舞と増田 其の十二 長澤のお願い
「ほらっ、逃げないと捕まえちゃうぞぉ!! それぇー!!」
「きゃー!! あはははは――」
背後に遠ざかる公園から再び若い女性と子供の歓声が聞こえる。
その声に思わず振り向きたくなる衝動を押さえつけながら前を向いたまま歩き続ける長澤は、ずっと舞のことが頭から離れなかった。
これまでずっと凛とした佇まいの大人びた美女だと思っていたが、実際の彼女はそうではなかった。休日に年の離れた弟妹と一緒に公園を走り回るような無邪気な顔をした彼女は意外にも幼く見えて、普段の様子からかけ離れたその子供っぽい姿は長澤の胸を大きく揺さぶる。
もちろん本当の舞の姿が普段職場で見るそのままだとは思ってはいなかったが、まさかここまで大きくかけ離れているとは思わなかった。その落差は良い意味で予想を裏切っていたのだ。
職場ではつんと取り澄ました大人びた女性なのに、実際の彼女は幼げな振舞いすら垣間見える無邪気なところを持つ未だ少女とも言えるような女性で、化粧を落としたその素顔は美しさの中に可愛らしさを併せ持つ十八歳という年齢だけが持ち得る不思議な透明感を醸している。
そして見慣れたスーツ姿の時でも思わず見惚れるような素晴らしいスタイルは、些かラフな普段着であっても微塵も和らぐことは無く、むしろ身に纏うタイトなシャツとジーンズはその素晴らしいモデルのような肉感的な身体のラインを際立たせていた。
どうやら彼女の弟妹は姉に恋人がいることを知らないらしい。
どうして彼女がそれを隠しているのかはわからないが、なにか彼らに言えないような理由でもあるのだろうか。あぁ――もしあるとするなら、それはきっと彼の年齢かもしれない。
見たところ舞の恋人の年齢は四十歳前後に見えた。
彼女の両親の年齢は知らないが、彼を弟妹達に伏せているということはもしかすると彼らの父親の年齢に近いのかも知れない。その年齢は彼女よりも二十歳以上年上になるのだし、その理由は大いにあり得るだろう。
まさか外見がイケてないからという理由で恋人を隠すというのも考えにくいので、やはり理由はそこなのかもしれない。
あぁ、やはり彼女には自分の方が似合っているのだ。
確かに年齢は八歳離れているが、それだって二十歳差とは比べられないだろうし、自分で言うのもあれだが外見だって決して悪くはない方だ。さすがに背の高さでは負けてしまうが、彼が勝っているのはそこだけだ。
それにしても本当に彼女はあの男のどこが良いのだろう。
一見してイケていない中年親父でしかないのにも関わらず、舞の好意を一身に受ける秘密をあの男は何処かに持っているに違いないのだ。
それを知るためにはやはり一度会ってみるしかないのかも知れない――
――――
平日の舞は夕食の用意から宿題の確認、翌日の持ち物の準備など年の離れた弟妹の面倒を見るのに追われるのと、翌日の仕事のために夜更かしが出来ないために、精々増田のアパートに夕食を届けに行くくらいしかしていなかった。
しかしそれだけでも増田はとても喜んでいたし、彼女が作り置きしていった夕食を摂りながら週末に舞に会えるのを指折り数えて楽しみにしていた。だが先週の金曜日の夜に彼女が激高して部屋から走り去ってからは何となく週末になるのを気まずく感じていたのだ。
実は先週の土曜日の夜に舞からSNSのメッセージが来ていた。
それまでは何度増田がメッセージを送っても只管既読スルーを決め込んでいた舞だったが、突然の返信の中で彼女は金曜の夜の出来事を謝罪して、また明日の夜に夕食を届けに来てもいいか訊いてきた。しかし増田は敢えてその質問に少し時間が欲しいと言って断ったのだ。
もちろん彼はその返信が舞を傷つけるであろうことは十分承知していたし、出来ればそんな事は言いたくなかった。しかし増田は舞と少し距離を置いた環境で今後の事を考える時間が欲しかったのだ。
増田からのSNSの返信内容に些か狼狽した舞ではあったが、その短い文面の行間から滲み出る彼の苦悩を敏感に感じ取った彼女は、自分の頭を冷やす意味でもその内容に素直に従った。
先週の金曜の夜に舞が自分の部屋を飛び出して行って以来増田は彼女に一度も会おうとせずに、その間はSNSでのやり取りまで一切やめて只管舞のいない環境を作りながら、職場とアパートの往復とその合間に彼女の事を考える毎日を送っていたのだった。
それは木曜日の夜だった。
増田が部下社員を見送ってファミレスの裏口から出てくると、そこに見知らぬ男が立っていた。その男は薄暗い外灯に照らされながら裏口から出てきた増田の姿を確認すると徐に話しかけてくる。
「こんばんは――あの、突然すいません。住本不動産の長澤と申しますが、少しお話してもよろしいでしょうか?」
「えっ!? な、なんですか……?」
暗がりから突然現れて自分に話しかけてきた長澤の姿に、若干怯えるような様子を見せながら増田が後退る。それもそうだろう、あと一時間もせずに日付が変わるという遅い時間に、暗がりから知らない男が話しかけてきたのだ。これを怯えるなと言う方が難しいだろう。
「あ、いや、すいません。怪しい者ではありませんから…… 東海林舞さんについて少々お話がありまして……」
