大学一年の五月の出来事 其の三 母親との約束
「あ、あのね…… 連休の最後の土曜日なんだけど…… 夜にそっちに行ってもいい? 日曜日は引っ越しのアルバイトはないんでしょう? それなら前の日の夜からそっちに行きたいの――」
「えっ……?」
健斗は一瞬彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。
土曜日の夜に家に来る……? ――それは家に泊るということなのか?
「も、もちろん迷惑なら止めるけど…… あたしどうしても健斗に会いたくて…… 土曜の夜に行けば日曜日の夕方までは一緒にのんびりできるよ。それで…… どう? 大丈夫?」
「あ……いや……」
健斗は思わず口ごもってしまう。
本当であれば即座に「それは家に泊るということか?」と訊きたいところではあったが、電話越しでさえ伝わってくる彼女の緊張した声を聞いていると、その質問はあまりにも野暮な気がして何も言えなくなってしまった。
それでも彼は全力で平静を装って返事を返す。
「土曜の夜と言っても俺がバイトから帰って来るのは夜中の0時過ぎになってしまうけど…… それでも良ければ来てくれても構わない。だけど、お前の方こそ大丈夫なのか?」
健斗の口から出た「大丈夫」の言葉には色々な意味が込められている。
決して暇ではない彼女なのに、せっかくの休みに休まなくて体は大丈夫なのか。
実家暮らしの彼女が外泊することを母親にどう説明するのか。
一人暮らしの男の家に遊びに来るの事の意味を本当に理解しているのか。
二人が事に及んだ場合、彼女は自身の初めてに覚悟はできているのか。
そんな様々な「大丈夫なのか」が自分の覚悟に対するものも含めてぐるぐると健斗の頭の中を渦巻いている。彼女が彼氏の家に泊りに来るとどういう事になるのかは健斗も理解しているし、それについては彼としても「大丈夫なのか」と自分自身を心配してしまう。
それでも彼の答えは一つしかない。
「俺は大丈夫だけど…… お前の方こそ大丈夫なのか? だってお前は実家暮らしだし」
「……大丈夫だよ。その辺はなんとかなりそうなんだ。でもまだ不確定だから直前でダメになるかもしれないけどね」
「いや、それを大丈夫だとは言えないだろ。おばさんにはちゃんと言わないといけないし、もしも適当に誤魔化そうなんて思っているんなら家に来ることは許さないからな」
予想外に強い口調で返された桜子は思わずたじろいでいた。
自分が会いに行くと言えば健斗なら諸手を上げて喜んでくれると思っていたのに、想定外の返答に戸惑ってしまう。
「……そ、そうだよね。お母さんにはちゃんと話すから、また明日電話するときに結果を教えるね」
「あぁ、わかった。それじゃあまた明日。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
桜子との電話が切れると同時に、健斗は天井を見上げていた。
ここは古くて汚い八畳一間の一人暮らし用アパートの一室で、家賃が安いのと大学から近い以外にお勧めできる点はないと不動産屋から言われていたのだ。確かにその通りの物件ではあったが、それでも経済的に裕福とは言えない木村家を考えるとこの程度で十分だと思っている。
健斗の通う体育大学は私立なので、年間の授業料は国立などに比べるとそれなりの金額になるし、実家から遠く離れた地で一人暮らしをしていれば相応の生活費もかかってくる。大学の学費とアパートの家賃は母親の幸が今までコツコツと積み立ててくれていたので何とかなったが、普段の生活費と部活の活動費は自分で稼がなければいけない。
だから今のようにただ寝に帰るだけでしかないアパートに余計な金をかけるつもりの無かった健斗は、その家賃の安さだけでこの部屋に決めたのだ。しかし桜子が遊びに来るかと思うと、本当にこんな汚い所でいいのかとも思ってしまう。
もっとも桜子自体が物持ちのいい節約マニアのようなところがあるし、前に住んでいた酒屋も相当古い家だったこともあり、彼女がそんなことに拘るとも思えなかった健斗は、すぐに別の事を考え始める。
桜子のあの口ぶりでは、母親にはまだ了解を取り付けていないのだろう。
そもそもあの時点ではまだその話自体をしていないのかもしれない。
しかし彼女の母親の楓子の人柄をよく知る健斗にとっては、彼女の了解がなければ絶対に桜子をここに来させるわけにはいかないと思ったし、もしも黙っていたことが後日にバレでもしたら本当に恐ろしいことになるのは目に見えていた。
楓子は健斗が一歳になる前から知っている。
健斗の母親の幸はシングルマザーなので、彼がまだ小さい時から働きに出ていた。だから幼稚園に健斗を迎えに行けない時や何か用事がある時にはよく母親の代わりに楓子が面倒を見ることも多かったのだ。
