舞と増田 其の十一 弟妹と先輩
喫茶店で桜子たちと別れた舞は、まるで打ちひしがれたようにしょんぼりと肩を落としながら家に帰って行く。途中で夕食の買い物をするためにスーパーに寄っても、ただぼんやりと買い物かごの中に物を放り込むだけで晩御飯の買い物としては役に立つものではなかった。
結局自分が何を買ったのかもよくわからないまま自宅マンションの前まで歩いて来ると、建物の敷地内に併設されている小さな公園に弟と妹が遊んでいる姿が見えた。
「あっ、お姉ちゃんだ!! お姉ちゃん、おかえりー」
「おかえりー」
買い物袋をぶら下げた舞の姿を見つけると、弟妹が嬉しそうな顔で寄って来る。
舞はそんな二人の身体を抱きしめると、意識して顔に笑顔を作った。
「ただいま。せっかくの日曜日なのに、今日は何処にも連れて行ってあげられなくてごめんね」
「いいよ、べつに。お姉ちゃんだって用事あったんでしょ? 僕たちはここで遊んでいたから平気だよ」
「うん、お友達とも遊べたし楽しかったよ」
「そう……良かったわね」
自分に向かって無邪気な笑顔を見せる弟妹の姿を見ていると、さきほど喫茶店で光に言われたことを思い出して自然と目に涙が溢れて来る。舞はそれを見られないように慌てて手の甲で拭ったが、やはり二人には気付かれてしまった。
「……お姉ちゃん、どうしたの? 何かあったの?」
「どこか痛いの? 大丈夫?」
バレないように涙を拭いた顔を下から覗き込んで二人は心配そうに声を掛けて来る。そんな彼らの顔を見た舞は再度無理に笑顔を作った。
「ねぇ、お母さんたちはどうしたの? 家にいるの?」
「お母さんとおじさんはどっか出掛けたよ。お昼過ぎに二人でいなくなっちゃった」
自分たちを置いて行った母親たちに何の疑問も持たずに話す彼らの姿を見ていると、舞はまた涙が出そうになる。そして義理の父親を今でも「おじさん」と呼んで一線を引いた態度しかとらない二人の姿もまた同様だった。
さっきの喫茶店での話ではないが、自分が増田との未来を選べばこの二人の今後はどうなるのだろうか。幼少期に自分が母親から受けた仕打ちを考えると、再婚したとは言え両親がこの先この子たちの面倒を見てくれるとは到底思えない。だからと言って妹が高校生になるまで待つのであれば、あと六年はかかるだろう。
色々と考える事や解決しなければいけない問題も多いのは確かだが、今ここで何か良い解決方法が思いつくとも思えなかった舞は、とりあえず今は考えるのをやめようと思った。
「ようし!! 晩御飯まで少し時間があるから――そうだ、鬼ごっこしようか?」
未だに溢れる涙を振り払うように舞は大きな声で二人に声を掛けると、彼らは嬉しそうに顔を輝かせる。
「うん、いいよ!! お姉ちゃんと鬼ごっこするのは久しぶりだね。よぉし、負けないぞ!!」
「それじゃあ最初はお姉ちゃんが鬼だよ、いい?」
「いいわよぉ、それっ、捕まえるぞ!!」
「きゃー、あははは!!」
「あはははは!!」
夕暮れ迫る小さな公園で少し年の離れた姉弟たちが歓声を上げていると、少し離れた所からその姿を見ている一人の男の姿があった。その男は公園で走り回る長女と思しきスラリと背の高い女性の姿を目で追いながら、何処か見惚れたような顔で立ち竦んでいる。
それは長澤だった。
彼は夕方に買い物に出かけた時、スーパーで買い物をする一人の女性の後姿を見ていた。初めはスラリと背の高いその女性の後ろ姿に舞の姿を重ねていただけだったが、その背中を見ているうちに昨夜の彼女を思い出すようになっていた。
今まで彼が出会った事がないほどの美貌とスタイルを誇る女性が、お世辞にも決してイケているとは言えない中年男性と付き合っている事実に打ちのめされたのだ。そしてそれだけではなく、その後のお泊りデートの様子まで垣間見てしまった。
それは長澤にとって相当ショックな出来事であると同時に、多くの疑問を感じさせるものだった。
ここで多くは語らないが、要約すると舞と増田は全く釣り合っていないというもので、あの男であれば自分の方が絶対に男として勝っているというものだ。
しかし増田の事を何ひとつ知らない長澤が何をもって彼に勝っていると思ったのかは知らないが、その判断基準は精々外見だけのものだ。たったそれだけで男としての優劣を決めてしまう長澤はやはり若いと言わざるを得ないのだろう。
