舞と増田 其の十三 若者の追及と追い詰められる中年
「増田さん、お願いがあります。私は東海林さんが好きなんです。だから彼女と別れてもらえませんか?」
伝票を持って席を立ち、そのまま会計に向かおうとする増田の背中に向かって長澤が言い放つ。
失礼を通り越して無礼とさえ言えるこれまでの長澤の言葉に然しもの増田も頭に来ていたが、自分は彼より年長者であることだけを理由に必死に怒鳴るのを我慢していたのだ。
しかし長澤の最後の言葉を聞いた増田は、遂に堪忍袋の緒が切れて大声を出した。
「ちょっと待ってください!! 言うに事欠いてそんなことを言いますか? それは失礼とか無礼とか言う問題じゃないでしょう!! なんですかあんた、人の恋人をそんなに奪い取りたいんですか?」
突然あげた増田の大声は、酔っ払いの喧騒で雑多な居酒屋の店内ですら十分に響いていた。その証拠にカウンター席の客のみならず、ボックス席の中からも数名が様子を窺うために顔を覗かせている。恐らく酔っ払いの喧嘩でも始まるのかと思ったのだろう。
しかしそれは半分当たっていた。
確かに二人は酒を飲んではいなかったが、増田の声の調子も顔の表情も今まさに喧嘩を始めようとするようにしか見えなかったのだ。その証拠にレジとカウンターにいた店員が慌てた様子で走り寄って来るのが見えた。
「いえ、なにも奪い取るだなんて……」
「いや、あんたが言っているのはそういうことだ!! 自分が好きになったから彼女と別れろって? ふざけんじゃないよ、そんな話に『はいそうですか』なんて言えるわけないだろう!!」
「ちょっと落ち着いて下さい。増田さん、お願いします」
見るからに優しげで大人しそうな増田が自分の発言によって激高したのを見てさすがの長澤も慌てる場面なのだろうが、不思議と彼にそんな様子は見えなかった。増田はその姿に妙な違和感を覚えたが、いまは彼に対する怒りの感情の激しさのために、そんなことはどうでもよくなっていた。
「これが落ち着いていられるか!! よくもまぁそこまで人を小馬鹿にした物言いが出来るもんだね、信じられんよ!!」
「お、お客さん、大きな声を出さないでください。他のお客様のご迷惑になりますので――」
少し大柄な二人の男性店員が近付いて来ると、増田と長澤を前後に挟むようにして立つ。
居酒屋という場所柄、普段から客同士の喧嘩も多いのだろう。彼らの淀みのない動きを見ていると、恐らくマニュアルにその動作は定めてあるに違いない。それでも喜んでそのマニュアルに従っているわけではないことは、彼らの困ったような表情を見ているとよくわかる。
店員の声と表情に増田が我に返ると、複数の女性店員が怯えているのが視界に入った。その様子に気付いた増田は、自身が店長を務めるファミレスを思い出すと急速に頭が冷えていったのだった。
「す、すいません…… 突然大きな声を出しました。もう大丈夫ですから、どうぞ仕事に戻って下さい」
何処かバツの悪そうな顔をしながら二人の店員に謝罪をすると、彼らはホッとした顔をしてそれぞれの仕事に戻って行く。その姿を暫くの間目で追っていた増田は、仕方ないといった風情で渋々また元の席に戻ると小さな溜息を吐いた。
「突然大きな声を出して申し訳ない。それでも私は君の最後の発言は許せないよ」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。」
再度ボックス席に座り直した増田は対面に佇む若者の顔を見つめたが、その顔には口で言うほどの謝罪の意思は見えなくて、尚も何かを言い募ろうとしている様子が見て取れるものだった。
「……もう少し話をお聞きましょうか。――長澤さん、それではあなたも舞さんが好きだと仰るんですね? そしてそれを態々私に伝えた挙句、彼女と別れろと?」
「……本当に自分勝手な話ですよね、それ。あなたにそう言われると、確かにそう思います。――でも今はそう言うしかないんです」
「月並みなことを申し上げますが、それは私にではなく彼女に言うべきでは? 私に身を引けと迫る前に舞さんに気に入られる努力をすべきだと思いますがね」
増田の言葉は正論中の正論だ。
好きな異性が出来たのであれば実力で奪い取れと言っているのだ。
「――増田さん、あなたはこの先どうするつもりですか? この先何年も彼女の恋人でいるつもりですか?」
「ですから、その質問に答えるつもりはないと言っています。いい加減にしてくれませんか?」