もちろん健斗には同居する祖母もいたのだが、精神的に不安定な彼女ではどうしても対応できない時もあったからだ。
同い年の健斗と桜子は小さい時からよく一緒に遊んでいたし、普段から仲も良かった。だから楓子は幼稚園から帰って来た二人を一緒にしてよく面倒を見てくれていたし、二人が酒店の前で遊んでいる姿もよく見られた。さすがに本当の母親ほどとはいかないが、いまでも健斗は楓子の事を近しい親戚のおばさんのような感覚でいる。
健斗としてはそんな彼女を裏切るような真似はできないし、大切な一人娘との交際を許してもらっている以上ここはきちんと筋を通すべきだと思っていた。
まだ精神的に子供だった高校生の時は、確かに楓子の目を盗んで桜子と何かをしようとした事はあったし、実際にバレて叱られた事もあった。しかし今後の付き合いなどを考えるとここらでキッチリと母親の了解を貰っておくべきだろう。そして自分たちが節度を守ってさえいれば、あの楓子であれば大学生になった娘が恋人の所に泊りに行くと言っても反対はしないのではないか。
などと疲れ切った頭で考えながら布団にごろりと横になっているうちに、健斗はそのまま眠ってしまったのだった。
――――
「お母さん、ちょっと話があるんだけど……」
会いに行きたいと健斗に伝えた翌日、アルバイトから帰ってきた桜子は一緒に食卓を囲んでいた母親の楓子に話しかけた。
現在午後八時三十分、夕食をとるには随分と遅い時間だが、桜子がアルバイトから帰って来るのはいつも午後八時過ぎだし、楓子が仕事から帰って来るのも大抵午後七時から八時の間なので、彼女たちの生活ではその時間に夕食をとるのは仕方のないことだった。
桜子は高校時代から引き続き、週に五日「ファミリーレストラン アンアン・ミラーズ S町駅前店」でアルバイトを続けていた。時間は平日のディナータイムの繁忙時間帯で、午後五時から八時までの三時間(時々残業あり)と隔週で土曜日の日中八時間だ。
桜子が通っている教育大学は国立大学なので、初年度こそ入学金も含めると約90万円の納入金が必要だが、二年目以降は約六十万円の授業料で済む。さらに彼女は実家から通っているので、それ以外には交通費程度しかかからないので、実際には桜子自身がアルバイトをしなくても十分親子二人であれば食べていけるのだ。
もとより桜子を養子に迎えた直後から始めた積み立て貯金や学資保険の満期などで既に十分すぎるほどのまとまったお金は準備していたし、祖母の絹江が亡くなった時の相続財産約六百万円のほかに中学生の時のいじめ事件の損害賠償金が約五百万円、痴漢事件の時の損害賠償金約百万円が全て手つかずに残っている。
この他にも遠藤に刺されて生死の境を彷徨った事件での民事訴訟も結審していたが、現在服役中の彼には支払い能力がないし、出所するのはまだ10年以上先なのでそれを受け取るのはほぼ無理だろうと言われていた。だからその事件は全くのやられ損の泣き寝入りと言えるのだろう。
桜子がアルバイトで稼ぐ給料は、彼女が自分で使う分以外は全て家計の足しとして楓子に渡している。
しかし楓子はその金に一切手を付けることなく全額桜子名義で貯金していて、彼女がアルバイトを始めてから既に三年が経過している今では、その貯金総額も優に百万円を超えていた。
家賃の安い市営団地に親子二人で住んでいる分には楓子一人の稼ぎでギリギリ赤字にならない程度で生活費は収まっていたし、いざとなったら浩司と自分の老後資金として貯めていた貯蓄を切り崩すことも吝かではなかったが、一番金のかかるはずの桜子自体が倹約マニアのような性格をしているし、楓子も贅沢を好む性格でもないので実際には余程のことがない限り貯えを切り崩すような羽目になることもなかったのだ。
それでも一人娘にはいつも綺麗な服を着ていてほしかったので――これは命令として――楓子は桜子に毎月一着以上洋服を買うように金を渡している。そこまでしなければ桜子は遠慮をして新しい服を買おうとしないので、それは半ば強制的なものだった。
「なに? 急に改まって」
「あ、あのね…… そのぅ…… 来週のゴールデンウィークの連休なんだけど――」
「……どうしたの? なにか言いたいことがあるのならはっきりと言いなさいな」
話があると言いながら顔を伏せたままいつまでたっても言い淀んでいる娘の姿に、不思議そうな顔を向けながら楓子が口を開く。
連休の話で何かあるとすれば、何処かに遊びに行きたいとか、何かしたいことがあるとか、きっとそんな話なのだろう。楓子は何気にそんな予想をしながら桜子が再度口を開くのを待った。
「健斗がね、連休中は柔道部の練習がずっとあるからこっちに帰って来られないんだって」
「あぁ、相変わらず健斗君は忙しそうね。でもしょうがないじゃない、彼は一年生だから先輩の言うことには逆らえないだろうし、アルバイトだって毎日行っているんでしょう? まぁ、今回は諦めるしかないんじゃない? あなたの気持ちはわかるけれど、あまり彼に無理はさせられないわよ」
