性用避妊具を見つめながら固まっている男性店員の姿があった。


 その店員は茫然とした顔で一瞬桜子の顔を見上げると次の瞬間には何事も無かったかのようにレジ打ちを再開したのだが、その顔には何処か哀愁というか諦めというか、一言でいうと絶望的な表情が浮かんでいた。 

 週末も近いこのタイミングで携帯用の化粧セットと歯ブラシ、そして避妊具を買いに来ることが何を意味しているのかを考えるとその答えは一つしかなく、桜子に対してこれまでほのかな恋心を抱いていたその男性店員の心はこの時点で木っ端微塵に打ち砕かれていたのだった。




 当日、楓子は快く送り出してくれた。

 彼女は既に承諾したことについて煩いことは何も言わず、ただ黙って見送ってくれる。その姿を見つめながら桜子は若干の心苦しさを感じていたが、別に何か悪いことをしているわけでもなければ母親に逆らっているわけでもないので、ここは粛々と荷物を持って玄関を出た。


 自分はただ愛する恋人の家に泊りに行くだけなのに、どうしてこんなにも後ろ髪を引かれるような気持になるのだろうかと思いつつふと後ろを振り向くと、そこには寂しそうな顔をする母親の姿がある。 

 べつに今生の別れでもなければ明日の夜にはまたここに帰って来るのに、どうしてそんな顔をするのだろうと思いながら母親の見送りを受けて桜子は出掛けて行ったのだった。



 道路の曲がり角の向こうに娘の姿が見えなくなると、楓子は隠すことなく小さなため息を吐く。

 恐らく今夜、愛する娘はもとの初心(うぶ)な生娘ではなくなるのだろう。それは彼女が自分の手元を離れて別の人間のもとに歩いていくことを意味しているように思えて、楓子は言いようのない寂しさを感じていた。

 もちろんそれが駄目だとは毛頭思わないし、むしろ桜子にとってそれほどまでに大切な人がいる事はとても素敵なことだと思うのだ。それにもう来年には成人を迎える娘がいつまでも親の言いなりのままその庇護下に納まっているのもおかしいだろう。


 これまでの経緯を考えると、恐らく将来的に桜子は健斗と結婚するのではないかと思っている。

 もちろん色恋沙汰に絶対はないのだろうが、あの二人の付き合いを見ていると若者特有の浮ついたところは見えないし、幼馴染ゆえの深い精神的な繋がりは他の人間には真似できないだろう。

 何より桜子が健斗以外の男性を好きになる光景がどうしても想像できなければ、健斗も桜子以外の女性を好きになるとも同時に思えないのだ。


 そう遠くない未来に、再び娘はこの家から出ていく日が来る。

 そしてその時はもう二度とここに帰って来ることはないだろう。

 

 

 夕日の降り注ぐ市営団地の入り口に佇みながら、なぜか目の端に涙を溜めている自分に気付いた楓子は、再度小さな溜息を吐く。今度のそれは、ただ娘が彼氏の家に一泊泊まりに行くだけなのに必要以上に感傷的になっていた自分に対する自嘲の溜息だった。

 自分は一体何を弱気になっているのだろう。

 もともとはずっと一人で生きてきた人間なのだし、今更何を恐れているのだと自分の頬を(いささ)か強めに叩きながら、桜子が消えていった曲がり角をチラリと見つつ楓子は家に入っていったのだった。




 ――――――――




 日曜日午前0時10分。

 I町駅前。


「やぁ彼女、可愛いねぇ!! こんな時間にどうしたの? おじさんと一緒に飲みに行かないか?」


 深夜営業のスーパーで買い物を済ませた桜子が駅前で健斗を待っていると、相変わらず彼女に声を掛けて来る者は多かった。こんなに時間に繁華街とも言える鉄道の駅前に来たことのない桜子は、その煌びやかな雰囲気と遠慮なく自分に声を掛けてくる酔っ払いに戸惑いながらキョロキョロと落ち着きなく恋人の到着を待っていた。


 桜子に声を掛けてくるのはほとんどが酒に酔ったサラリーマンと思しき人間で、声を掛けては来るがその八割方は社交辞令のようなもので、桜子が恋人と待ち合わせてる旨を伝えると彼らは大人しく引き下がっていく。

 酒に酔っているとは言えそれなりの社会的地位を抱えるスーツを着たサラリーマンが、嫌がる女性を無理やり連れていくなどといった事が出来るわけもなく、彼らは大抵紳士的な態度をとるものだった。

 

 しかし中には汚い酒の飲み方をする学生らしき集団も見て取れて、嫌な予感がした桜子がさり気なくその姿を隠そうとしていると、目ざとく見つけた彼らの一人が走り寄ってくる。



「あっ、すっげぇ可愛い子発見!! 一番、佐々木、これから攻略に入ります!!」 


 いまいち意味不明な言葉を喚きながら、やっと二十歳(はたち)になったくらいの見るからに頭が悪くて軽薄そうな若者が敬礼のような姿勢で桜子を指差しながら大声で叫んでいる。

