舞と増田 其の四 理解できない自分の気持ち
MK通商の高峰と名乗る男に突然声を掛けられた舞は、話を最後まで聞かなくても彼が何をしに来たのかはすぐにわかった。
これまでも舞は数多くの男に告白されてきたので、相手がその手の要件で現れた場合はすぐに察することが出来る。確かに社会人になってからはこれが初めてではあったが、男が自分に好意を伝えようとする姿は高校の時と同じだったからだ。
しかしここは高校とは違うのだし、相手はこの会社の取引のある会社の担当者なのだ。だから最低限相手の話は最後まで聞くべきだろうと舞は思った。
「あ、あの、東海林さん、これを読んでください」
「これは――」
目の前に差し出された手紙のような物を見つめながら、舞はどうしたものかと悩み始める。
明らかにこれはラブレターの類だろうが、ここでこれを受け取ると後々面倒なことになるだろう。受け取ってしまえばその内容を読まなければいけないだろうし、もちろんその返事もしなければいけない。
というか、いい歳した大人がラブレターとか、本気なのかと思ってしまう。そんなものは学生時代で卒業するべきで、大人であればもっと他にスマートなやり方があるのではないか。
見れば目の前で汗をかいている高峰は、年の頃は三十歳前後で明らかに女性慣れしていないように見える。
だからこそ自分の想いを伝えようと、思い切り重たいラブレターという形をとってきたのだろうが、舞にしてみればこの先の面倒を思うとこの手の物は受け取りたくはなかった。
そもそも今の自分には増田というやっと付き合い始めた恋人がいるのだから、この男にはどう転んでも興味を持つことは無い。だからこの場合は一切の期待を持たせない方が相手のためにもなるのだ。
「そ、その、ぼ、僕の想いをここに――」
「大変申し訳ありませんが、それは私には受け取れません」
思い切り高飛車に撥ねつけてやろうかと思った舞だったが、さすがにここでそれをするのは良くないだろうと思ってやんわりと拒絶の意思を示す。しかし相手は簡単には引き下がらなかった。
「い、いや、とにかく受け取ってくれればそれでいいんです。気が向いたら読んでくれるだけでいいから――」
「困ります。お気持ちはありがたいですが、とにかく受け取れませんから」
「お、お願いです!! 僕の想いを詰め込んだこの手紙を、受け取ってください!! お願いします!!」
明らかに舞が迷惑そうな顔で明確に拒絶の意思を示しているというのに、高峰はそんな事にはお構いなしに手紙を押し付けようとしてくる。そのうえ二人の悶着を帰宅途中の社員達が遠巻きに見ていても全く眼中にはないようだ。
あまりにも無神経なその行いに、舞としても余計に拒否したくなってしまう。
「とにかく本当に困るんです。私は誰ともお付き合いをする気はありませんので!!」
「それはこの手紙を読んでから――」
全く話の通じない相手にそろそろ本気で大声を出してやろうかと思っていると、それを先回りするように横から声をかけられた。
「ちょっと、困りますよ。そういう事は自分の会社でやってもらえますか、MK通商の高峰さん!!」
まるで注意を引き付けるようなその大声に、二人の顔が同時に向けられる。するとそこにはスーツを着たスラリと背の高い二十代中頃と思しき青年が立っていた。
「一体何しに来たか知りませんけど、こんな時間に勤務時間外のうちの受付嬢を捉まえて何やってんですか? 彼女嫌がってますよ?」
「い、いや、ちょっと渡したい物があって…… それを渡したらすぐに帰りますから」
明らかにこの会社の社員と思われる男の登場に、高峰の顔に緊張の色が現れる。
業務時間外とは言え、自分の会社の取引先の建物内でそこの受付嬢を捉まえているのだ。しかも相手があまり好意的とは言えないのを高峰自身も自覚していた。
それでもその手紙を読んでさえくれれば、自分の気持ちは伝わるはずなのだ。そもそも読んでもらわないことにはスタートラインに立つことさえできない。
「でも、彼女嫌がってますよ。見てわかりませんか?」
「いや、でも…… しょ、東海林さん、とにかくこれを――」
「嫌です!! 何度も受け取れないと言っています!!」
勤務時間中はいつも微笑みを絶やさない舞の顔に、明確な拒絶と嫌悪の表情が浮かんでいる。ここまでくるともう高峰の気持ちが伝わる以前の問題だろう。
「ほら、やっぱり嫌がってるじゃないですか。これ以上しつこくするなら御社に苦情を申し入れますよ、MK通商の高峰さん」
まるで強調するように高峰と彼の会社の名前を連呼すると、さすがにまずいと思ったのか高峰の勢いも下火になる。もしも本当に会社に苦情を入れられれば自分の立場も危ういと思ったらしく、舞に押し付けようとしていた手紙を引っ込めると、そのまま後退り始める。
「きょ、今日は渡せなかったけど、また今度来ますから。その時は受け取ってくださいね……」
未練たらたらにまるで負け惜しみを言うように去って行く高峰の背中を眺めながら顔にホッと安堵の色を浮かべると、舞は自分を庇ってくれた男性社員の方を振り向いた。その一瞬の間にまた顔にはいつもの微笑が復活していた。
「どうもありがとうございます。おかげで助かりました…… えぇと――」
「あぁ、不動産管理部の長澤です。初めまして――になるのかな?」
「そうですね。でもきっと毎朝顔を見ていると思いますが……すいません憶えていなくて」
