舞と増田 其の十四 二人の約束
翌日の朝、いつもの時間に起きた増田は朝食のパンをかじりながら出勤までの時間を使って舞にSNSのメッセージを送った。
四十歳手前の増田はご多分に漏れず携帯電話のSNSを長々と打ち込むのは苦手なので、その内容は「今日の夜に話があるので会えますか?」という絵文字も何もない、見ようによっては事務連絡かと思うような短く簡潔なものだ。
基本的に舞は就業時間中は携帯電話はロッカーに入れてあるので、返事があるとすれば昼休憩の時間になるだろう。だからその時間まで気長に返事を待つことにして、増田はいつもの時間に出勤して行った。
昼休みに舞が弁当を取り出すためにロッカーを開けると、携帯電話にメッセージの着信があることに気がついた。基本的に友人の少ない彼女は、SNSのメッセージが着信するとすれば幼馴染の田村光と桜子と高校時代の友達が三人くらいしかいないのだが、ここ最近は増田がその中に加わっていた。
増田のメッセージは短く簡素で、まるで事務連絡かと思うような内容も多い。
もっとも三十八歳の中年親父が張り切って絵文字を多用した装飾過多のメールを送って来るのもどうかと思うので、彼に関してはそれでいいのだろう。そもそも舞は増田に対してそんなことは求めていないので全く気にしていないようだ。
そして今着信したメッセージもたった一行の短いものだ。
「今日の夜に話があるので会えますか?」
それは舞が一週間待ち焦がれた彼からの連絡だったが、やはり相変わらず事務連絡のような文面だった。
それにしても、と舞は思う。
先週の金曜日の夜にアパートを飛び出してから彼とは一度も会っていない。
あの時は増田の煮え切らない態度と自分の想いが伝わらないことに対しての苛立ちをそのままぶつけてしまったが、その後友人二人から諭されると彼の気持ちを自分なりに理解して消化することが出来た。そして居ても立ってもいられなくなって連絡をしたが、色々と考えたいので暫く時間が欲しいと彼に言われてしまった。
そして彼から何か言ってくるまでこちらから連絡するのを遠慮してほしいとも言われてしまったのだ。
正直に言うと、それはとてもショックだった。
もちろん彼が考えていることはあの時自分が投げかけた言葉に対してだろうし、あの性格を考えると、きっと真剣に悩んでいるに違いない。
結婚を前提に増田と付き合えるのかと桜子と光に言われた時に、その向こうに彼の苦悩が見えた。
男女の付き合いにおいて体の関係があるのはこのご時世では当たり前とも言えるし、むしろそれを抜きにした健全な関係などはどこを見てもほぼ存在しないだろう。それは結婚するとかしないとかに関係なく、好きな人とはそうなりたいと自然に思うものだし、それほど高いハードルでもない。
しかし彼はそれについて真剣に悩んでいるのだ。
たとえ結婚前提でなくても自分は体の関係になっても構わないと思っているが、彼はそうではないらしい。
今日はもう金曜日、週末だ。
自分が彼のアパートを飛び出してから一週間が過ぎている。
その間に彼がどんな結論を出したのか、今夜きっと聞かせてくれるに違いない。
――――
「やぁ、舞ちゃん。突然呼び出してごめんね」
増田の終業時間に合わせて舞がファミレスまで迎えに来ると、彼女の姿を見つけた増田が口を開く。その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいて、一週間ぶりに会った彼には何一つ変わったところは見えなかった。
その様子を見ていると、この後語られるであろう彼の結論はそれほど悪い内容ではないのではないかと思ってしまう。
「和也さん、今日もお仕事お疲れ様でした。相変わらず忙しいでしょう――夕食は?」
「あぁ、今日は賄を食べたから大丈夫だけど……もしかして用意してた?」
「ううん、ごめんなさい。今日は何も準備してないの。もしお腹が空いているのなら、途中で買い物しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。とりあえず家に帰ろうか」
「えぇ。――あなたと会うのは一週間ぶりなのね。元気そうで良かった」
「あぁ、そうだね。そんなになるんだね。――舞ちゃんも元気そうだ。相変わらず……そのぅ……綺麗だよ」