 その品の欠片もない態度と訊かなくてもわかるほどに酒に酔っている姿は桜子が一番苦手――嫌っているもので、その様子を見ていると叔父の宗司を思い出してしまう。


「ほんとだ!! めっちゃ可愛いじゃん。おう、佐々木、頑張ってお持ち帰りしろよ!! ははははは」


「あんな可愛い子がお前の話聞くわけないんじゃね? 無理無理、やめとけ!! わはははは――」


 佐々木と名乗る頭の悪そうな若者に背後から集団が声を掛けると、それに後押しされたように俄然佐々木の語気が強くなる。しかしそれ以前にその集団が張り上げる濁声(だみごえ)に押しつぶされるように既に桜子は萎縮してしまっていた。

 

「なぁなぁ、いま暇? よかったら俺らと飲みにいかねぇ?」


「あ、あたし……人と待ち合わせをしていて……」


 明らかに怯える姿を見ていれば彼女がまともに話ができるとも思えないのにも関わらず、なおも佐々木は口を開く。その酔った口からは盛大に唾が飛んでいるのが見えて、思わず桜子は後退ってしまう。


「なんだよ、彼氏か? いいじゃん、そんな奴ほっといて俺と遊びに行こうぜぇ。絶対楽しいって!!」


 そう言うな否や、佐々木は桜子の右手首を掴む。

 もし警察に通報されれば最早(もはや)この時点で暴行罪で逮捕案件であることも理解せず、この頭の悪い酔った若者は尚も自分中心に話を続けようとする。目の前の金髪の少女が震えながら怯えていることなど全くお構いなしだ。



「おい、その手を放せよ、このやろう」

 

 その時二人の間に割って入る者がいた。

 なんの前触れもなく突然目の前に現れてその背中を見せた人物を桜子は知っていた――いや、知っているどころでなく、まさにその人物こそが待ち合わせをしていた最愛の恋人、木村健斗その人だったのだ。


「なんだぁてめぇ、突然出てきやがって!! どけよ、邪魔なんだよ!!」

 

「お前こそどっか行けよ、こいつは俺の彼女なんだ。俺と待ち合わせをしていたんだからお前の方こそ邪魔だろ」


 突然目の前に現れた男をまるで威嚇するように大声で喚き散らす佐々木に対して、健斗は決して大声を出すことなく淡々と受け答えをする。

 佐々木にしてみればせっかく超絶可愛い女の子を発見して口説こうとしていたのに、突然しゃしゃり出てきてしかも彼女の彼氏だと言い始める。しかも見た感じ背は自分よりも10センチは低そうだし、顔だって全然イケてない。髪だって染めていないし服装も少々野暮ったい。


 こんな奴に舐められるわけにはいかないし、可愛い女の子の目の前で恥をかかされるわけにもいかない。しかも背後ではニヤニヤと笑いながら仲間たちが事の成り行きを見守っているのだ。 



「なんだ、てめぇ、やんのか? こら!!」

 

 佐々木は精一杯の怒声を張り上げると、これ見よがしに大して太くもない腕を捲り上げる。それを見た健斗が一歩前に出ながら、その間も常に背後で震える桜子を見られないように気を配っていた。


「いや、やらない。殴りたければ殴ればいいだろ。そのかわりお前も覚悟しておけよ――お前学生だろう? その瞬間に全てを失うことになるが、それでも良ければ殴れよ、ほら!!」 


 最後だけ少々大きな声を出すと構わず健斗は更に一歩前に出る。

 彼のその姿からは格闘技の有段者のみが持つえも言われぬ迫力のようなものが感じられて、格闘技の経験のない佐々木ですら何気にその普通ではない雰囲気を感じ取っていた。


 確かに健斗は佐々木に比べて10センチは背が低かったが、鍛えられた太い首や服の上からでもわかるそのガッシリとした体格と見るからに何か格闘技をおさめていると(おぼ)しき迫力は、それと対峙する佐々木を対比して傍から見ると、キャンキャン甲高く吠えまくるチワワとそれを悠然と見ているセントバーナードの喧嘩を見ているように見えた。

 


「く、くそっ、もういい!! 誰がそんな女に興味があんだよ、このブス!!」


 健斗の迫力とその後の自分に待っている未来に思いが至った佐々木が今さら捨て台詞にすらならない言葉を吐きながら後退ると、「ブス」という言葉に眉毛をピクリと動かした健斗が前に出ようとする。

 彼にしてみれば最愛の女性のことを目の前で侮辱されたのだ。このまま自分が殴られるのは我慢できたとしても、その言葉は我慢ならなかった。


「なんだと、お前…… もう一度言ってみろ」


「な、なんだよ、やっぱりやんのか!?」


 突然目つきの変わった健斗を目の前にして、佐々木の瞳に怯えの色が広がる。

 直前まであんなに健斗のことを舐めて馬鹿にしていたというのに大した変わりようだと思えるが、今の健斗の迫力を目の前で感じている彼にとっては仕方のないことなのかもしれない。それほど健斗の怒りと迫力は凄まじいものだったのだ。


「け、健斗、だめ、だめだよ、それ以上は何もしないで、お願いだから!!」



 少々甲高い、しかし可愛らしい声をあげながら健斗の背中に突然抱き着いてくる者がいる。

 それは洋服越しでもわかるほどに温かくて柔らかくて、そしてとても良い匂いがした。


 その感覚に彼はハッと我に返ると、目の前で後退る佐々木の事など忘れたかのように後ろを振り返りながら健斗は言葉を口にする。その顔には優しい微笑みが溢れていた。


「間に合って良かった。桜子、大丈夫だったか?」


 優しく柔らかく自分を抱きしめる彼の姿を見上げながら、桜子は思わず体の力が抜けそうになっていた。


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