スーパーで見かけた女性の背中に舞の姿を重ねていた長澤だったが、彼女が振り向いた瞬間彼は凍り付いたように身動きが出来なくなった。
あろう事か、それは舞本人だったのだ。
いつもの見慣れた化粧をした姿ではなかったが、その女性は見紛うことなき東海林舞だった。
以前に雑談をした時に言っていた通り休日の彼女はほぼ素顔に近い薄化粧で、いつもは後頭部に束ねている黒くて長い髪はそのまま背中に流されて、服装も綿シャツにデニムといったラフな格好だ。
それでも彼女の美貌とスタイルは何一つ損なわれておらず、周りの男性客がチラチラと視線を走らせている事からも彼女が周りから注目されているのはとても良くわかる。
長澤が知っている東海林舞はバッチリとメイクを決めているので、彼も本人から年齢を聞くまでは同年代かと思うほど大人びていた。しかし目の前の素顔の彼女は何処かあどけなさを残した十八歳という年齢相応の顔つきで、美しいという表現と同時に可愛いらしいとも言えるものだ。
これまでも何度も彼女に見惚れて来た長澤ではあったが、今の素顔の舞を見た瞬間に彼の中で何かが変わっていくのがわかった。いままではある意味「作られた東海林舞」を見ていたが、今目の前にいるのは本当の彼女の姿だ。それを思うと余計に彼女を想う気持が強くなるのが自分でもわかるものだった。
普段は受付嬢用のジャケットに隠されている彼女の胸は、やや体にぴったりとしたシャツのせいで余計に胸の大きさと形が強調されていて、思わず長澤はそこから目を離せなくなってしまう。そしてこれもまた身体にぴったりとしたデニムは、スーツを着ている時にも思っていた通りやはりその少々肉感的な尻を強調していた。
まさかこんなところで彼女に遭遇するとは思っていなかった長澤が、初めて見る舞の本来の姿に見惚れているうちに彼女は会計を済ませてスーパーを出て行ってしまう。
すると良くない事だと思いつつも、長澤は舞の自宅を確かめるために後をつけて行く事にしたのだった。
そしてマンション前での鬼ごっこの姿である。
話をする雰囲気から恐らく年の離れた弟妹だろうと思われる二人の小学生は、やはり何処となく舞の面影を感じさせるものだ。
そんな無邪気な子供を相手に、長澤が隠れて見ている前で舞は鬼ごっこを始めた。
小学生を相手に走り回る舞の顔には本当に楽しそうな心からの笑顔が溢れており、それは職場では絶対に見せない表情だ。現にその顔は長澤も一度も見たことが無いもので、時折歓声を上げるその姿もまるで子供のように無邪気なものだった。
そんな彼女の姿を見てしまった長澤の胸には締め付けられるような痛みが走り、どうしてもここで声をかけたい気持ちに抗えなくなってしまう。
「やぁ、東海林さん。楽しそうだね、鬼ごっこかい?」
歓声を上げて逃げ回る幼い弟妹を舞が追いかけていると、その背中に突然声をかけてくる者がいた。
それまでとても楽しそうに走り回っていた彼女は、その声を聞いた途端動きを止めて声の出所をきょろきょろと探しだす。
自分に声をかけてきた者の姿を探す舞の顔には不審な表情が浮かんでおり、その顔からは決してその声を歓迎してる様子は見られなかった。普段から知らない男に声をかけられ慣れている舞であっても、弟妹と一緒に遊んでいる時にまでそうされるのは面白くないのだろう。
瞬間定まらなかった舞の視線が一点に集中すると、そこには長澤の姿があった。
舞と目があった長澤は手を上げて挨拶をしようとしたが、途中でその手がとまってしまう。なぜなら自分を見つめる彼女の顔があまりに不信感に満ちていたからだ。職場では内心を隠して愛想笑いを振り撒いていても、プライベートでは顔にその感情をはっきりと現していたのだ。
まるで不審者を見るような目つきで自分を見つめる舞に長澤がたじろいでいると、次の瞬間に彼女はその表情を和らげた。どうやら目の前の男が誰なのかを理解したのだろう。
一人で外を歩いていると度々知らない男に声をかけられる舞は、それがどんな男であっても決して警戒心を緩めなければ安易に会話をすることもない。ちょっとでも隙を見せれば即座に付け入られるのがわかっているのでそれは有り得ないことだった。
しかしいま目の前にいる男がつい先日も一緒に飲み会に行った職場の先輩――舞は派遣社員だし部署も違うが――であることに気付くとその顔には見慣れた愛想笑いが浮かび始める。その顔は長澤が普段見慣れているのと同じものだったので、やっとそこで彼は安堵した。