「いや、いいよべつに。そもそもこの会社の全員の顔を憶えられるわけないしな。もっとも俺は君の事は知ってるよ。最近入った新人の受付嬢だろ?」
「はい、東海林です。名乗るのが遅くなり重ね重ね申し訳ありません」
「いや、いいってそんなに畏まらなくても」
長澤と話をするのはこれが初めてなので、舞が彼を知らなくても当たり前だろう。
いくら毎朝出勤してくる社員を迎えていると言っても、自分と関わりのある部署の人間であればともかく、別部署の社員まで全員憶えるなど出来るわけがないので彼女が自分を知らなくても当然なのだ。
しかし長澤は舞の事を知っていた。
もちろん毎朝出勤時にビルの入り口横に佇んでいる彼女の前を通るのだから当たり前なのだが、理由はそれだけではない。それは同期の月本に凄い美人の受付嬢が入ったと教えられた日の翌日に、興味が無くて今まで見向きもしていなかった受付カウンターの方を何気に観察していたからだ。
出勤途中の男どもがチラチラと視線を向ける中、にこやかに朝の挨拶をする舞の姿は長澤が思い描いていたよりも数倍美人で、その笑顔はとても輝いていた。大抵の男はそんな彼女の姿に見惚れてしまうだろうし、実際長澤もその中の一人だった。
「本当にありがとうございました。お礼はまた改めていたしますので、今日はこれで失礼します」
「あぁ、お疲れ様でした。それじゃあ、また」
深く頭を下げると、舞は別れの挨拶をして歩き出す。
しかし二人とも同じ方向に歩き出したにも関わらず、互いに口を開くことなくしばらく歩いていると、さすがにその沈黙に耐えきれなくなった長澤が話しかけた。
「あ、あのさ、もしかして東海林さんは電車通勤かい?」
「えぇ、そうです。S町から通っているんです」
どうやら舞もこの不自然な沈黙をどうしようか考えていたようで、先に長澤が話しかけてきたことにホッとしているようだ。さっきは助けてもらったのだから多少は愛想良くしておくべきだろうと思ったのかもしれない。
「えっ? それは偶然だな。俺もS町なんだよ。駅の近くのアパートに住んでるんだ」
「あら、そうなんですか? 奇遇ですね、私も駅の近くなんです。もともとS町ですか?」
「いや、出身はA県なんだけど入社した時に駅近物件を見つけてね――」
助けてもらったとは言え、未だ長澤に対して心を開いていない舞は只管当たり障りのない会話に終始して決して自らのプライベートな話をしようとはしない。その様子を敏感に感じ取った長澤も敢えて表面的な会話だけをするように努めていた。
長澤は以前から舞の事が気になっていたが、今それを気付かれると警戒されてしまうだろう。だからここはさらっと流すような会話だけをするように心掛けたのだ。
それでもお互いに同じ組織に所属している身内意識のようなものが感じられて、上辺だけでもそれなりに楽しく会話ができた。そして表面的には舞も彼との会話を楽しんでいるように見えた。
その後彼らはS町駅前で別れるとそれぞれの家に帰って行ったのだが、長澤は自宅アパートまで歩く途中にずっと舞の事を考えていた。
東海林舞。
彼女は自分が今まで会った中で一番綺麗な女性だろう。
少々気の強い性格を表すような釣り目がちな瞳と筋の通った鼻、そしていつも微笑を絶やさない薄めの唇が整然と配置されたその顔はとても美しく、恐らく170センチを超える身長も、日本人離れした肉感的なプロポーションもまるでグラビアモデルのようだ。
殆どの男は彼女の容姿に目をくぎ付けにされてしまうし、実際会社でも彼女に見惚れる男たちは多い。増田の同僚の月本もその一人で、最近の彼は舞の話をすることが多かった。
確かに長澤にも彼らの気持ちも理解できるし、実際あんな女性に自分の横を歩かせられたらこれほど優越感に浸れることもないだろう。
しかしその美しい外見に反して、彼女は男に対してどこか壁を作っているように感じる。
先ほどの高峰のラブレターを受け取らなかった様子からも、彼女が男からの告白を受け慣れているのがよくわかるし、自分に言い寄る男を見る彼女の眼差しは冷たく冷めて、いくら顔に微笑みを浮かべていても内心では男を蔑んでいるようにしか見えなかった。
彼女と直接話したのはさっきが初めてだ。
だから自分が彼女の事を何一つ知らないのは当たり前だろう。
これまではずっと会社の受付席に座っている姿を見ていただけなので、自分が彼女の何を知っているのかと問われれば、自分は何も知らないと答えるしかない。
実際、自分は彼女の年齢さえ知らないではないか。
同期の月本は二十三、四歳だと言っていたが、いつもばっちりと決めた化粧と落ち着いた物腰のせいで自分は二十五歳前後だと思っていた。しかし今日実際に話してみてわかったが、やはり月本の言う通りもう少し若いのかもしれない。さすがに初対面の女性に年齢を聞くのは失礼なのでさっきは聞かなかったが、今度さり気なく訊いてみよう。
それにしても自分はどうしてこんなにも彼女の事が気になるのだろう。
遠目から受付席に座る姿を見ている時には確かに綺麗な人だとは思ったし、さっきは近くで見てその外見に気圧されたが、いざ話をしてみると意外と話しやすくて驚いた。
あんな短時間でしかも表面的な会話しかしていないにも関わらず、彼女の意外な人柄にも惹かれる自分がいるのだ。これではさっき退散させた高峰という男と何も変わらないではないか。
一体自分はどうしてしまったのだろう。
自分で自分の事がわからなくなる長澤だった。