その言葉を聞いた増田の顔に徐々に理解の色が広がる。
それまでは相手の正体が不明なのが気持ち悪くて思わず怯えてしまったが、舞の名前と勤め先の名称を聞いて目の前の男の正体が朧気ながらわかったからだ。
しかしこんな時間にこんな場所で話しかけてきた理由が全く不明なのは相変わらず気持ち悪いままだった。
「舞ちゃんについて……? こんな場所で? なんですか、あなた」
それまで長澤に怯えるような視線を向けていた増田だったが、次第にその顔には胡乱な表情が浮かんでくる。突然こんなところで話しかけてきたのだから相当緊急の要件なのだろうと思ったが、話を聞いてみるとそれは自分の恋人についてだと言う。
「あ、いや、本当にすいません。自分がとても非常識なことをしているのはわかっています。それでもどうしてもあなたと話がしたくてここで待っていました」
「僕と話……?」
「はい。東海林さんについて少しお話をさせていただきたいのですが――」
「……わかりました。ここではなんですから、移動しましょう」
ファミレスから歩いて二分のところにある居酒屋に移動すると、そこで二人はボックス席に入る。もちろんそこでは酒ではなくコーヒーを注文した。
本当は喫茶店のようなところに入りたかったが、もうすぐ日付が変わるこの時間ではこの店しか開いていなかったからだ。
「……それで、ご用件はなんでしょう?」
居酒屋のボックス席で向かい合って座る増田の顔には只管胡乱な表情しか浮かんでいない。もちろんそれは長澤も十分理解していたし、増田の心境も想像できた。
そもそもこんな時間に見も知らぬ人間に話があると言われたのだ。それを不審がるなと言う方が無理な話だろう。
「はい。再度名乗りますが、私は住本不動産に勤める長澤優成と申します。部署は違いますが東海林舞さんとは一緒にお仕事をさせていただいております。この度のこのような非常識な行いをお詫びいたします」
「いえ、お詫びは結構ですが…… あぁ、申し遅れました。私は増田和也と申しまして――って、知ってるんですよね、きっと」
実は長澤は増田の名前を知らなかったのだが、そこは敢えて触れないことにした。
「それで、なんのお話ですか? さっき舞さんの名前を仰っていたようですが……」
「はい。不躾なのは十分承知でお訊きしますが、あなたは東海林さんの恋人なんですよね?」
それまで申し訳なさそうだった表情を急に真顔に変えると、まるで増田の品定めをするようにその視線を走らせる。自分から不躾だとは言っていたが、本当にそれは失礼だろうと思いながらその視線を感じた増田は些か不審な顔でその問いに答える。
「はい、そうですね。確かに私は舞さんとお付き合いさせていただいておりますが、それがなにか?」
「失礼ですが、増田さんの年齢は?」
その問いに、本当に失礼な若者だと思いながら増田は答える。
「三十八歳ですが。そういうあなたは?」
「二十六歳です。――単刀直入にお訊きしますが、あなたはご自分の年齢についてどう思っておいでですか?」
「どうって? 仰る意味がよくわかりませんが」
長澤の言葉の意味をわかっていながら敢えて増田はそう答える。
初対面の相手に対してあまりにも無礼な若者への意趣返しのつもりなのだろう。
「ご自分と東海林さんの年齢差についてお訊きしています。再度お訊きします、どうお思いですか?」
「どうって……それをあなたに説明する必要を私は感じませんが」
長澤を見つめる増田の目が細くなる。
普段は口調も雰囲気も柔らかい彼だが、三十五歳という若さで駅前のファミレスの立て直しを任されるほどの人物だけあり、スイッチが入るとまるで別人のようになる。そしてその様子を目の前で見ていた長澤は、自分が少々相手を見くびっていたことを思い知らされていた。
舞と一緒の時の増田は優しく大人しそうな気の小さい男にしか見えなかったので、長澤は彼の人柄を完全に見誤っていたのだ。たった一言ではあったが、いまの増田の返答に力強さを感じた長澤は思わず背筋が伸びる思いをする。
「そうですか、失礼しました。それでは東海林さんの事はどうお思いで?」
「……さっきから聞いていれば、あなた随分と失礼な人ですね。私が舞さんとお付き合いしているのを知っているんですよね? それなのに敢えてそれを訊きますか?」
「いえ、あくまでも確認のつもりです。気に障ったのでしたらお詫びします」
そう言いながら全く悪びれる様子も見せずに頭を下げる長澤を、増田が面白くなさそうな顔で見ている。彼が人前でそんな顔をするのは珍しいと言えるほどで、彼が相当感情を害しているのは間違いなかった。
「それにさっきからまるで尋問のように私と舞さんについて訊きますが、あなたには全く関係ないことですよね? ですから私も答える必要を感じません。これ以上こんな話が続くのであれば私はこれで失礼します。もう日も跨いだので早く帰りたいですから」
そう言いながら増田が伝票を持って立ち上がろうとすると、長澤ははっきりと聞こえるように声を出した。
「増田さん、お願いがあります。私は東海林さんが好きなんです。だから彼女と別れてもらえませんか?」