大学一年の五月の出来事 其の一 友人との再会
4月下旬。
桜子が大学生になって約三週間が過ぎた。
大学での生活にもすっかり慣れて、今ではもう教育学部の学生としての生活が板についているように見える。友達も大勢出来ていつも楽しそうにしている彼女の顔から笑顔が途切れることはなく、その様子からは彼女の順調な大学生生活が始まったことを垣間見えるものだった。
入学式には可能な限り目立たないようにと思い切り地味な黒一色のスーツに身を包んで臨んだのだが、他の出席者も同じような暗い色合いの洋服が多いうえに、髪もほぼ黒一色の会場では彼女の白に近い金色の髪はあまりにも目立ちすぎていた。
会場に入ってきた者が周りを見渡して一番最初にその金色が目に入ると、多くの人間は自然とそのまま視線を下におろす。するとそこには凡そ今まで見たことのないような、まるで天使か女神に見紛うほどの美貌を湛える少女が佇んでいるのが目に映るのだ。
そうなるとほとんどの人間――特に男――は目を大きく見開いてまるで信じられないものを見るような目つきで彼女の美貌を食い入るように見つめてしまい、自分の座るべき席を探す事すら忘れてしまう始末だった。
すでに席に着席しているので桜子の全身は確認できないが、それでも隣席の女性に比べてバランス的にかなり小さな顔と神がかり的に整った顔立ち、抜けるように白い肌、輝くような金色の髪からは彼女の飛びぬけた容姿がよくわかるものだし、さらに視線を下に向けると黒一色の地味なスーツを内側から盛大に押し上げているその胸の大きさも見る者が思わず二度見してしまうほどだ。
そして彼女の姿を見た多く者がその立ち姿を見てみたいと思ったようで、式が始まった直後に揃って起立した時には、皆が彼女の姿を目で追っていたのだ。――ほぼ男ばかりだったが。
顔が小さく座高の低い座った状態からは想像できなかったが、いざ立ち上がった桜子のその意外な長身とまるでモデルのようなスタイルには皆驚いていた。そして今日は特別にヒールの高い靴を履いている身長167センチの小顔スラっと美人の細身長身はさらに際立っていたし、思わず二度見してしまうほどの大きな胸がそれを見つめる男たちに止めを刺していた。
そんな多くの驚嘆と憧憬と羨望のまなざしの中心にいた桜子は、自分が周りからどう見られているかはもちろん十分理解していたので、出来るだけ顔を上げないように終始俯いた状態で周りをキョロキョロと見廻すようなこともしていない。
普段であれば俯いてさえいればその長い金髪で顔を隠すことができるのだが、今日は髪をきっちりと後ろに編み込んでいるのでそれも叶わなかった。だから終始俯いていたとはいえ、彼女はその整った白い横顔を多くの人に晒していたので、皆その顔に視線を吸い寄せられていたのだった。
秀人がいなくなってから桜子の意識は大きく変わった。
それ以前からも高校一年生の痴漢事件の直後から自分の容姿が周りからどう見られているかは理解できるようになったので、周りに人の目がある所では周囲を常に警戒するようになっていたし、プライベートで出かけるときは帽子を目深にかぶってその金色の髪と青い瞳を見せないように気を付けるようにもなった。
そしてここ最近では普段はスカートを履かずにデニムやワイドパンツで素肌や体のラインを出さないように気を付けるようにもなり、普段から出来るだけ目立たないようにひっそりと暮らすように心がけていた。
大々的に周りの注目を集めてしまいながらもなんとか無事に入学式が終了すると、桜子はホッと小さなため息を吐いていた。通常こういったイベント事で注目を集めてしまうと終わった直後に様々な人間から声を掛けられることが多いのだが、今回に関してはあまりそのようなこともなく、式が終わった後は粛々と皆帰る用意をしているように見えたからだ
それでも相変わらずチラチラと彼女の容姿に視線を向けてくる者は多かったし、中には話しかけようとして何度も躊躇している者もいたので桜子が若干身構えながら帰る支度をしていると、背後から急に声をかけられた。
「もしかして……桜子ちゃん……だよね?」
おずおずと遠慮がちなその声に桜子の動きが止まる。
せっかく誰にも話しかけられずに帰ることができそうだと思っていたのに、あと一歩のところで声を掛けられてしまった。そして一人が声を掛けるとその後も次から次へと別の人間にも話しかけられるのがわかっている彼女はまたしても小さなため息を吐いてしまう。
しかしこの時彼女は妙な違和感に襲われていた。
その声は間違いなく自分の名前を呼んでいる。