照れたように頬を赤らめながらチラチラと恋人の顔を見る様子を見ていると、この後その口から厳しい話を聞かされるとは思えなかった舞は内心でホッと胸をなで下ろしていた。
実のところ、最悪の場合は彼から別れを切り出されるのではないかと思っていた。
もちろんそれは先日友人たちから聞いた話を自分なりに何度も考え抜いた結論の中の一つなのだが、その最悪のパターンとして既に覚悟をしていたのだ。
それが今の彼の様子を見ていると、どうやらそんな話にはなりそうにないと思えて安堵した。
「ふふふ…… ありがとう。あなたにそう言ってもらえるのが一番うれしい」
彼女の安堵が表情に現れていたのか、その顔にはいつにも増して柔らかい笑顔が浮かんでいた。
一緒に増田のアパートに入ると、普段は食卓として使っているちゃぶ台に二人は向かい合って座る。
明日は休みの舞に対して増田は明日も仕事だ。だから本当はすぐにシャワーを浴びて休んでほしいと思っていたが、今回は彼の方からの呼び出しなので、舞は敢えて何も言わずに増田が口を開くのを待った。
その間も何を言われるかと色々と想像をした舞は、床に正座をしながらも何処か落ち着かない様子だ。
そして些か顔に緊張を見せて背筋を伸ばして座る舞の姿を見つめながら徐に増田が口を開いた。
「この前はごめん。あれは全部優柔不断な僕が悪いんだ。君は何も悪くない」
「ううん、私もあなたの気持ちを察することが出来なかったから…… 私も悪いのよ」
「いや、でもそれは――ふぅ、もうこの話はやめようか」
「ふふふ……そうね。これじゃあ話が進まないわね」
互いに苦笑を浮かべていると、突然増田が真剣な顔になる。
その顔を見た舞も、正座をした足を整えて背筋を伸ばした。
「舞ちゃん。この一週間ずっと君のことを考えていたんだ。その間は君との接触を一切絶たせてもらって本当に申し訳なかったと思ってる」
「ううん、いいのよ。私もあなたの事をじっくりと考える時間がとれてむしろ良かったと思っているから」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ。それで――」
何かを言いかけた増田は、そこで言葉を切ってしまう。その後も何度か口を開こうとする素振りを見せながら、それでも声を出すことができなかった。
その様子を見た舞は、先ほどからの自身の安易な想像に対して少々後悔していた。目の前の恋人は、見るからに言い辛そうにしているではないか。
その話はきっと良い話ではないだろう。
「和也さん……いいのよ、たとえ言い辛い事でもちゃんと最後まで聞くから……」
「い、いや……ごめん。言うよ、ちゃんと言うから聞いてほしい」
「はい」
自分の顔を凝視する舞を見つめ返しながら背筋を伸ばすと、増田は一気に言い切った。
「僕と結婚してほしい」
「えっ?」
「も、もちろん今すぐにとは言わないし、何年でも待つから。――とにかく僕と結婚してほしいんだ」
「……」
「この一週間ずっと君の事を考えてきた。君との連絡もすべて断って自分なりに考えたんだ。でもやっぱり僕は君が好きなんだ。自分の年齢のことも君の家庭の事情もわかってる。そして君が社会に出たばかりの前途ある若者なのももちろんわかってる」
「……」
「それでも僕は君が好きなんだ。誰にも渡したくないし、君のいない生活は考えられない。もちろんこれは僕の一方的な気持ちなのはわかっているし、君が簡単に決められないのも十分に承知している。それに断られる覚悟だってもちろん――」
「いいわよ」
「嫌なら嫌って言ってくれて構わない。何の遠慮もしなくて……えぇ!?」
「えぇ、いいわよ。私もあなたが好きだから、断ったりしないわ」
「えぇー!?」
増田の瞳が今までに見たことがないほどに見開かれ、その口も大きく開かれたままだ。
それだけ舞の返事は彼にとって衝撃的だった。
実は自分の求婚に舞が頷くと増田は思っていなかった。
もちろん彼女が自分を好きな気持ちを疑ったことはないが、それはあくまでも恋人としての感情であってそこにいきなり結婚の話をするのは飛躍し過ぎだと思っていたのだ。
しかし彼はそれを伝えられずにはいられなかった。
結婚したいと思うほどに舞を好きな気持ちを伝えずにはいられなかったし、もしもそれで彼女が引いたり、重いと思われたり、最悪別れる原因になったとしてもそれならそれで仕方ないと思っていた。