『なんだ、そんな事か』と内心拍子抜けしながら娘の話に応えていた楓子だったが、次の言葉を聞いて目を大きく見開いていた。
「うん、そうなんだ。連休最後の日曜日しか自由な日がないから、健斗はこっちに来られないんだよ。だからあたしの方から行こうと思って……」
「えっ?」
「土曜の夕方にこっちを出れば夜にはあっちに着けるから…… 日曜日の夕方までは一緒にいられるんだ」
それまで俯いていた顔を少し上げると、まるで確認をするかのように桜子はチラリと母親の顔を見る。その青い瞳には期待と不安が入り混じったような複雑な感情がこもっているように見えて、彼女の内心がこちらに伝わってくるようだ。
友人がアリバイ作りの協力を申し出てくれたこともあり、桜子は初めこそ母親に黙って健斗に会いに行こうとしていたが、やはりそれは彼女を裏切ることになるのではないかと思い始めた。そして昨夜健斗に窘められたのを切っ掛けに、やはり母親には正直に全部話すことを決めていたのだ。
確かに母親に黙って行くことは出来るだろうが、それだけは絶対にしてはいけないことだと思う。だから正直に話して楓子に断られたとしてもそれは甘んじて受け入れようと思っていたし、それについては文句を言おうとも思っていなかった。
楓子は娘の言葉の一つひとつをまるで噛み締めるように繰り返し頭の中で考えていた。そして慎重に言葉を選びながら口を開く。
「ねぇ桜子。それは健斗君のアパートに泊るということかしら?」
「う、うん、そう。夜に健斗と合流して、そのまま彼の家に泊るの……」
『おずおず』というには声が小さすぎる気がするが、それでも桜子は精一杯の勇気を捻り出して母親の顔色を窺っている。ともすれば泣きそうにも見えるその顔は、普段にも増して白く見えた。
「……あなた、自分が何を言っているのかわかっているの? 一人暮らしの男の人の家に泊るのがどういう事かわかってる?」
言うまでもなく、それは娘もわかっているだろう。それでも敢えてそう言ってきたことも十分に承知している。それでもそう言わざるを得なかった。
「うん、わかってる。でもあたしは彼が好きだし、彼も――」
「駄目よ」
拒絶の意思を示すには短すぎる言葉を聞いた桜子は、目に見えてガックリと項垂れている。こちらからその顔は見えないが、彼女がどんな表情をしているのかは十分に想像できた。
「うん、わかった…… お母さんがそう言うのなら諦めるよ。変なこと言ってごめんなさい……」
「って言いたいところだけど、もう少し話をしてもいいかしら?」
「えっ……?」
それまで顔を俯かせたままジッと皿に乗った料理を見つめていた桜子が顔を上げる。その顔にはどこか少し期待を滲ませる表情が混じっていて、母親の言葉を聞き逃さないように注力しているように見えた。
そんなわかりやすい娘の反応に小さなため息を吐きながら、楓子は話を続ける。
「あなたはもう高校生ではないから、ある程度自分で考えて行動しても構わないと私は思っているわ。それは健斗君のお母さんも同じだと思うの。でも二人とも十九歳だからまだ大人ではないのよ。それはわかるわね?」
「……うん、わかる」
「だから未成年者の親として私にはあなたに意見をしなければいけないの。子供の親として、人生の先輩として、大人としての意見をね。だから私の答えは『駄目』なのよ」
「……」
「でもね、あなたたちの気持ちも私にはよくわかるのよ。中学一年生の時からだから――もう五年以上も続いているのに、二人の間にまだ何も無いのは知っているから。まぁ、あなたの病気がなければどうなっていたかはわからないけれどね」
高校一年生の痴漢事件以降患っていた桜子のPTSDの症状は、今ではほぼ完治していた。
昨年の秋に後遺症の回復具合を確認するために健斗が桜子の胸を触ったことがあったのだが、その時彼女は気を失ったり発作を起こしたりもしなかった。もっともあまりの恥ずかしさに桜子が顔を真っ赤にしてしゃがみ込んでしまったのと、とても幸せそうな顔をした健斗が中腰の姿勢からしばらく戻れなかったのはご愛嬌だったが。
そんな二人が同じ部屋に二人きりで泊れば何が始まるかは火を見るよりも明らかだし、それをわかっていて安易に許可出来るはずもなかったのだ。娘の母親としては。
「でもね、約束を守ってくれるのなら許してあげる」
「約束――?」
どうやら母親は頭ごなしに反対する気はないらしい。
そう理解した桜子はその青い瞳に何処か期待するような輝きを灯していたが、母親の「約束」という言葉を聞くと不安そうな顔をした。
「そう、約束。これだけは守ってちょうだい。しっかり避妊に気を配ること。いいわね? 失敗して傷付くのは女の子の方なんだから。わかるわね?」