やっと頭が冷えて冷静に話をしようと思っていた増田の眉が再度上がると、釣られるようにその口調も険しくなる。普段温和で冷静な彼であったが、長澤の前では感情の振れ幅が大きくなっているように見えた。
しかしそんな事には一切構わずに若者が口を開く。
「いいえ、教えてください。あなたはもうすぐ四十歳だ。と言うことは、あなたはいずれ彼女との結婚を考えていると理解していいですか?」
「それは――」
「即答できないんですね。それではこの先数年付き合った後に別れるつもりですか?彼女とは所詮遊びだと?」
「あ、遊びなんかじゃない!! 僕は本気だ、本気で彼女と付き合っている!!」
「それじゃあやっぱり結婚する気はあるんですね? でもあなたの年齢を考えると――」
「あぁ、確かに僕はもうすぐ四十歳だ。でもその年齢で結婚する男なんて、このご時世では珍しくもなんともないだろう?」
「えぇ、確かにそうですね。うちの会社で去年結婚した人も四十二歳でしたし……でもそれはあくまでもあなたの話でしょう? 東海林さんの年齢を考えてください、彼女はまだ十八歳なんですよ?」
「そんなことはわかってる!! だから僕は悩んで――いや、なんでもない……」
何でもない風を装いながら、長澤の言葉は増田の痛いところを的確に突いてくる。
その様子を見ていると、彼が意図的にそうした言葉と態度をとっているのが何となくわかって来た。
長澤が勤めている住本不動産と言えば、旧財閥系のグループに属する全国規模の大手不動産会社だ。そんなところで企業を相手に日々交渉事を担当しているのであれば、相手の言動をある程度自分の望むようにコントロールする術は心得ていると思っていい。
よく考えるとさっきから声を荒げたり感情を害しているのは一方的に自分の方であって、長澤は常に冷静に淡々と言葉を紡いでいるだけだ。さっきから随分と失礼な男だと思っていたが、普通であれば言い辛いことでも平気で口にしてくるところも、相手の様子を見るためにわざとしているのだろう。
交渉事の基本は、まず実現不可能な提案を提示して相手の反応を伺ってから徐々にその妥協点を探っていくことだと聞いたことがある。それを考えると、さっき彼が舞と別れてほしいと言ってきたのも、もしかすると自分の様子を見るため試しに言ってみただけなのかもしれない。
「やっぱり悩んでいるんですか? 年齢の事で」
思わず最後に口走りそうになった増田の言葉を拾い上げると、長澤は尚も淡々と口を開いてくる。しかしその顔には何処か興味深い表情が浮かんでいた。
「い、いや、悩んでなんていませんよ。えぇ、本当に」
目の前の若者の表情の変化を敏感に感じ取った増田が慌てて取り繕ったが、すでにそれは遅すぎたようだ。どんなに平静を装っていても、長澤の目を誤魔化すことは出来なかったのだ。
しかしそんなことを噯にも出さずに、長澤は尚も淡々と話を続けようとする。
「彼女はこの春にやっと社会人になったばかりだし、それどころかまだ成人すらしていないですよね。そんな彼女のこの先の可能性をどうお考えですか?」
「そんなことはとっくに考えていますよ。暫く様子を見ながら彼女のしたいようにさせてあげようかと――」
「それでは彼女が適齢期になるまで待つんですか? 例えば二十代中頃までとか。でもそうすると増田さんはもう五十歳も近くなりますよね。その年齢で二十代の女性と結婚して、子供を作って、老後の――」
「や、やめてくれ!! それだって十分考えている。彼女にとって何が一番幸せなのかを考えているんだ」
「こう言っては何ですが、あなたが六十歳になった時でも彼女はまだ四十歳だ。今ならその年齢はまだまだ女盛りと言えるでしょうし、あれだけの容姿を持つ女性なのだから周りも放って置かないでしょうね。その時でもあなたは男として現役でいられるんですか?」
「そ、そんなこと君には関係ないだろう、もうほっといてくれないか!? もうこんな時間だし本当に帰らせてもらう」
そう言って増田が腰を浮かそうとしても、長澤は話をやめようとしなかった。
いや、むしろ更に饒舌にその口を動かし始める。
「普段の彼女を見ているととても楽しそうに仕事をしているし、話を聞くと今の仕事にやりがいも感じていると言っていました。若いうちに結婚しても子供がいなければこのまま彼女も働き続けられるでしょうが、あなたはそれでいいのですか? 彼女が子供を欲しいと言ったらどうするつもりなのですか? 仕事を辞めさせるつもりですか?」
増田の言葉には全く注意を払うことなく、長澤は自分の言いたい事だけを告げてくる。