前髪を下ろして上下ジャージ姿の自分のことを、きっと彼女はわからなかったのだろうと理解した。
「あぁ、ごめん、俺だよ、長澤だよ。急に声をかけてごめん、びっくりしたよな」
「――長澤さんじゃないですか。あぁ、先日はありがとうございました……今日はどうしたんですか?」
恐らく内心では不審に思っているのだろう、舞はその顔の愛想笑いは崩していないが決して長澤に近づいて来ようとはしなかった。
そんな彼女の心情を敏感に感じ取った長澤は、まるで言い訳をするように口をひらく。
「うん、ちょっと夕食の買い物にスーパーまで行ってきたんだ。天気も良いし少し時間も早かったから回り道をしたんだけど、そうしたら偶々君を見かけてさ」
そう言いながらスーパーのビニール袋を持ち上げると、中には缶ビールと総菜らしきものが入っていた。恐らくそれは今夜の夕食なのだろう。
「随分楽しそうだけど、この子達は君の弟と妹かい?」
「はい、そうです。せっかくの休みなのに今日はあまりかまってあげられなかったので少し遊んでいました」
そう答える舞の顔にもう不審な表情は浮かんでいないところを見ると、どうやら彼女は長澤の言葉を信じたようだ。
いまの彼女の顔には普段と変わらない微笑みが浮かんでいる。確かにその笑顔は一目で目を奪われるようなものだが、彼女が弟妹達と遊んでいた時の顔を見てしまった長澤にはその笑顔が意図的に作られたものであることがわかってしまう。それほど彼女の素の笑顔は心を奪われるようなものだったのだ。
「そっか。いつもは凛とした感じだけど、君も家に帰ると優しいお姉さんだったんだな。なんか意外だったよ。……あぁと、べつに変な意味はないよ、ごめん」
「いえ、いいですけど…… あぁ、私の方こそごめんなさい。こんな格好で失礼しました」
突然思い出したように自分の格好に気付くと、少々恥ずかしそうにする。
今日一日休みだった彼女は、全く飾り気のない白いシャツにややぴったりとしたジーンズを着て、黒くて長い美しい髪を背中に流している。そしてほぼ素顔と言っても良いほどの薄化粧しかしていないその顔は、年相応のあどけなさを残していた。
長澤にはバッチリとメイクをキメている姿しか見せたことがなかったので、休日のラフな格好を見られたのが少々恥ずかしかったようだ。あどけなさを残した顔に恥じらいを浮かべた舞の顔を見た長澤は、彼女の意外な側面とその素顔に思わず見惚れそうになった。
「い、いや、全然気にしなくていいよ。俺だってこんな格好しているんだし、東海林さんには何も言えないって」
そういう彼の格好もそれなりだ。
いつもは上に上げている前髪は下に下ろしているし、服装だって上下ジャージだ。
確かに彼の姿は今の舞に対して何か言えるような恰好ではなかった――と言うよりも、むしろ彼の方がラフすぎる格好と言ってもいいものだろう。散歩をするには些か緩すぎる服装と言えなくもない。
「うふふ、確かにそうですね。まぁ、休みの日までビシッと決めている人の方が少ないでしょうから」
「まぁね。ははは」
「ねぇお姉ちゃん、どうしたの? このお兄さん、お姉ちゃんのお友達なの?」
鬼ごっこの途中で立ち止まって急に見知らぬ男と話し出した姉の姿を不思議そうな顔で弟が話しかけてくる反面、妹は公園の遊具の陰に身を隠すようにしてこちらの様子を伺っている。そんな弟妹たちに向かって舞が呼びかけた。
「そうよ。この人は長澤さんって言って、お姉ちゃんの会社の先輩なの。ここで偶然会ったから少しお話していたのよ。ほら、あなた達もご挨拶してちょうだい」
「はーい。えぇと、こ、こんにちは」
「はい、こんにちは。おぉ、きちんと挨拶出来て偉いな。お兄さんは長澤っていう名前で、君たちのお姉ちゃんと一緒に働いているんだよ。よろしくな」
「あ、はい。よろしくお願いします」
小学校五年生の弟は近くに寄って来るとハキハキと挨拶をしたが、四年生の妹は遊具の陰から顔を半分だけ出して長澤を見つめたままだ。知らない男の人に近づいてはいけないとの姉の教えを律義に守る彼女は、その顔に警戒心を露わにしている。
そんな妹に長澤がニコリと笑いかけると、彼女は再び遊具の陰に隠れてしまう。
「ごめんなさい。妹には普段から知らない男の人とは話しちゃいけないって教えているから……」