もっともこのくらいのことで彼女の自分に対する気持ちが変わるほど弱いものだとは思ってはいなかったが、それでも今の告白は彼にとってはイチかバチかだったのだ。
「い、いいの? け、結婚だよ? 君の苗字が増田になるってことだよ? わかってる?」
「だからいいって言ってるじゃない。もちろん色々と片付けなければいけないことは多いから、今すぐには無理だけど……」
ここに来て思いがけない相手の返答に対して慌てふためく増田の姿と、落ち着いてしっかりと受け答えをする舞の姿が対照的だった。
「も、もちろんそれはそうだ。そのとおりだ。その辺の話はこれからゆっくり考えていこう」
「そうね、そうしましょう。――さぁ、もうこんな時間だからお風呂に入って寝なくちゃだめよ。明日もお仕事なんだから――私は休みだけど。うふふ、羨ましい?」
舞の瞳が悪戯っぽく細められると、増田はその顔に見惚れながら頭を掻いた。
「う、うん。もしも明日休みだったらこの感動をじっくり噛み締められるんだけど…… あっ!! ご、ごめん、君の返事にまだ礼も言ってなかったね――改めまして……ありがとう」
「いいえ、こちらこそ。そこまで私を好きになってくれて、どうもありがとう。……私ね、実は今日別れを切り出されるかと思ってビクビクしていたのよ……」
「そんな。僕が君と別れるなんて考えられないよ」
「ありがとう…… でもね、あなたが私との関係をとても悩んでいるのは知っていたし、あなたは優しいから私のことを思って身を引くんじゃないかって思ったりもしていたのよ……ごめんなさい」
これまでずっと冷静に見えていた舞だったが、遂に感極まって来たらしく増田が見つめる目の前でその瞳が潤み始める。
どうやら舞は増田に別れを切り出されるかと思っていたらしく、その前から彼女なりに色々と気持ちを整理していたらしい。しかし蓋を開けてみれば逆に求婚されるという結果に初めは驚いたようなのだが、必死に己の想いを口にする増田を見ているうちにそんな気持ちなど何処かへ吹き飛んでいた。
いままで出会った男性は、皆自分の容姿に心を奪われて本当の自分を見てくれる者はいなかった。
どうすれば自分と関係を結べるか、己の横を歩かせられるか、そんな事ばかり考えて東海林舞という一人の人間を理解しようとする者はいなかったのだ。
それが増田は違っていた。
確かに最初は自分の容姿に驚いていたし何処か余所余所しい態度を崩すことはなかったが、それでも一生懸命自分という人間を理解しようと努力してくれたのだ。この外見に惑わされることなく、必死に自分と向き合ってくれた。
確かに自分は結婚するには若すぎる年齢だとは思う。
しかし現状彼以上に自分を理解してくれる男性はいないし、きっとこの先も現れないような気がする。
手垢のついた言い方をすればそれはまさに「運命」と呼べる出会いだと思っていたし、自分からこの手を放そうとは思っていなかった。
「嬉しい……本当に嬉しい…… 和也さん、ありがとう」
「い、いや、それは僕の台詞だよ。僕が結婚を申し込んで君が頷いてくれたんだ。だからそれは僕の台詞だよ」
「ううん、違うの。あなたは私の外面ではなく内面を見てくれた。そして理解してくれた。それがとても嬉しいの。もう一度言うわ――どうもありがとう」
「――どういたしまして」
ちゃぶ台を挟んで座っていた舞が増田の横に座り直すと、そのまま体を預けた。
そしてそのまま二人は唇を重ねた。
こうして東海林舞と増田和也は結婚の約束をしたが、具体的に動くのは舞が成人してからにした。
それまではまだ一年以上あるので、その間に色々な問題をクリアーしなければいけないが、それを思うと少々頭が痛くなってくる。
しかし常に自分の横で微笑みを返してくれる最愛の恋人の顔を見ていると、それらは大したことではないような気がしてくるのだ。一人では難しい事でも、彼女と一緒であれば頑張れる気がした。
それは舞も同じだった。
両親に頼ることが出来ない彼女はこれまでずっと一人で頑張ってきたが、これからは自分を支えてくれる男性がいる。それを思うだけでなんだか穏やかな気持ちになるし、心が温かくなる。
二人が一緒なら、どんな困難でも解決できる。
二人が一緒なら、どんな事でも頑張れる。
だからこの先もずっと二人は一緒だ。
向かい合う二人の顔には、大きな決意が溢れていた。