であるならば、少なくともその人物は自分のことを知っているはずだし、きっと自分も相手のことを知っているに違いない。しかし有明高校からこの大学に合格した者はいないはずだし、その他に付き合いのある知り合いでもこの大学に合格した者を自分は知らない。
そしてその声がどう聞いても女性の声に違いないところを考えると、最近疎遠になっていた古い友人だろうか。しかしその中でも国立大学に合格できるような成績上位者となると……
などと思わず思考の渦に巻き込まれそうになってしまった桜子だったが、冷静に考えれば何と言う事もない、単純に振り返れば良いだけなのに気が付いた。
それは田中陽菜だった。
彼女は桜子が小学校一年生からずっと同じクラスだった女の子で、当時は腰まである髪を三つ編みにして背中に垂らした小柄でおとなしい少女だった。
桜子が小学三年生の時、陽菜の家で秀人の交通事故について調べてもらったことがあり、それが切っ掛けで彼の実在の事実を知ったのだ。だから彼女は桜子の秀人についての理解を変える契機となった少女だと言える。
しかし校区の関係で中学が別になったので、小学校卒業を境にそれ以降疎遠になっていた。
約六年ぶりに会った陽菜は相変わらず背が低く小柄ではあったが、その可愛らしい顔つきは当時のままだし多少ムチムチとした柔らかそうな体つきとメガネが似合う真面目そうな雰囲気はある一定の層には人気がありそうに見える。そして振り返った桜子を見て満面の笑みを浮かべたその様子は、思わず桜子自身もつられてしまうような明るい笑顔だった。
「ひ、陽菜ちゃん!? 陽菜ちゃんだよね!?」
「あぁっ、やっぱり桜子ちゃんだ!! そうじゃないかって思ってたんだよね!! こんなに綺麗な色の髪の女の子なんて滅多にいないから!!」
彼女は久しぶりに再会した桜子の姿を、それこそ上から下までしげしげと見つめながら尚も言葉を続ける。
「それにしても……ずいぶん背が伸びたんだねぇ、もともと背は高い方だったけれど…… もしかして170センチくらいあるんじゃない? それに……」
彼女の視線が下に下がると、桜子の大きな胸の膨らみで視線が止まる。
その様子からは彼女が何を見て何を思っているのかは一目瞭然だったので、その視線に気づいた桜子は思わず恥ずかしくなってしまう。そしてさり気なくそっと胸を隠すように体勢を変えると口を開いた。
「あぁ、陽菜ちゃん、久しぶりだねぇ。元気にしてた? 小学六年の時以来だから……六年ぶりだね」
「そうそう。小学を卒業してから何回か会ったきりだったから、だいたいそのくらいだよね」
入学式も終わり、皆が帰り始めたざわざわとやかましい会場の片隅で久しぶりの再開を喜び合う二人には、最早横から話しかけてくる者はいなかった。その楽しそうに話す姿を見ていると彼女たちが旧知の間柄なのは一目瞭然だったので、親密そうに話しているところに態々横から口を挟んでくるような野暮な者はいなかったのだ。
話をしてわかったのだが、どうやら陽菜は同じ大学に進学する知人がおらず、入学式が始まるずっと前から一人で心細い思いをしていたらしい。そして緊張しながらいざ会場に着いてみると、遠目にどこかで見たことのある金色の頭を見かけたのだ。そしてもしやと思いながらも勇気を出して話しかけてみた結果がこうだった。
陽菜は今でもS町の実家に住んでいるし、桜子も引っ越したとはいえ同じS町の団地に住んでいる。そして同じ大学に知人がいないのもお互いに一緒なのでこれで二人の付き合いが復活しない理由は見当たらなかった。この日以来彼女たちは大学でも一緒に行動するようになったのだった。
その後二人は熾烈とも言えるサークル勧誘をすり抜けながら、桜子は「ワンダーフォーゲル部」へ、陽菜は「演劇研究会」の各サークルに加入してそれぞれが活動するようになるのだが、それはまた別の話になる。
「えぇ!! 桜子ちゃんって木村君と付き合っているの!? 木村君って、あれでしょ? ほら、小学校の同級生のあの細い目の…… い、いつから?」
昼休みの学食に甲高い黄色い声が響く。
今はちょうど昼食を食べ終わったところで、次の講義の時間まで少し時間ができた桜子と陽菜がペットボトルの紅茶を片手に雑談をしていると、話の流れで今付き合っている人がいるのかを陽菜に聞かれたのだ。
実は陽菜はその話題を単に会話の切っ掛けくらいの軽い気持ちで聞いてみただけだったのだが、実は桜子の彼氏が陽菜も知っている人物であったことに驚くと同時に、猛烈な好奇心が沸き上がってきたのだ。
「うん、そうだよ。健斗とは中学一年のバレンタインデーからだから、付き合ってもう五年になるかなぁ」