「いや、いいんだ。こんな格好じゃ不審者だと思われても仕方ないしな」
「ねぇお姉ちゃん、この人ってもしかしてお姉ちゃんの彼氏なの?」
舞の弟――颯太が目を輝かせて興味津々に訊いてくると、その言葉に敏感に反応した妹――日葵も長澤の姿を見ようとして顔を覗かせる。彼女の顔は先ほどまでの人見知りするような胡乱なものではなく、興味を惹かれて観察するような表情に変わっていた。
「ち、違うわよ!! この人はお姉ちゃんの会社の先輩で、彼氏じゃないから!! もう、何言ってるのよ――って、ご、ごめんなさい、長澤さん」
「いや、別にいいよ」
「なぁんだ、違うのかぁ。あぁーあ、やっとお姉ちゃんにも彼氏ができたのかと思ったのにな」
「こ、こらっ、颯太、失礼でしょ」
「ははは、君の彼氏に間違われるなんて光栄だよ。もし本当にそうだったら嬉しいけどな」
「な、長澤さん……」
「ははは、冗談だよ。――でも休日のこの時間にこうしているってことは、やっぱり彼氏とは休みがあわないのか?」
楽しそうに半分冗談めかして長澤が話すのを、まるでその真意を測るかのように舞がその顔を見つめる。口元には未だ微笑が浮かんではいるが、その目は決して笑ってはいない。長澤はそんな彼女の様子に気付いていないのかそのまま呑気に話し続けようとすると、それを遮るように舞が声を出した。
「すいません、弟たちの前でその話はやめていただけませんか? 彼らにはまだ何も言っていないので……」
「……あぁ、ごめん。そうか――無神経だったな。申し訳ない」
「いえ、こちらこそ失礼しました……あの、弟妹が待っているのでそろそろ――」
そう言いながら舞が後ろに視線を移すと、そこには鬼ごっこの途中に放置されたままの弟妹の姿が見える。彼らもどうしたものかと顔を見合わせていた。
「あぁ、重ね重ね申し訳ない。それじゃ、俺はもう帰るから。また明後日。お疲れ!!」
「あ、はい、お疲れ様です……」
プライベートな会話の締めが「お疲れ様」というのもなんだかおかしな話だと思いながらも、舞はその場で踵を返して歩き出した長澤の背中を見つめながら考えていた。
彼は買い物の帰りに偶々ここを通りかかったと言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか。彼が手に下げていたビニール袋は直前まで自分が買い物をしていたスーパーと同じものだし、あそこから彼の家までは大きく遠回りをすることになる。
確かに彼が言っていた通り散歩のついでのようにも見えなくもないが、もしかして自分はつけられていたのではないだろうか。
――いや、まさかそんなことはないだろう。
MK商事の担当者にラブレターを渡されそうになった先日の出来事以来、立て続けに長澤と顔を合わせる機会があったのは間違いないが、それは単なる偶然であってそこに何か意図的なものを感じたことはなかった。
そしてまだそれほど親しくしていないが、その短い時間でも彼がストーカーのような行為をする人間には見えなかったどころか、彼の人柄はさっぱりとしていて好ましかったのも事実だ。
だから彼がそう言うのなら本当に散歩の途中なのだろうし、自分に対して好意を持っているわけでもないのだろう。
それにしても――
「ねぇ、お姉ちゃん、どうしたの? もしかして疲れちゃった? もう鬼ごっこやめようか?」
去って行く長澤の背中を見つめながら自分の世界に没入していると、突然かけられた日葵の声にハッと現実に引き戻される。その落差に一瞬眩暈がしたような気がしたが、次の瞬間には顔にいつものプライベートな時の笑顔を浮かべると弟妹に向かって叫んだ。
「疲れてないから大丈夫。そうね、もう少し鬼ごっこしようか。さぁて、誰から捉まえちゃおうかなぁ――それっ!!」
「きゃー!! あははは」
「お姉ちゃん、こっちだよー!! あははは――」
長澤の思惑がどうであれ、今の自分には増田という立派な恋人がいる。
昨夜は色々と先走って彼の家から喧嘩別れのような形で帰ってきてしまったし、その後の彼からのメールも既読スルーを決め込んでいたが、とにかくこれから一度連絡をとってみよう。
……それは後で家に帰ってからでもいいだろう。とりあえず今は弟妹の相手をしてあげたい。
背の高いマンションに囲まれた夕暮れの迫る小さな公園に、年の離れた姉弟達の歓声が響いていた。