そこだけを聞いていると二人は全く会話が噛み合っていないようにも聞こえるが、これも彼の方法なのかもしれない。事実、増田は防戦一方になってしまっている。
「それは…… も、もういいだろう? 僕は本当に帰るからな」
「あなたに結婚するつもりがなくて、数年間彼女と遊ぶだけであるのなら文句は言いません。私は正々堂々とあなたから彼女を奪い取るまでです。しかしもし結婚を考えているのであればまた話は違ってきます。さぁどっちなんですか?」
「僕は……」
「どっちですか?」
「僕は舞ちゃんと結婚したい。彼女を幸せにしてやりたいし、いまの生活を変えてあげたいんだ!!」
「……それを彼女に話したんですか? 結婚したいとも言いましたか?」
「いいや、まだ言っていないさ…… 確かに彼女の事情を考えると今すぐは無理かもしれない。でも彼女とは遊びじゃない、本気なんだ、僕は結婚したいんだよ」
「事情――?」
「いや、なんでもない。こっちの話だ…… さぁ、もういいだろう? 僕は自分の考えを話したんだ、もうこれで失礼する」
やっとそこで長澤は納得したように顔に笑みを浮かべる。
それは増田が見た初めての笑顔だった。
「今日はこんな遅い時間に呼び止めて大変申し訳ありませんでした。訊きたかったことは聞けましたので私もこれで失礼します。――あぁ、その伝票は私が――」
やっと長澤から解放された増田は、最後の挨拶もせずに無言で伝票をレジまで持っていくとそのままアパートへ帰って行く。そして最後に自分の顔を一度も見ないまま去った増田の後姿を眺めながら、長澤は小さな溜息を吐いたのだった。
――――
居酒屋を出た増田は、自宅アパートまでの道すがらずっとさっきの会話を思い出していた。
確かに長澤は男としては自分よりも上だろう。
顔はそれなりにイケているし、清潔感のある髪型も良く似合っている。背は自分より少し低いようだが、それでも平均以上はあるようだ。
そして贅肉の全くないスラリとした細身の身体は、若い女性が好みそうな鍛えられた筋肉質の体形に見えるし、脚だって長い。勤め先も旧財閥系の上場企業だし、あの感じでは仕事も出来るのだろう。
ここで多くは語らないが、それに比べてこの身体のだらしなさは自分でもどうしようかと思うほどだし、仕事だって安月給の雇われ店長だ。休みだって月に数度しかない。
そしてやはり一番の違いはやはり年齢だ。
彼はいま二十六歳だと言っていた。確かにその年齢だけで言えば未だ十八歳の舞と釣り合っているかと言えばそうではないのかもしれないが、それにしても三十八歳の自分よりは相当マシだろう。
彼は舞の事を好きだと言っていた。
そしてそのために初対面の自分に会いに来てあんな話をするくらいなのだから、その気持ちも本物なのだと思う。それが思い付きや軽いものであるのなら、好きな女性の恋人に向かって「別れてくれ」だなんて言えるはずもないからだ。
そして彼に追及されたことは、今まで頭が痛くなりそうなほど考えて悩み続けてきたことだ。
それは今まで誰にも相談したことはなかったし、自分がそんなことを考えているとも話したことはない。それを然もわかっているかのように追及されたのだ、それもあんな若者に。
もっともそれは少し考えればわかることなのだろうが、初対面の相手に面と向かって追及されるとは思ってもみなかった。
自分はあの若者に舞と結婚したいと言った。
それは嘘偽りのない本当の気持ちだし、彼女をほかの男に取られるなんて想像すらしたくない。自分があの若者よりも男として劣っているのは確かなのかもしれないが、それを理由に彼女を諦めるなんて絶対にあり得ない。
しかし自分だけがそう言っていても、舞がどう思っているかわからないが。
彼女は自分ともう一歩踏み込んだ関係になりたがっているが、それが結婚を意識したものなのかどうかは詳しく話をしてみなければわからないだろう。もしかすると結婚に拘っているのは自分だけであって、彼女はただ恋愛がしたいだけなのかもしれないのだ。
――そうだ。やはりこれは一度話をしてみるべきだ。
今まではその答えが怖くて敢えて訊かなかったり先送りしていたが、彼女が実際にどう思っているかを聞いてみなければ話は何も進まないのだ。
仮にその結果が自分の思っていたものと違っていたとしても、そこは甘んじて受け入れるべきだし、とにかく彼女の幸せを第一に考えるべきなのだ。
増田が自宅に戻った時には既に時刻は午前一時近くになっていた。
この時間からではもう遅すぎるので、明日の朝一番に舞にメッセージを送ってみようと思う増田だった。