「そんな前から? それじゃあ木村君以外とは付き合ったことないんじゃないの?」
「そうだね。あたしは健斗以外は考えたこともなかったし…… 彼以上に素敵な男の人もいなかったしね」
そう言いながら最愛の恋人の姿を思い出した桜子は白い頬をポッと染めて恥ずかしそうに俯いてしまう。するとその様子を見ていた陽菜は「おや?」とちょっとした違和感に襲われる。
中学一年の時から既に五年も付き合っていれば、お互いにもう熟年夫婦のように酸いも甘いも噛み分ける関係なっていてもおかしくはないのに、今の彼女の反応は妙に初々しいのだ。
しかも聞けば彼女たちは一歳になる前からの付き合いの幼馴染だとも聞いているので、尚更その反応に違和感を感じてしまう。
それが今のようにまるで初心な反応を見せるということは、もしかして……
「あ、あのね、桜子ちゃん、失礼を承知で聞くけれど…… もしかして木村君とはまだ……」
突然自身の耳に顔を近づけて小声で囁く陽菜の様子に釣られたように、桜子も小声で答える。
「……ど、どうしてわかるの? もしかしてあたしって、そんな雰囲気を出してる……?」
「う、ううん、べつにそういうわけじゃないけど…… ところで木村君は今どうしているの?」
「彼はいまI体育大学に通っているんだ。春から一人暮らしをしているんだけど、新生活が始まったばかりの今月はお互いに忙しくてまだ会ってないんだよ。それで来週から始まるゴールデンウィークに会う約束になっているんだけど……」
桜子の歯切れが悪い。何か気になることでもあるのだろうか。
「どうしたの? なにか気になることでもあるの?」
「それが…… 彼は大学で柔道部に入ったんだけど、連休中は新歓稽古があるからゴールデンウィークも会えなくなるかもって……」
健斗は体育大学に入学すると同時に柔道部へ入部した。
建前上は新入生の体育会系の部活への入部は必須とはなっていないのだが、仮にも体育大学に推薦で入学した者が体育会系の部活動に加入しないという選択肢があるわけもなく、彼は迷うことなく柔道部に入部していたのだ。
もっともそんな事情がなかったとしても、健斗は率先して柔道部には入部していたと思われるのだが。
多くの大学生がそうしているように、彼もまたアルバイトを始めていた。
部活動が終わった後の夜間に居酒屋のホールで月曜から土曜まで週6日働いていて、遅い時間ではあるがそこでは賄いが出るので生活費を切り詰めたい健斗にとってはとても有難い職場だ。
土曜日は授業がない代わりに朝から昼過ぎまで部活の練習があるので、彼が完全に自由になるのは日曜日だけだ。それでも引っ越し屋のアルバイトに登録したので、時々単発で仕事が入ることもあるらしい。
健斗が実家のあるS町に帰って来るにしても特急列車で三時間はかかるし交通費も馬鹿にならないので、普段の健斗と桜子は携帯電話のSNSでお互いに写真やメッセージを送り合ったり、無料通話を使って深夜に電話をするしかなかった。
これまでの18年間、生まれてこの方これほどお互いの顔を見ない生活をしたこのなかった二人は、最初の頃こそ寂しくなったり、急に会いたくなったりもしたのだが、それでもそんな生活を約一か月も続けているうちに徐々にその生活にも慣れている自分に気が付く二人だった。
「そうなんだ…… それじゃあ彼がこっちに帰って来るのは難しそうだね」
スマホのカレンダーを眺めながら桜子の話を聞いていた陽菜が呟いている。その目は何度もカレンダーの上を忙しなく動いて何かを必死に考えているように見える。その姿をぼんやりと桜子が眺めていると、彼女は急にスマホの画面を桜子に向けた。
「この連休に木村君がこっちに帰って来れないのなら、桜子ちゃんの方から行ってみたら? ほら、この日曜日に引っ越しのアルバイトが入っていなければ、土曜日の夜に行けば日曜日の夕方まであっちにいられるでしょ?」
「なるほど…… そうだね、こっちから向こうに行くのもありかもね…… でも土曜日の夜に行くんなら、どこか泊る所を探さなきゃ……」
「なに言ってるの? 木村君に会いに行くんだから、そのまま彼の家に泊まればいいじゃない。彼はアパートに一人暮らしなんだからなんの問題もないでしょ? あとは桜子ちゃんのお母さんにアリバイを作らなくちゃだけど…… うん、私に任せて。家で二人で女子会をしたことにしておいてあげるから」
陽菜が何処か悪戯っぽい笑顔を見せながら桜子を見つめている。
すると一瞬遅れて桜子がおかしな声を上げた。
「えっ…… えぇぇぇぇ!?」